メタボリックがとまらない ver.7 東京出戻り編 -2ページ目

メタボリックがとまらない ver.7 東京出戻り編

副題 : もう遠距離の異動は無いだろう

ふと思ったのですが、もし韓国でも日本の甲子園と同じような大会があり、そこに日本人学校の野球チームも参加できたとして、日本人学校のチームが勝利した時に日本語の校歌を歌ったとしたら、どのような事が起きただろう?
まあ日本語のアニメソングが、韓国メディアで流れただけで、大騒ぎとなるのが韓国の実態ですから、日本人学校の野球チームが、勝利後に日本語の校歌を歌った時点で、蜂の巣をつついたような大騒ぎとなるのは予想に難くない。




https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E8%A1%86%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%B5%81%E5%85%A5%E5%88%B6%E9%99%90


今では解禁されているそうですが、韓国メディアは自主規制しているというのが、韓国国内における日本語の歌の実情である。
「大衆歌謡だけでしょ?」と、呑気な事を言う人もいるでしょうが、国として日本語の歌や文化を国禁扱いにしてきた歴史がある以上、韓国国内では日本語の歌や文化がタブーとして染み付いていると考えた方が自然。
タブーとして染み付いている以上、これが即座に韓国全体で受容されると考える方が不自然であり、大統領時代に朴槿恵が韓国を代表して言ったように、千年経っても韓国人はタブーとして捉え続ける可能性は否定できないし、今までの状況から見れば、タブーとして捉え続ける可能性の方が高いと見る方が自然なのだ。
 



「差別」について批判する日本人の多くが、日本人が行なう差別について敏感だけど、日本人や日本に対しての差別については鈍感というか、あえて目を逸らしているように感じる。
日本人が「朝鮮人」と呼ぶ事は差別と言うが、韓国人が「チョッパリ」とか「倭奴」と呼ぶ事について何も言わないというのは、差別本体を批判しているのではなく、ただ日本人や日本を批判しているだけなのではないか?
「言われるだけの事を日本はしてきた」と反論するのであれば、「差別」という言葉を用いず、堂々と日本批判をすれば良いだけの話ですが、そのようにして自分達が批判される事を防ぐ為に、「差別」という言葉を持ち出して利用するのは、とても卑怯な使い方だと思う。




「差別」を批判するのであれば、人種や国籍に関係なく差別を批判すれば良いし、そのようにしない限り、「差別」という言葉を都合良く利用する人達は、結局のところ新たな「差別」を生み出す母体にしかならないと、私は思っている。

京都国際高校が、夏の甲子園で優勝したとの事ですが、勝った後の校歌斉唱で流れた校歌が、まんま韓国語だったという事で話題となっていた。

京都国際高校は、元の名前が京都韓国高校との事で、日本人も受け入れるようになって、今の京都国際高校という名前になったのだそうですが、校歌が韓国語という点から見て、今でも民族学校としての色が濃い学校だと言えるだろう。

まあ高野連が参加を認めている以上、京都国際高校が甲子園に出ようが、甲子園で優勝しようが、それ自体に問題は無い。





とは言うものの、甲子園で韓国語の校歌が流れるという事について、釈然としないものを持った人が出てくる事も、別に不思議な事ではない。

この釈然としない気持ちを持った事について、やれ差別意識だ何だと批判する人も当然いるでしょうが、釈然としない気持ちを持った理由について、差別意識とか差別感情とかいった事を、全ての理由だと結論づけるのは、1つの考え方に凝り固まった結論なのではないか?





甲子園の高校野球、特に夏の大会というのは、各都道府県の代表が争う大会である。

この「各都道府県の代表」という認識や伝統の中に、「民族の代表」という学校が参加したら、そして韓国語の校歌を歌い、韓国の主張のまま、日本海を東海としている校歌が歌われたとしたら、見ていた日本人の大部分の中に、釈然としない気持ちが出てくるのは不思議ではない。

仮にこれが、日韓両国で行われた高校野球の優勝校が戦う、日韓戦のような大会だったとしたら、韓国の高校が韓国語の校歌を歌おうが関係ありませんが、日本国内の「各都道府県の代表」が戦う甲子園大会で、「民族の代表」な学校が、「民族の言葉」で作られた校歌を歌うのだから、釈然としないのである。





日本人に門戸を開いたとはいえ、韓国語の校歌を歌う高校が、例えば平安高校や龍谷のように、京都代表として京都府民から認識されるだろうか?

そして他の都道府県に住む人から見て、韓国語の校歌を歌う高校が、京都代表として見られるだろうか?

差別意識とか差別感情とかを抜きにして考えた時、地元愛や地元意識とは違う、「民族意識」を表面に出されてしまったら、それは出した側が自ら壁を作り出しているのではなかろうか?





京都国際高校が、本当の意味で「日本人」に門戸を開くのであれば、そして地元から愛される、地元の高校としてこれから進みたいのであれば、校歌を日本語にすべきであるように私は思う。

とあるゴルフクラブ系YouTubeを見たのですが、その回は人気のユーティリティを紹介する回。

ピンのG430やらゼクシオやらが紹介されていたんですけど、ユーティリティの機能を説明するにあたって、「ロングアイアンの代わり」という言葉が何回か出てきまして、かなり違和感を感じた。





確かにユーティリティが生まれた発端はロングアイアンであり、ロングアイアンより易しいクラブを目指した結果として、ユーティリティと称されるクラブが出現した。

その傾向は今でも残っているのでしょうが、今でも同じコンセプトで開発されているのかと言われたら、アイアン型のユーティリティを除けば、そのようなコンセプトは残っていないように感じる。

まあ、ロングアイアンと同じ長さで、ロングアイアンより上がりやすいというコンセプトだけを見れば、ユーティリティ草創期のコンセプトは生き残っているけど、様々なユーティリティが生まれ、そして年代を重ねてきたという状況を見れば、ユーティリティはユーティリティとして、独自の進化をしてきたと考えた方が正しい気がする。





ロングアイアンが、より難しくなった理由として、ボールの変化や進化が挙げられる。

スピンが嫌でも入る、糸巻きバラタカバーのボールであれば、ロングアイアンでも充分なスピン量を確保可能だったものが、今のようなソリッドボールに変化した事で、糸巻きバラタカバーほどのスピン量が得られなくなり、普通のヘッドスピードのゴルファーでは、地面から充分な高さを出せなくなってしまった。

それによって、どのような影響が出たのかと言えば、ロングアイアンでカバーしていた飛距離帯が、ごっそり空白地帯になったという事態となった訳で、そのような事態に対応する必要が、メーカーに求められたという事であり、これはボールの変化や進化と同時進行。

ユーティリティが出現したのも、ほぼソリッドボールの一般化と同時期であって、ボールの変化がユーティリティを生み出したと言える。





ロングアイアンでカバーしていた飛距離帯を、この記事では仮に「ロングアイアン帯」と呼びますが、ロングアイアン帯をカバーする為には、別にロングアイアンの改良に拘る必要は無い。

確かに初期のユーティリティについては、「ロングアイアン」という言葉に縛られた設計がメインでしたけど、「ロングアイアン帯のカバー」という事が目的だと気づけば、ロングアイアン形状に縛られる必要は無いのであって、ウッド形状の小型化という視点から設計する事も可能で、そのような視点からの成功作が、キャスコのパワートルネードだと思う。





メーカーは「ロングアイアン帯のカバー」という視点で、クラブ設計に勤しんできましたが、それを紹介するゴルフ業界においては、そのような変化を紹介する言葉において、変化や対応が遅れているのではないか?

もはやロングアイアンは一般的ではなく、ロングアイアンを打った事があるゴルファー自体が少なくなっているというのに、未だに「ロングアイアンの代わり」と言い続けるのは、いささか不勉強なのではなかろうか?

そのような状況下においては、もはや「ロングアイアン帯」という言葉も時代遅れで、「ユーティリティ帯」という言葉の方が、今のゴルファーには理解しやすいのではないか?





クラブが生まれた経緯を伝えるのも大事だけど、いい加減「ロングアイアンの代わり」という言葉で、ユーティリティを説明するのは止めた方が良いと思う。

https://news.yahoo.co.jp/articles/b299c616c58cf78312b215fcf2f4af71f568a078


「雉も鳴かずば撃たれまい」と言いますが、「バカも言わずば叩かれまい」といった感じの発言を、東国原氏がしたのだそうな。
「訳知り顔」で発言したのだと思いますが、ちゃんと調べもせずに発言するのを見てると、「沈黙は金」という言葉を思い出してしまう。




さて、東国原氏の発言が正しいとするのであれば、「特攻平和会館」は、特攻賛美、戦争賛美をする為の施設という事になるのですが、そのような目的の為に作られた施設なのだろうか?
そのように受けとめる人がいても不思議ではないですが、この施設が作られた目的とは、特攻の実相を後世に伝える事なのであって、それをどのように受けとめるのかについては、見に来た人に委ねられる。
特攻という作戦と、それに参加した若い兵士達の考えていた事、そして今を生きる自分達とを比較して、どのような感想を持つのかについてまで、この施設は責任を負わない。




もし早田選手が同じ趣旨で、特攻平和会館ではなく、例えば旧満州の731部隊の施設やハワイの真珠湾にあるアリゾナ記念館、そしてポーランドのアウシュビッツに訪れたいと発言していたなら、いま騒いでいる人達は、同じように騒いでいたのだろうか?
私は騒がなかっただろうと思っていますが、なぜ彼等が騒がないだろうと思うのかと言えば、それは日本兵が被害者の中に含まれないからで、「平和について考える」ことよりも、日本兵が被害者の中に含まれているか否かが、彼等の騒ぐ基準だとしか言いようがない。
「平和教」の信者である人達にとっては、「日本兵=悪」「日本人=悪」という図式が絶対ですから、日本人のみが対象となるような施設や、日本人のみが対象となっているように見える施設に行って、平和について考えるなんて事は、絶対悪を信奉し賛美する人にしか見えないのだ。




平和について考える事とは、そのように偏狭な見方でしか考える事が強いられる事なんだろうか?
被害者の身になって考える事しか許されず、時代は変われど同世代の同じ日本人として考える事は許されないのだとしたら、それは一方的に「平和教」の教義を押しつける事と同じ。
ましてや、自説に沿う海外の一部の意見だけを持ち出し、あたかも全世界共通の認識であるかのように説明するのは、典型的な偏向でしかないのであって、そのような偏向を押しつける事こそが、全体主義の発端だと私は思う。




東国原氏の発言は、戦後行われてきた「平和教教育」に基づく偏狭な発言。
平和について考えるのであれば、日本独自の「平和教」という教義から外れて考える事も、別に問題は無いのであって、逆の見方をすれば「平和教」の教義を無批判に受け入れ、平和について考える事を止める事こそが問題なのではないか?




昭和を批判しつつ、昭和の考え方を無意見で墨守する事こそ、私は矛盾しているように感じる。

https://l.smartnews.com/L2vvq


早田ひな選手の発言に対して、古市氏の番組内での発言が批判されているのだそうな。
まあ早田選手が発言してない文言を出して、コメントしてしまったのだから、批判されても仕方がなかろう。




古市氏は、結構な確率で発言が炎上する人ですが、今回の発言を見ていて感じたのが、瞬発力を求められるテレビ番組のコメンテーターとしては、あまり向いてない気がする。
講演会や2人だけで行なう討論番組とかなら、古市氏のスピードで問題無いと思いますが、ニュース番組でのコメントや、複数人で行なう討論番組等の、短い時間の中で正確に聞き取る瞬発力と、適切な言葉を選ぶ瞬発力において、古市氏の能力は足りないように感じるのですが、それは自説を主張する気持ちが強すぎる事が要因だと思う。




今の私は、ほとんどテレビを観る事がありませんが、たまに観ていて感じるのがCMの多さ。
それこそ昭和の時代のテレビ番組なら、15分ごとに3本のCMといった感じでしたが、今のテレビ番組を観てると、何かあるたびにCMに入り、その本数も3本どころではない。
番組の頭と終わりにCMが入るのは、今も昔も変わりませんが、とにかく番組途中のCMの多さは、観る気が失せるほどの多さだと言える。




そのような状況の変化に、今のコメンテーター達は気づいているのだろうか?
何かニュースが流れ、それに対してコメントするという流れ自体は変わらないが、CMとCMの間にある、番組の時間が短くなっているという事を、どうも気づいていないように私は思う訳で、その短い時間の中で正しく聞き取り、適切なコメントを出すというのは、今まで以上に能力が求められるという事を、どうも気づいていないように感じる。
例えば久米宏時代のニュースステーションであれば、20秒のコメント時間が与えられていたものが、今では10秒しか与えられないのだとすれば、炎上しない為には、今まで以上に正確な聞き取り能力と、適切なコメント力が求められるはずなんですが、昔の感覚のままだとしたら、自身のコメントで炎上しても仕方ない。




今の時代のコメンテーターは、与えられた時間の短さを前提に、コメントする事が求められる。
そこに自説や、自説から生じる思い込みをコメントする時間は、今のニュース番組の作り方では無いのであって、自説を述べたいのであれば、自説を述べる時間を多く持たせてくれる番組を選ぶしかない。
ましてやSNSが普及した現在においては、自分の発言に対する反応が、すぐ表面化するんですから、CM前の言いっ放しみたいな手法すら、もはや通用しなくなっている。




と、長々と書いていましたが、古市氏は今のニュース番組のコメンテーターとしては、能力不足だと私は思っている。
https://l.smartnews.com/Be6co


卓球の早田ひな選手が、日本に帰ったら何処に行きたい?という質問に対して、「アンパンマンミュージアムに行きたい」「特攻平和会館に行って、自分が生きているのと卓球ができているのが当たり前じゃないことを感じたい」と回答しましたが、それについての反応が色々と出ていて興味深いですし、ちゃんと最後まで発言を聞かない人の多さと、自分の持つフィルター越しにしか聞けない人の多さも興味深い。




あの界隈の人達は、どうも言霊信仰に取り憑かれているのか、「特攻」という言葉を聞いただけで、発言者が戦争賛美者であるかのように感じてしまうようだ。
そして「特攻平和会館に行く」と聞いただけで、発言者が「特攻で散った兵士達のおかげで今の日本がある」と考えているのだと、脊髄反射的に捉えてしまうようですが、早田選手の発言の中に、そのような文言は無かったりする。
自分達の中に在る、無意識のフィルターを通す事で、早田選手の発言を言葉通りに受け取れないだけの話なんですが、無意識のフィルターであるが故に、自分達の中にそのようなフィルターが存在している事に気づいていないのだろう。




今回の早田選手の発言を聞いて思ったのは、早田選手は日頃から平和について考えているのだという事。
早田選手は現在24歳なんだそうですが、自分と同世代、もしくは年下の世代の若者が、戦争によって特攻に行かざるを得なかったという事実と、今を生きる自分とを比較して、平和とは何ぞや?という事を考えていたのだと思う。
そこには、「平和の時代マジ感謝」みたいな薄っぺらさは無くて、何故ここまで違うのか?といった疑問から、何かを確認する為に特攻平和会館へ行ってみたいと発言したのではないか?
今までの日本の常識においては、かなりセンシティブな発言に見えますけど、そのような疑問を持ち、それを確認してみたいと考える事自体は、正しい考え方だと私は思う。




平和について考えるには、様々な角度からアプローチする事が必要。
平和について考えてみる際に、戦争について考えてみる事は、アプローチとして間違っていないのであって、平和について考える際に、平和だけに固執してアプローチするのは、偏ったアプローチ手法でしかない。
1人で様々なアプローチをするのも良し、色々な人が色々なアプローチをするのも良し、それが平和について考える事の多様性であって、自分の考えを押しつけるのは、1つの見方を押しつけるのと同じ。




あの界隈の人達は、自分達が「平和教」の信者であるという事を理解すべきだし、そこから端を発する無意識のフィルターの持ち主である事を理解すべきだろう。
前の記事で「戦時広報」と「戦時報道」という言葉を使いましたが、きちんとしたオフィシャルな定義が在るのかどうかは調べていない。
これらの言葉について、個人的な定義は持っていますが、その定義が正しいのかどうかも判断出来ないんですけど、私なりの定義と見解を書き連ねてみる。




戦前の国民の三大義務は、納税・教育・兵役でしたが、実際にお金を納める納税と、体を提供する兵役に関しては、その使われ方について国民は知る権利を持っていた訳で、使い方については政府が広報し、国民の代弁者たるマスコミは、使われ方について知る権利を行使した。
例えば日露戦争の時、兵士や武器を載せた常陸丸という輸送船が、ウラジオストック艦隊によって沈められ、日本国民や野党の政治家、そしてマスコミから大きな批判がされましたが、これは税金で購入した武器や、血税として出征した兵士達が、戦場にたどり着く事なく沈められたから。
いわゆる大本営発表とは、税金や血税の使い方を伝える「戦時広報」で、だからこそ作戦の結果や被害について国民に知らせるのであり、その戦時広報である大本営発表に対して、その使われ方が正しかったのかを検証し報道するのが、マスコミが行なうべき「戦時報道」であろう。




戦時広報にせよ戦時報道にせよ、その中心に在るべきなのは、「税金が正しく運用されているのか?」という考え方だと思いますが、戦前から現在に至るまで、上記の考え方をもって、戦時広報や戦時報道が検証されてこなかった。
「軍部の暴走」とか「大本営発表」とかいった言葉で批判する事はあっても、戦前に軍事予算支出に対する批判報道は無く、戦中に現実と異なる大本営発表に対する批判報道も無かった訳で、「挙国一致」という言葉を隠れ蓑にして、マスコミは自分達が「国民の代弁者」という立場を放棄していた事を隠し続けている。




肝心な時に、「国民の代弁者」という立場を放棄したマスコミが、戦後の政府を批判する時に「国民の代弁者」という立場を利用するのは、正直言って噴飯物ですが、それについて自身の検証も反省もしようと思わないマスコミは、都合に合わせて「国民の代弁者」である事を放棄するだろうと、私は思っている。
https://www.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2024081480021


福島原発の処理水放出の影響について、韓国は1.5兆ウォンもの大金を掛けて、自国海域内の調査や日本から輸入した水産物の調査をしてきたそうですが、処理水による影響が無いという結果が出たのだそうな。
まあ指でホコリが無いかを確認する、姑の嫁いびり的な粗探し感覚で、大金を掛けて調査していただけだと思ってますが、あれだけ汚染水と叫び続けてきた韓国の調査結果ですから、未だに日本で「汚染水」と主張し続ける人達にとっては、とても安心出来る調査結果であろう。




この朝鮮日報の記事の面白いところは、自分達が主張してきた「汚染水」による被害予測については、あたかも存在しなかったかのように隠しており、もっぱら政府が多額の税金を無駄遣いしたという主張をしている事。
「処理水」を未処理の「汚染水」として主張し続けた結果、韓国国民の不安を煽り、その不安を韓国のマスコミが「代弁」して問題化した事によって、韓国政府は処理水の影響を調査する為に予算を投じたのですから、その調査結果が意にそぐわない結果であったとしても、韓国国民の不安の解消には役立ったはず。
この調査に多額の税金が使われる事への、韓国国民の「不満」については、韓国マスコミは「代弁」してこなかったのですから、多額の税金が使われた事について、韓国マスコミが批判する資格は無いと思いますが、どこの国のマスコミでも、過去に自分達が行なった「代弁」については忘れてしまい、新たな「代弁」をして回るのである。




明日は8月15日ですが、昭和の戦争に関するマスコミの対応について、当のマスコミ自身は批判や検証をする事が無い。
マスコミは「戦時広報」である大本営発表を批判しますが、マスコミ自身が行なった「戦時報道」については、全くと言ってよいほど批判も検証もしてこなかった訳で、マスコミが他者から批判された時の合言葉は、「軍部の締めつけ」や「報道の自由が無かった」といった言葉ですが、これは非常におかしな言葉である。
なぜなら戦争が始まる前には、「国民感情」を「代弁」してるとして、反米感情や反英感情、そして反中感情も煽っていた訳で、先に中国との戦争が始まった際には、日本国民の意に沿った戦争であるという姿勢で、各マスコミは従軍記事を報道し続けた。
そして戦争に反対する人達に対しては、国民の意思に反する「非国民」と位置づけて、国民感情を「代弁」して批判したのですが、自ら生み出した「国民感情」を「代弁」した事について、そしてその「代弁」によって、当時の日本政府が戦争へと舵を切った事について、日本のマスコミは自身を批判や検証してきただろうか?
実際に日本のマスコミが戦後行なってきたのは、新たな国民感情を「代弁」してきただけであって、そのような日本のマスコミが、昭和の戦争を批判する資格は無いだろう。




今もマスコミは、誰かの「代弁」をする事だけに終始していて、自分達が過去に「代弁」した事について隠してまわる。
そのような存在であるという事を、我々は忘れてはならないと思う。

BoA付きなゴルフシューズと、靴紐なゴルフシューズについて、一長一短という言葉がピッタリだなあと常々思っていて、新しくゴルフシューズを購入する時には、BoA付きのゴルフシューズと、紐付きのゴルフシューズを、交互に購入する流れが続いている。





BoAの良いところは、楽に絞められるという点に尽きますが、楽に絞められる分だけ緩むのが早い。

靴紐の良いところは、足をきちんとホールドしてくれる事と、なかなか緩まない事ですが、BoAと比較したら結わえるのが手間である。

BoAに慣れると緩みやすさが気になり、紐靴に慣れると靴紐を結わえるのが面倒になるという、そんな流れを繰り返してますが、我ながらアホだとも思う。




どちらの優位性を取るのかは人それぞれですが、本当は紐靴の方が良いのだろうなあ。

ここ最近の様々な政治的運動や主張、例えばLGBTQやポリコレ等によって、先進国と呼ばれる地域ほど、それら政治的運動や主張によってグチャグチャになっているように感じる。
そして、このような主張を叫んでいる人ほど、進歩的と認識される風潮があると感じていますが、そのように私には思えなかったりする。




「法の下の平等」というのが、成文化された法律やルールを持つ国々にとって、最も重要な決め事だと思いますが、昨今の様々な政治的運動や主張を見る限り、どうも「法を超えた平等」という事を求めているように感じる。
「法の下の平等」というルールが在るから、差別という物が明確に規定されるというのに、「法を超えた平等」を主張し始めたら、そこには差別という物の明確な規定が無くなってしまう。
そのような規定が無くなってしまったら、それは成文化された法律やルールを持たない、古代の神権政治と何ら変わらないのであって、誰も知る事が出来ない法律やルールを振りかざして、自分達の都合に合わせて物事を決める事が出来てしまうのだ。
それを指して、今の日本では「被害者ビジネス」と呼んでますが、今のLGBTQやポリコレの動きを見てると、何をもって「差別」としているのか曖昧なまま、自分達は被害者であり、守られるべきであると主張する、現代の神権政治の様相を見せているように感じる。




ほとんどのスポーツは、肉体の優劣を競う競技である以上、肉体の性差を無視して、男女が同じ場で競い合うのは無理である。
ルールを把握してませんが、例えば道具を使う射撃などでは、男女が同じルールで競い合う事も可能かも知れませんが、ほとんどのスポーツは肉体の優劣を競い合う競技である以上、筋肉の付きやすい男性の方が、女性より良い成績を出しやすいのが現実。
今回の場合は、なかなか厄介な障害を持った選手だったそうですが、XY染色体を持っている以上、XX染色体しか持たない女性と比べて、体格や筋肉の付き方に優位性が生じる訳で、それを体重別の階級だけで出場を認めるのは、逆にXX染色体しか持たない女性が不利になるのは明らかである。




LGBTQやポリコレを叫んでいる人達は、主張の為の主張を繰り広げるばかりで、現実に目を向けようとしない。
被害者の側に寄り添っているつもりなんでしょうが、それは「自分達の考える被害者像」や、そのような被害者像と同じ主張をする被害者達に寄り添っているだけ。
結果的には、マイノリティの中のマイノリティにしか目を向けていない。




無理を通して道理が引っ込む事で、マイノリティの大多数が迷惑するのではないか?