先日、『うちの仔見て』のバトンを受け取って記事にしてくださったブロガーさんたち、どうもありがとうございました。
自粛の日が続きますが、今日も飼い猫が膝の上に乗っていて『時間が経つとさすがに重い』、『でも寝顔が可愛いからこのまま居て欲しい』・・・というジレンマに悩んでいるRieruです★
残念ながら頭領の膝の上には乗りません。本人は猫が好きだけど、愛し方がジャイアンっぽいのが要因だと思われます。そんな彼から見ればこの状況は羨ましいらしく、私から猫を奪おうと不敵な笑みを浮かべながら近付いてきます。
もちろん猫は捕まりたくないので頭領の行動を察知し、ササッと逃げるのですが、それによってじつは助かっています。あ〜、重かった。
彼に対しては「お可哀想に。」という感じですが、猫たちの前では私、悪人になりたくないので。
イテテ
(ジャイアンよりタチが悪い?)
そんな頭領から卑怯者呼ばわりされている鬼嫁は、桜の花が満開の頃に岩国市を訪ねました。
錦帯橋沿いの桜並木はそれはそれは美しく、近くで愛でれば夢のよう・・・ならばロープウェイに乗って、高い場所からも愛でてみようと時間を計りながら、吉香神社をウロウロ。
時間があれば山麓駅近くにある『白山比咩神社』に寄ろうと考えていたので、吉香神社の一の鳥居を出て橋を渡り、右側にある神社の方向を見たら一人旅をされている男性が先行されています。
例の佐々木小次郎像と撮影されていた方じゃないようですが、私が歩いているペースだと追いついてしまうのが予想出来ましたので、急に桜の花を撮影しだしてペースダウンに成功☆
男性が奥の方へ行かれたのを見計らって、鳥居の前に進みました。
AM 7:50
白山比咩神社は、“しろやまひめじんじゃ”と読むようです。
狛犬(吽)さん︰「“咩”なんて、珍しい漢字じゃろ?」
本当ですね。じつは私、初めての参拝なんですよ。吉香神社へは何度か参ったことはあるのですが、近寄り難くて。
狛犬(阿)さん︰「あ〜、わかるわかる。名前も馴染みが無いし、すぐ裏が山だから暗い感じがするよね。」
まぁ、ゆっくりして行ったら?説明板は道路沿いにあるけど、境内にも由緒が書かれた看板もあるから一読したらいいよ。」
ご丁寧にありがとうございます。
ええっと、説明板には?
白山比咩神社
この神社は白山比咩神(別名 菊理媛の命)大己貴の命(大国主命の別名)を祀っている。
創建年代は明らかではないが、伝えられているところによると、加賀国(石川県白山神社)の分霊を移し祀ったものという。
永興寺(ようこうじ)伝記によればもとこの杜は永興寺の鎮守杜であったと記してあり、また永興寺所蔵の神輿には、永禄2(1559)年正月の字が刻まれている。
萩の近藤清石の風土記によると、鎮守杜云々は誤りで、一時永興寺僧徒の奉仕したことが推し図れるとしている。
社前の石鳥居は元禄7が1694年 吉川広紀(4代岩国領主)のご寄進で石柱に宇都宮遯庵(とんあん)(漢学者)の碑文がある。
享保12(1727)年に再建された大規模の社殿は、明治23(1890)年に焼失した。
現在の建物は明治31(1898)年に完成したものである。
はぁ〜、石川県から。
お邪魔します。わぁ〜、掃除が行き届いていて気持ちが良いですね。
近くには藤岡市助博士の『立志の碑』がありましたが、今回は割愛m(_ _)m
ガラスケースに入れたら、そのままテラリウムになりそうな雰囲気で気に入りました。
よく手入れをされていて感心します。
さて、急ぎ足で神門の前へ。
・・・の前に、右向け右!
をすると、『錦川水神社』が。
説明板には、このように書かれていました。
錦川水神社
御祭神 弥都波能売神(ミヅハノメノカミ)
岩国市を貫流する錦川は古代より優れた水質と豊富な水量によって近代産業誘致の原動力となり一面天下の奇橋錦帯橋によって観光面に於いても岩国市今日の繁栄をもたらしたものであるが近来世情一般に動もすれば此の偉大な水恩に対する感謝の念薄れつつ有るを愁へ岩国市観光協会会長 坂井正夫氏が発起して神社を建立して永々錦川守護神として崇め水恩に感謝すると共に岩国市永遠の発展を祈念すべし昭和49(1974)年11月10日竣工せしものにて偶々前年第60回伊勢神宮式年御遷宮際会し神宮の古材の一部の御分譲を得て当白山比咩神社境内に建立せしもので有ります。 以上
改めて神門へ向かいます。
お邪魔します。
御由緒にはこのように書かれていました。(割愛部、変更分有り)
御祭神
菊理媛命 (くくりひめのみこと)
小白山比咩命 (こしらやまひめのみこと)
大巳貴命 (おおなむちのみこと)(大国主命)
本神社の創立年月日は旧記に正一位白山大権現社は清和天皇の御宇、貞観18(876)年に勧請、元慶8(884)年に社殿の建立とある。
其後、応安年中に社殿の一切を焼失するも、後小松天皇の御宇 喜慶2(1389)年再建せらる。天正年間には、毛利輝元公より神田を賜る。慶長年間(1590〜)吉川廣家公、雲州富田の庄より當地に移封されてより封内の鎮守と仰ぎ吉川家歴世の産土神として崇敬せらる。
元禄7(1695)年 大鳥居の建立、享保年間(1716〜)社殿の大造営、同13(1729)年に神社林として城山の一部を奉納等、歴代の藩主の崇敬厚し。
明治6(1873)年11月縣社に列せらる。
當時の社殿は、壮麗豪華にして工作の妙を極め殊に拝殿、楼門の如きは精彩粉飾を施し、関西の東照宮と云い伝えられていたが、惜しくも、明治23年10月23日に神殿、拝殿、回廊、楼門等の建造物が焼失。
ほんまじゃ!ダッシュじゃ!1番乗りじゃ!
アイタタタ
(狛犬(阿)さん︰「じゃーじゃー、うるさいんじゃ〜・・・」)