寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉丑三つ時頃
或る男に、死期が迫っていた。
鴨川のせぜらきと冷たい夜風の凪ぐ、左京の東の堀川通と今出川通が交わるあたり。普段は内裏から遠く離れたこの辺りは昼でも寂しく、夜は尚、空の星々の光のみが町に照り、一層寂寥の感を募らている。そのような有様からいつ、百鬼夜行の行列が道の向こうからやってきても可笑しくはない。いや、正確には過去にはあった。あの時は鴨川の向こう、六波羅から夜な夜な災厄を抱えて数多もの鬼が列を成して川を渡り、京を闊歩して、貴族たちを恐怖に貶めた。だから男は敢えてここを選び、屋敷を構えたのだろう。やがて妖魔たちは男の発する異様な気配を恐れ、慌てて逢坂の関を越えて遥か東へと散り散りに逃げて行った。
今、そこでは多くの地位のある貴族の牛車や名高い武士の馬とが屋敷の前に止められ、その多くの灯火が町を照らす。その騒ぎと明るさに目を覚ました界隈の町人たちが家の戸から、窓から「何事や」「何事ぞ」と顔を出し、囁き合い、様子を見ている。そこにまた、堀川通から貴族が乗った牛車が一台、駆けてきた。牛車は本来、移動機能よりも使用者の権威を示すものなので、駆けているとはいえゆっくりとした感が否めない。十数秒の後、牛車は屋敷に止ま……る前に貴族が飛び降りた。貴族は一般人に顔を見られるのを憚るが、その貴族は焦りでそれを忘れているのか、生来の豪快さがなせるのか、そのまま灯火に汗を光らせて走りながら屋敷へ入って行った。
この貴族が、時の左大臣、及び藤氏長者にして後に栄華を極め、「御堂関白」と呼ばれることになる藤原道長である。
屋敷の中の一室は、中央に敷かれた布団に横たわる、痩せ老いた男を多くの人々が幾重に囲んで涙を浮かべていた。誰かが来る度に男は弱弱しく首を前後に振って一瞥し、時には苦しみに耐えて起きようとする素振りさえ見せたが、その都度、弟子らに「無理をしませぬよう」と止められ、悔しそうに介抱されながら再び横たわった。それを見て人々は「あれほどの者が」「これからの御代はいかに」と更に嘆いて涙した。
だが、藤原道長が服装を乱したまま、汗か冷や汗かを流しながら、驚愕と悲壮の混じった表情で入ってくると、男は周りの制止を酷く震える手を辛うじて持ち上げて振り切り、ゆっくりと、ついにとうとう体を起こした。
「久しいな……。東三条の左大臣殿、であるか」
激しく揺れ、掠れて暗い視界に道長を捉えた男は、確認するかのように声を搾ってそう呟いた。その様子に今まで多くの政敵を非情に処したあの道長さえ、とうとう涙を流した。
「よい、晴明殿。横になられて、一時でも生きながらえば……」
「本当は分かっておろうに、そう申されるとは左大臣殿も酷くなった。我が身の事ぞ、もう知っとるわ」
そう言い終えると、男は周りを見渡し、客人を見た。横に小野宮流当主の権大納言藤原実資、同じく小野宮流で歌人として名の知られた中納言公任、道長の兄の大納言道綱、道長の嫡男・頼通。
一方、武士からは名門・清和源氏の棟梁にして、鬼退治で名高い源頼光と、その従者で半妖と噂される坂田金時。向かいにはこれも妖怪退治で名高く、余五将軍と称された名門・桓武平氏の平維茂。
そうそうたる顔面を見渡し終わらないうちに、弟子の助けでやむなく男は再び横たわった。
「そなたは長らく、昔は朱雀帝の御代より、我が藤原の家には曾祖父の貞信公(藤原忠平)からこの京の安寧の為に尽くしてくれた。だが、長き安寧を願うも、世は今も安定せず、結界が破られればたちまち、疫病と災厄と共に妖鬼の類が入ってくるだろう。都の外には、南都北嶺を除く地域は妖鬼が彷徨うておる。」
「これも末法の世は近いのか……」
と、源頼光。
「晴明殿、あなたの持つ御技ををこの維茂に授けて頂ければ、武名を懸けて帝を護りみせましょう!」
「黙れ、坂東の田舎侍が。《帝を護る》? 身分を知れ! かの平貞盛の息子だからとッ、調子に乗るな!」
晴明に迫る維茂に、向かいの藤原道綱が肩を怒らせて噛み付く。
「何だと!? ほう、大納言殿、やはり主らは主上などどうでも良いのだろう! 藤原家繁栄の為に数代、二百年間かけて帝を血で従わせ、その即位、退位も操る。主らが居なくなれば――――」
「いい加減にせよ! 兄上、維茂、言いたいことは分かるが、場をわきまえろ。だから兄上はこうして弟に藤氏長者を奪われるのじゃ!
――――申し訳ない、晴明殿。兄上と従者の無礼を許していただきたい」
二人の際限無い争いに道長が介入し、二人はきまりの悪い表情で俯いている。それを見て、
「私の陰陽術か。あれに名前は付けられぬが、正体は察しがつかぬか? 維茂殿よ。貴殿に関わりのある事柄じゃ」
「いや、何も」
「そうか。あれは……」
ごほっごほっ、と乾いた咳が苦しそうに漏れる。
「もう時間が無い……。だが、その内分かるだろう。全ては次の世代に託されるのだ。まずは二十三年後、これより遥か東の地、碓氷峠の向こうで」