ああいつの日か 誰かが果てしない…(仮)

日々の趣味+デュエルマスターズを主に綴るぜぇ! なブログ。
ブログ名は未だ仮名です(汗)

最近は主にtwitterで活動しています→https://twitter.com/tomoshibi6o6o
twitterで収まらないときなどにブログ、という感じでいこうかと思いますよ。

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 その男は、一万と五千回太陽が空を廻る間は南国スペインの王だった。またその内一万と三千回月が廻る間は世界の覇者、古代より続く由緒あるローマ帝国の皇帝であり、神の庇護者だった。

しかし、男はやつれていた。帝国と皇帝の座は容赦無く男から金と、人と、生命力を奪った。治世の末期、その十年間は常に襲い来る痛み――痛風に悩み、遂にはほとんど馬に乗れなくなってしまう。
かつて騎士として世界の戦場を駆け回り、その名を轟かせ恐れられた男も、その末期は不覚にも駕篭に揺られ、周りの人の助力無くしては移動できない体となった。
が、それでも世界は男を求めていた。男の退場を許さなかった。

 帝国は分裂の危機の最中にあり、安寧の為に武力を以て、また神の庇護者として男は厳しく対峙する必要に駆られていた。
危機は帝国の中だけではない。西にあるフランス国の王は戦いを仕掛け、権謀術策を張り巡らし、帝国の諸侯を煽る。更にそれだけでなく、西の王の要求に応えて東の異教徒の大国オスマンの皇帝も男を倒すべく立ち上がった。
その数年後。異教の皇帝の壮麗な軍隊が東から楽器の音色と共に、地の果てから果てまで続くような列を成し、男の帝都を幾重幾重にも取り囲んだ。その時は運良く早い冬の到来に助けられて、軍隊と異教の皇帝はやむなく東へ戻っていった。
内憂外患、もはや男の帝国は建国から半千年紀という長い年月の経つ間にすっかり統一を失っており、病に伏していた。そんな帝国が死亡診断を受けるのはまだ一世紀も後の話である。

 戦いに次ぐ戦い。その軍資金は帝国からの徴収では賄えなかった。そもそも帝国内の諸侯が反感を抱き、時には戦争の相手がその諸侯なのだから、金など集まらないだろう。
男はやむなく、自国であるスペインから金――それは新大陸の住民を金山で酷使して得た物――を調達せねばならなかった。その金は全て容赦なく戦争へ消えた。

 痛風で悩む男が皇帝の座から退く決意を固めたのも、争いであった。
かつて自らの腹心として共に戦場へ赴き、その功を見て取り立てたある諸侯が反乱を起こしたのである。その衝撃に男はただ、何とか逃げ落ちることしか出来なかった。狼狽えた男は何もかも弟に委ね、次第に帝国の統治から離れ、四年後にとうとう引退してしまった。

「余は治世の間、世界を巡った」
「ネーデルラント・ブルゴーニュより西、そしてスペイン王位は息子へ」
「帝国の帝位と、ハンガリーら東は弟へ」
「帝位は弟と息子、その子孫が交互に継ぐ」

引退した後、男は故郷ネーデルラントではなく、喧騒な帝国ではなく、荒地の続くスペインの、とある山中の修道院を隠棲の地として選んだ。(続)
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  寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉丑三つ時頃

 或る男に、死期が迫っていた。

 鴨川のせぜらきと冷たい夜風の凪ぐ、左京の東の堀川通と今出川通が交わるあたり。普段は内裏から遠く離れたこの辺りは昼でも寂しく、夜は尚、空の星々の光のみが町に照り、一層寂寥の感を募らている。そのような有様からいつ、百鬼夜行の行列が道の向こうからやってきても可笑しくはない。いや、正確には過去にはあった。あの時は鴨川の向こう、六波羅から夜な夜な災厄を抱えて数多もの鬼が列を成して川を渡り、京を闊歩して、貴族たちを恐怖に貶めた。だから男は敢えてここを選び、屋敷を構えたのだろう。やがて妖魔たちは男の発する異様な気配を恐れ、慌てて逢坂の関を越えて遥か東へと散り散りに逃げて行った。

 今、そこでは多くの地位のある貴族の牛車や名高い武士の馬とが屋敷の前に止められ、その多くの灯火が町を照らす。その騒ぎと明るさに目を覚ました界隈の町人たちが家の戸から、窓から「何事や」「何事ぞ」と顔を出し、囁き合い、様子を見ている。そこにまた、堀川通から貴族が乗った牛車が一台、駆けてきた。牛車は本来、移動機能よりも使用者の権威を示すものなので、駆けているとはいえゆっくりとした感が否めない。十数秒の後、牛車は屋敷に止ま……る前に貴族が飛び降りた。貴族は一般人に顔を見られるのを憚るが、その貴族は焦りでそれを忘れているのか、生来の豪快さがなせるのか、そのまま灯火に汗を光らせて走りながら屋敷へ入って行った。

 この貴族が、時の左大臣、及び藤氏長者にして後に栄華を極め、「御堂関白」と呼ばれることになる藤原道長である。


 屋敷の中の一室は、中央に敷かれた布団に横たわる、痩せ老いた男を多くの人々が幾重に囲んで涙を浮かべていた。誰かが来る度に男は弱弱しく首を前後に振って一瞥し、時には苦しみに耐えて起きようとする素振りさえ見せたが、その都度、弟子らに「無理をしませぬよう」と止められ、悔しそうに介抱されながら再び横たわった。それを見て人々は「あれほどの者が」「これからの御代はいかに」と更に嘆いて涙した。
 だが、藤原道長が服装を乱したまま、汗か冷や汗かを流しながら、驚愕と悲壮の混じった表情で入ってくると、男は周りの制止を酷く震える手を辛うじて持ち上げて振り切り、ゆっくりと、ついにとうとう体を起こした。

「久しいな……。東三条の左大臣殿、であるか」

 激しく揺れ、掠れて暗い視界に道長を捉えた男は、確認するかのように声を搾ってそう呟いた。その様子に今まで多くの政敵を非情に処したあの道長さえ、とうとう涙を流した。

「よい、晴明殿。横になられて、一時でも生きながらえば……」

「本当は分かっておろうに、そう申されるとは左大臣殿も酷くなった。我が身の事ぞ、もう知っとるわ」

 そう言い終えると、男は周りを見渡し、客人を見た。横に小野宮流当主の権大納言藤原実資、同じく小野宮流で歌人として名の知られた中納言公任、道長の兄の大納言道綱、道長の嫡男・頼通。
一方、武士からは名門・清和源氏の棟梁にして、鬼退治で名高い源頼光と、その従者で半妖と噂される坂田金時。向かいにはこれも妖怪退治で名高く、余五将軍と称された名門・桓武平氏の平維茂。

 そうそうたる顔面を見渡し終わらないうちに、弟子の助けでやむなく男は再び横たわった。

「そなたは長らく、昔は朱雀帝の御代より、我が藤原の家には曾祖父の貞信公(藤原忠平)からこの京の安寧の為に尽くしてくれた。だが、長き安寧を願うも、世は今も安定せず、結界が破られればたちまち、疫病と災厄と共に妖鬼の類が入ってくるだろう。都の外には、南都北嶺を除く地域は妖鬼が彷徨うておる。」

「これも末法の世は近いのか……」

と、源頼光。

「晴明殿、あなたの持つ御技ををこの維茂に授けて頂ければ、武名を懸けて帝を護りみせましょう!」

「黙れ、坂東の田舎侍が。《帝を護る》? 身分を知れ! かの平貞盛の息子だからとッ、調子に乗るな!」

晴明に迫る維茂に、向かいの藤原道綱が肩を怒らせて噛み付く。

「何だと!? ほう、大納言殿、やはり主らは主上などどうでも良いのだろう! 藤原家繁栄の為に数代、二百年間かけて帝を血で従わせ、その即位、退位も操る。主らが居なくなれば――――」

「いい加減にせよ! 兄上、維茂、言いたいことは分かるが、場をわきまえろ。だから兄上はこうして弟に藤氏長者を奪われるのじゃ!
――――申し訳ない、晴明殿。兄上と従者の無礼を許していただきたい」

二人の際限無い争いに道長が介入し、二人はきまりの悪い表情で俯いている。それを見て、
「私の陰陽術か。あれに名前は付けられぬが、正体は察しがつかぬか? 維茂殿よ。貴殿に関わりのある事柄じゃ」

「いや、何も」

「そうか。あれは……」

ごほっごほっ、と乾いた咳が苦しそうに漏れる。

「もう時間が無い……。だが、その内分かるだろう。全ては次の世代に託されるのだ。まずは二十三年後、これより遥か東の地、碓氷峠の向こうで」
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【ベルナトッテ朝のこと】
現スウェーデン王家にもベルナトッテ(Bernadotte)朝は続いている。
フランス第1帝政下で、皇帝ナポレオン1世は北方の同盟国を求め、また当時のスウェーデン王家は断絶の危機にあった。
そうした両国の思惑の中、スウェーデン皇太子として白旗を立てられたのがフランスの軍人、ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット元帥であった。(ベルナドット→ベルナトッテ朝)

こうして迎えられたベルナドットは「スウェーデン皇太子カール=ヨハン」を名乗り、以後のナポレオン戦争においてはナポレオンと対立する。

ナポレオンがワーテルローで敗れた3年後、養父のカール13世崩御によりスウェーデン王カール14世=ヨハンとして即位した。この時既に55歳。皇太子として迎えられて8年後のことだった。

31歳で父とともに渡った息子オスカルも、40手前になっていた。
55歳の初老の、新しい国王はスウェーデン語を理解できず、理解には息子の助けを必要とした。

しかし、初老で即位したカール14世=ヨハンは思いの外長生きし、治世26年目の春に崩御した。

(死因に関しては、日本・スウェーデン版Wikipedia記載によった)

【第1世代】
カール14世=ヨハン 81歳(1763-1844 在位1818-1844)
《死因:日本版Wikipediaには記載がなかった為、スウェーデン版ウィキペディアより機械直訳を転載。
「カール=ヨハンの最後の病気はと1844年1月に始まった壊疽。1足で、朝に彼の第八十一誕生日、1844年1月26日で、6時位置に病に倒れ、突然彼は"嘔吐を伴う頭部を押すと血のフィット感"にと3月5日、彼が持っていたストローク完全と一緒に伴われた眩惑を。王は15.30で病気の42日後に眠ってしまった」
…血圧が高かったのか、糖尿病であったのか壊疽が見られ、頭部-脳梗塞か何かが止めになったと思われる。》
・子女
オスカル1世 60歳(1799-1859 在位1844-1859) 死因:後述
次代は息子のオスカル1世。


【第2世代】
オスカル1世 60歳(1799-1859 在位1844-1859)
《死因:翻訳でも分からなかったが、崩御の2年前に脳腫瘍にあったという。また過去に腸チフスの病歴有り》
・子女
カール15世 46歳(1826-1872 在位1859-1872) 死因:後述
グスタフ 25歳(1827-1852) 死因:腸チフス
オスカル2世 78歳(1829-1907 在位1872-1907) 死因:後述
エウシェニア 58歳(1830-1889) 死因:末端病気のため?
アウグスト 41歳(1831-1873) 死因:記載なし
次代は長男のカール15世。


【第3世代】
カール15世 46歳(1826-1872 在位1859-1872) 
《死因:腸結核》
息子は夭折していた為、王位は三弟のオスカル2世へ継承された。

オスカル2世 78歳(1829-1907 在位1872-1907) 
《死因?:アテローム性動脈硬化症、前立腺の病気と思われる》
・子女(以後、長寿傾向)
グスタフ5世 92歳(1858-1950 在位1907-1950) 死因:後述
オスカル 93歳(1859-1953) 死因:記載なし
カール 90歳(1861-1951) 死因:急性心不全
エウシェン 82歳(1865-1947) 死因:記載なし
次代は長男のグスタフ5世。

〈補足:オスカル2世妃のヴィクトリアは68歳で逝去。その外祖父は90歳で崩御したドイツ皇帝ヴィルヘルム1世であった〉


【第4世代】
グスタフ5世 92歳(1858-1950 在位1907-1950)
《死因:循環器系における気管支拡張症と年齢変化と慢性気管支炎》
・子女
グスタフ6世=アドルフ 90歳(1882-1973 在位1950-73) 死因:後述
ヴィルヘルム 80歳(1884-1965) 死因:心筋梗塞
エーリク 29歳(1889-1918) 死因:スペイン風邪
次代は長男のグスタフ6世=アドルフ。

〈以後、グスタフ5世の兄弟とその子女について。死因は省く。名前は他言語で翻訳してしまっているかもしれないので注意〉

二弟オスカル 93歳(1859-1953)
・子女
マリア 85歳(1889-1974)
カール=オスカル 86歳(1890-1977)
ソフィア 44歳(1892-1836)
エルザ 102歳(1893-1996)
フォルケ 53歳(1895-1948)

三弟カール 90歳(1861-1951)
・子女
マルガレータ 77歳(1899-1977)
マーサ 53歳(1901-1954)
アストリッド 29歳(1905-1935)
カール 92歳(1911-2003)

四弟エウシェン 82歳(1865-1947)
子女なし。


【第5世代】
グスタフ6世=アドルフ 90歳(1882-1973 在位1950-73)
《死因:肺炎 ※この頃他の病気も多く罹っており、体力が無くなっていたと思われる》
・子女
グスタフ=アドルフ 40歳(1906-1947) 死因:航空事故
シグヴァルド 94歳(1907-2002) 死因:記載なし
イングリッド 90歳(1910-2000) 死因:記載なし
ベルティル 84歳(1912-1997) 死因:老衰?
カール=ヨハン 95歳(1916-2012) 死因:記載なし 〈ヴィクトリア女王の曾孫で最後の一人〉
嫡男グスタフ=アドルフが航空事故に見舞われた為、王位は孫のカール16世=グスタフに継承された。

〈以後、グスタフ6世アドルフの兄弟とその子女について。死因は省く。名前は他言語で翻訳してしまっているかもしれないので注意〉

二弟ヴィルヘルム 80歳(1884-1965)
・子女
ソーニャ 64歳(1944-2008)

三弟エーリク 29歳(1889-1918)
子女なし。

【第6世代】
グスタフ=アドルフ  40歳(1906-1947) 
《死因:航空事故》
・子女
マルガレータ 79歳(1934-)
ビルギッタ 76歳(1937-)
デジレ 75歳(1938-)
クリスティーナ 69歳(1943-)
カール16世=グスタフ 66歳(1946- 在位1973-) ※現国王


第4世代以降、長寿の傾向が現れており、事故や医療の不発達によって治せない病(腸チフス、結核)を除けば、90代になる人が少なくはない。
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ここで記す清和源氏は貞純親王の子・源経基の流れ。

源経基(みなもと の つねもと)???~961
ああいつの日か 誰かが果てしない…(仮)
清和源氏の祖。父は常陸や上総の国司だった四品・貞純親王。母は文徳源氏で右大臣・源能有娘
また、貞純親王が清和天皇の第六皇子だったことから《六孫王》とも。
初めて名前が記されるのは938年のことで、武蔵介として赴任する。
(先駆けて936年には息子満仲が事件を起こしている。これが事実ならこれよりずっと前に臣籍降下して源の姓を名乗っていた?)

赴任早々、認識の違いで在地の豪族を襲撃するも、平将門の調停を受ける。が、手違いによって包囲されてしまうと慌てて京に逃げ帰り、「反乱を起こそうとしている」とチクリでっち上げ、讒言(偽り)をしたとして拘禁されてしまった。情けねぇな。

翌年、実際に将門が常陸国府を襲撃したため、釈放。やったね!
藤原忠文の討伐軍に参加するが、到着前に鎮圧。引き返す。
その後、藤原純友の乱を鎮めるべく小野好古の討伐軍に加わるが、これも到着前に鎮圧。
結局純友の家来を捕まえただけ。何をしに行った。

その後は各国の国司を務め、やがて鎮守府将軍に就任。
(あまり活躍していないのに就任できたのは血統が良かったためか)

晩年は臣籍降下を命じられ、皇族から臣下になったことに憤慨していたという。
挙句には《将門記》にて「介経基,未だ兵の道に練れず」と酷評されている。

また伝説にも登場し、紅葉伝説では紅葉との間に子を宿すも、信州戸隠に追放。この鬼畜がー!

清和源氏は微妙なこんなスタートだったが、息子満仲、孫の頼光・頼信兄弟の活躍で力を付けていく。
息子に満仲、満政、満季らがある。



源満仲(みなもと の みつなか)912?~997
ああいつの日か 誰かが果てしない…(仮)
経基の息子。摂津国多田に領地を持ったことから《多田満仲》とも。
後世のカルタに「多田満仲、武士の始まり」と詠われている。
都で活躍した武官であり、歴史に登場するのは父よりも早く、936年と言われ、斉子内親王を伊勢斎宮に左遷してポア謀殺した疑いがあるとして登場。
ここからこの頃、満仲はもう元服しており、平将門の乱に名前が無いことから、ずっと京にいたと思われる。

961年、邸宅に強盗が入るも、自ら強盗の一味を引っ捕らえてしまったと、父・経基と違って剛勇な逸話が伝わる。
969年には左大臣・源高明を襲撃、拉致した後、謀反を示す文書が見つかったと密告して《安和の変》の切っ掛けを作る。失敗したらどんでもないことになってたぞ・・・
《安和の変》は藤原氏による他氏排斥の一つと言われ、満仲は藤原氏と共謀していたと言われる。
また、これと同時進行で弟・満季が争っていた有力武士を追捕・排斥しているため、何かのやり取りがあったかもしれない。

密告の恩賞で正五位下に昇進、各国の受領を経て父・経基に続いて鎮守府将軍となり、莫大な富を得、他の武士の嫉妬を買うことも多かったという。
以後、京において清和源氏の勢力は拡大することとなる。
987年出家。997年逝去。85歳と当時にとっては長生きだった。

息子に頼光、頼親、頼信など。
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昨近、日本史が日本のみならず世界中に知られ、はまっている方が多いと聞きます。
日本においては「歴女」などという言葉が開拓される一方で、海外ではNA○UTOなど日本漫画の影響により「ニンジャ」「サムライ」などの言葉が共通語になりつつあります。

ここで疑問。
「サムライ」って何? 起源は? などと問われたとき、答えることができるでしょうか?

・・・ということで、初期の武士について書き起こしたいと思います。
戦国~江戸時代の著名な武家は「源氏」「藤原氏」「平氏」を先祖とすることが多いようです。

徳川家康は源氏を名乗っていましたし、織田信長は平氏を騙っていた
これにはまぁ、源平交代論などややこしい部分が関わってくるのですが、簡単に言うと

「俺は農民から成り上がった~」
「俺は何処の誰々の子孫の~」

どっちの方が権威があるでしょうか?
豊臣秀吉の場合は一代で成り上がりましたが、藤原氏・五摂家の近衛前久の養子になり、更には名門「源氏」「平氏」「橘氏」「藤原氏」に続く新たな姓「豊臣」を創設するなど、地位の向上、正当性を計りました。

(「源氏」「平氏」「橘氏」「藤原氏」は何故名門なのかは、話が長くなるのでまたの機会に、ということで)

話は戻りまして、この中で前述した「源氏」「藤原氏」「平氏」が武士の名門として確立したのは、900年代半ば=武士発生期に時代は遡ります。



この頃、東国西海にて大きな反乱が起きていました。

東国には平将門(乱:935~940)、西海には藤原純友(乱:939~941)が武装して反乱を起こし、朝廷を悩ませていました。

注目すべきは、この二人が平氏・藤原氏と高貴な身分であり、先祖を尋ねるとそれぞれ桓武天皇・藤原鎌足といった有力者に至ります。
この時代、たとえ生まれが貴くても、主流から外れて何代か経つと地方に下り、その貴さにより地方豪族と結んで勢力を伸ばす者が現れました。
(そっちの方が朝廷でコツコツ官位を積み上げ、受領になるかなれないか? というよりは楽に暮らせる訳です)

それが将門の祖父・平高望(桓武天皇曾孫)であり、上総に土着して子供と共に勢力を広げました。
やがて広げた土地を他の豪族から守る為、自ら鎧を着て武芸に励むようになったと。これが初期の武士、サムライです。

そして、その過程での武力衝突がエスカレートしたのが前述した二つの乱であり、合わせて「承平天慶の乱」と呼ばれます。
そしてこれを鎮めたのも平貞盛、藤原秀郷、源経基といった高貴な血統を引く者たちでした。

平貞盛・・・将門の従兄弟。桓武天皇五世孫。
藤原秀郷・・・藤原氏分流。先祖は左大臣になりながらも失脚した藤原魚名(鎌足曾孫)
源経基・・・清和天皇孫。

平貞盛と藤原秀郷は東国の豪族で、朝廷の討伐軍が来る前にさっさと将門を滅ぼしちゃいます。
ですが源経基は将門の乱をチクったり、討伐軍に参加したはいいものの到着前に終わってたり・・・
功績は純友の乱の残党狩りに留まります。
(それでも上の二人よりは血統が強かったので、最終的には鎮守府将軍に就任)

力をつけたこの三人を先祖として、その子孫が武家の名門と呼ばれるようになります。


平貞盛・・・平将軍と呼ばれ、伊勢に移った子孫から平清盛、東国に留まった子孫から北条一族が現れる。
藤原秀郷・・・子孫に結城、山内、蒲生、佐藤、奥州藤原氏など。京都に進出した一族は安和の変で源満仲(経基の子)らによって失脚。
源経基・・・息子満仲が藤原氏に接近。孫頼光、頼信は藤原道長の従者として活躍し、頼信は東国で反乱を鎮め(平忠常の乱)、子孫に源頼朝を輩出。

時代が下ると、冒頭の家康や信長のように子孫を名乗る者が現れるようになる、と。
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