木村林太郎ブログ~リンタウロスの森 -3ページ目

孤球

 シンガーソングライターゆいこさんには、15年以上にわたりライヴのサポートや、時にはレコーディングにも呼んで頂いています。ゆいこさんはこのたびご自身の名曲「孤球」を三部合唱にアレンジされました。譜面が発売になり、動画も公開されました。その動画で歌を担当しているのが、岡本千佳、権藤英美里、金子アミ、僕の四人。

ゆいこさんは歌声もピアノも、作曲もアレンジも全てがあまりにもファンタスティックで、自分の音楽にもたくさん影響を受けてきました。今回の動画へのレコーディングに参加できたのは夢のように嬉しいことです。。普段DúlarinnやANONAで一緒に歌っている大好きな声と絡み合いながら、自分の声が稀代の名曲の一部分になっているのを聴いていると、何だか現実感がありません。いやあ、みんな個性溢れる素敵な声ですし。こんな縁に恵まれて本当に良かった。

「孤球」ぜひ聴いて下さい。



白石島への旅2

白石島港の小さな桟橋に降り立つと、今回コンサートでお世話になる関係者の方々が迎えにいらして下さっていた。初めてお会いするにも関わらず皆さんとてもあたたかくて親切で、そして愉快な方ばかりだった。翌日のコンサート会場となる白石島公民館を下見してから、我々の宿泊場所となる「ヴィラ」へ向かう。緑豊かで、起伏の激しい地形。この地方で大人気という海水浴場を過ぎ、急な坂を登って丘の上へ。「ヴィラ」はまるで、かつて過ごしたアイルランドの田舎のユースホステルのような、美しい風景の中にある居心地の良い宿だった。リビングからは瀬戸内海と、遠く広島県福山市までを見渡すことができる。

そのリビングで少しリハーサルをした後、今回の我々のコンサートを発案、手配して下さったN先生のご自宅に伺い、山からの心地良い風が吹き抜ける庭で豪華な夕食を頂いた。N先生はもともと大阪で、侑加さんの母上と共に保育の仕事に携わっていた、その道のプロフェッショナル。現在は白石島を生活の拠点とし、島おこしに尽力すると共に、大阪などでも引き続き保育に関わられているそうだ。この夕食の席には、現在白石島の保育園に勤務されていて、今回のコンサートに「島おこし協力隊」として力を注いで下さっているR先生、N先生のご親族や友人の皆様もいらして、賑やかな宴だった。話が進むにつれて、この場にいる方々それぞれが、さまざまな分野の「島の重鎮」で、とても個性的で知的で、そして優しくて朗らかだということが明らかになってきた。皆さんのお話が興味深くて、冗談も笑い過ぎて苦しくなるほど面白いものばかりで、本当に楽しい時間だった。ただ「猪が活発な夜になる前に帰りましょう」ということで、まだ少し明るさが残るうちに宴はお開きになった。

さて翌日はあいにくの雨模様だった。午前中に丘の上のヴィラから車で白石島公民館にお連れ頂く。皆さんの、絶対に雨で出演者や楽器を濡らさぬように、というご配慮が伝わってくる。コンサートの準備中も、さまざまな形でお気遣いを頂いた。何だか時間の経過が早くて、いつの間にか開演の15時になっていた。

現在白石島にお住まいの方は約200人とのこと。この日、そのうちの数十パーセントもの方が公民館に集まられていた。コンサートの始まりは、地元のベテランギタリストお二人の演奏。渋い選曲と、円熟味のある演奏、そして歌。このデュオの奏でる「瀬戸の花嫁」を聴いて、こんな集まりの中に来られてしみじみ良かったと思う。さて、白石島の保育園にはもう何年も園児がいなかったのが、今年はついに二人の女児の入園が叶い再開できたとのこと。その子たちと、保育園のR先生が踊る「大きな栗の木の下で」「ジャンボリミッキー」の伴奏が、今回の我々の大役の一つだ。準備の段階から特に侑加さんが頑張ってくれて、白石島の希望とも言うべき子ども達と若く情熱溢れる先生のバックを無事に務めることができた。

コンサートはそのまま「ケルトの歌めぐり」へと入ってゆく。本来のタイトルは「ケルト歌めぐり」だが、侑加さんに委ねていたらいつの間にか「の」が入っていた。自分にとって、いろいろな地域の方々に自分たちの音楽を聴いて頂くというのはこの上ない喜びだ。普段「音楽会」というものがほとんど開かれない地域や施設などにおいて、歓迎されるのはいわゆるスタンダードな音楽、広く知られた楽曲の演奏だということは痛いほど理解している。それでもやはり自分は、心底大好きで胸を張って「これ良いでしょう!」と言える音楽ばかりを会場にお届けしたい。愛すべきアイルランドやスコットランド(ついでにイタリア)の人々から頂いてきた選りすぐりの伝統曲、そして自分たちの楽曲や物語には、きっと聴いて下さる方々の心にも残るような力があると信じている。そんな訳でこの日の演奏曲目は、普段の「ケルト歌めぐり」とさほど変わらないものだった。

コンサートは毎回が一期一会。自分たちも含め、そこに集った人がどれだけ素敵な、心豊かな時間を共有できるか、もちろんそれにはたくさんの丁寧な準備や工夫が必要だ。白石島での「ケルトの歌めぐり」には、その開催に漕ぎ着けるためにたくさんの方々の情熱が注ぎ込まれ、すでに魔法がかかっていた。あとは、すべてのことに感謝して演奏するだけ。曲の紹介に普段より多めの時間を費やしたり、「悲しくてやりきれない」などいくつかの日本の有名曲も織り混ぜながらの約一時間、客席の皆様はとても熱心に、そして温かく我々の演奏を聴いて下さった。コンサートが終わったのは16時すぎ。大阪や岡山など島外からわざわざご来場下さった方々もいらして、終演後間もなくして出る船で帰っていかれたようだ。

実は自分はこの日の朝からちょっとした頭痛に悩まされていた。普段あまり日の当たらない場所にいるのに、急激に海のまぶしい光を浴びて眼の負担が大きかったのかもしれない。あるいは前の日に普段お目にかかれないようなご馳走をたくさん頂いて体がびっくりしてしまったのかもしれない。とにかく痛恨の極みだったのが、この後に開かれた島の方々との宴に出られなかったこと。そこではこの日に開かれた短いコンサートについて、自分以外の出演者も含めてたくさんの人々からのたくさんの感想が飛び交ったそうだ。さらにそれからの日々も、島の皆さんが顔を合わせれば何度もこのコンサートのこと、我々が奏でた音楽のことを話題にして下さっているとのことだ。

自分の演奏技術に関しては、身に付けねばならないことが途方もなくたくさんある。一方で、この白石島でのコンサートではたくさんのポジディブな感触も得ることができた。自分は「ケルトの歌」には長年、深い敬意と愛着を持って取り組んできた。その継続の末に、今回のメンバーのような素晴らしい演奏仲間に恵まれ、伝えたい美しい物語もたくさんある。そのいくつかの果実によって、これまで馴染みのなかった場所で、馴染みのなかった人々と共に素敵な時間を過ごすことができ、自分は音楽を通してこんなことを実現したかったのだと改めて思った。

そしてもちろん自分たちの音楽の置き土産をはるかに上回る素晴らしいお土産を、白石島から持ち帰らせて頂いた。豊かな自然環境とゆったりした時の流れ、そこで暮らす、人生経験豊富でとても上品で、それでいて冗談好きな方々の深い思いやりと言葉。本当にたくさんの素敵な交流と経験の交換。

若年層が都市部へ流出し、地方が疲弊する構造は加速するばかりで、白石島でもそういった残念な空洞はあちこちに見られた。地方移住にさまざまな課題があることは嫌と言うほど良く知っている。それでも年代を超えて一丸となった島おこし、地域おこしが遠くない日に実を結ぶことを願ってやまない。

白石島への旅

はじまりは今年の春、東京に来たu-fullの侑加さんからのお土産だった。リハーサルからの帰り、別れ際に田端駅の改札の前で、すごく美味しいのでぜひ食べて下さいと、大きな袋を渡された。その晩に早速開封してみると、大きさも枚数も旅館の朝食でたまに食べる海苔の倍以上ある白石島の味海苔の小袋がぎっしり詰まっていた。白米とともに口に運ぶと、味も香りも絶妙で、間違いなくこれまでに食べた味海苔の中で最高に美味だった。白石島という地名は聞いたことがなくて調べてみると、瀬戸内海に浮かぶ島の一つで、岡山県笠岡市に属するとのこと。岡山県の島ながら、位置関係的に広島県福山市と結び付きが強いともある。温暖で静かで風光明媚な場所のようだった。関東で生まれ育った自分にとって瀬戸内海は遠い海だ。かつて瀬戸大橋を渡って四国へ行ったことはあるものの、ほぼ馴染みのない土地。ただ中学生の頃に観た大林宣彦監督の名作「さびしんぼう」で冨田靖子さん演じる女子高生が通学のために島からの船で広島県の尾道港に降りてくるシーンが印象的で、いつか訪れたい場所ではあった。その「いつか訪れたい場所」はあまりにも多く、限りある時間や体力、お金の事情で実現することはあまりにも少ない。実際には行けることはないだろうと感じつつ、とりあえず無限に広がるSNSの大海原に向かって「いつか行ってみたい」と呟いてみた。果たしてその呟きが届いたのかどうかは知らない。それからしばらくして、侑加さんから突然「白石島に演奏に行きませんか?」とお話を頂いた。島おこしのため、地元の方のためのコンサートを開く計画があるとのこと。話は思いがけない速さで進み、夏の終わりに侑加さんとu-fullの相方フナハシ君、権藤英美里氏と僕で、本当にそこへお伺いすることになってしまった。


8月30日の昼前、新幹線岡山駅ホームに、大阪と東京からやって来た四人が集結した。このメンバーでは日本最北端からアイルランドまで、本当にたくさんの旅と時間を共にしている。今回はナビゲーターとして侑加さんのお母上もご同行下さっている。これでもかと猛暑が続いた夏、この日の岡山も暑かったが、不快な湿気はない。イタリアで買ったばかりの赤いシャツを着てサングラスをしていたら「バカンスに行く大物ミュージシャンみたい」と笑われた。自分はバカンスなどという言葉とはほど遠い風貌なのでちょっと嬉しかった。

山陽本線の黄色い電車で西へ向かう途中、小雨が降り出した。のどかな田園風景と優しげな山容を眺め、侑加さんの母上からの美味しいお菓子を頂きながらボックス席で談笑すること約40分、笠岡駅に到着。ここでは雨は落ちておらず、人の姿もほとんど見当たらない。静かな午後の町。それぞれが楽器に機材、衣類など大荷物を抱えたり引っ張ったりしながら五分ほど歩いて笠岡港へ。ここまで海は見えず、港も陸地に食い込んだ笠岡湾の奥に位置しているため外海は見えない。もっとも瀬戸内海に「外海」という言葉が存在するのかは知らない。



こじんまりした港ながらターミナルは新しくてなかなか立派だ。ここには我々のように初めて訪れる海の向こうに心踊らせる人もいれば、久方ぶりの島への帰郷のいよいよ最後の行程を迎えて感慨ひとしおの人もいるかもしれない。そんな人々や想いが常に交錯する場所には必ず名曲が存在する筈だが、頭に浮かんでくるのは「瀬戸の花嫁」ばかり。そう、島から島へと渡ってゆくのだ。券売機で舟券(違)を購入し、みんなでセブンティーンアイスを食べていると、ほどなく出港時間になった。これぞ桟橋というような桟橋を通って「ニューかさおか」という小さな船に乗り込む。若い眼鏡の船員さんに船室に入らなければならないか尋ねると、よほど海が荒れない限り外にいて良いとのことで、甲板にとどまる。船はアルミ合金製で、19トン。定員は79名。自分が北海道への往復でよく乗船するフェリーはおよそ1万5千トンだから比べるまでもないが、出港時の高揚感は同じだ。「ニューかさおか」は大型フェリーとは違って身軽に向きを変え、大きなエンジン音を響かせながら速度を上げる。船が通った後には小さくないうねりが生まれ、笠岡湾内の岸壁の釣り人たちは激しく動く糸を何とかコントロールしている。

笠岡港を出ると神島、高島に寄港したのち、40分ほどで白石島に着く。そこからさらに北木島を経由して、終点は真鍋島。これらの島々は笠岡諸島と呼ばれる。

笠岡湾を出るまでには意外に時間がかかる。笠岡大橋をくぐると陸地に沿って大きく右(西)に回り込み、神島に到着。ここはかつては独立した島だったが、干拓により今は本土とつながっている。港では先ほどの眼鏡の船員さんが身のこなしも軽やかに桟橋に乗り移り、てきぱきと着発業務を行い、着いたかと思っているうちにあっという間にまた出港。神島を出るといよいよ海に乗り出すという感じだ。




かつて海賊や水軍が支配していたであろう瀬戸内の海。曇天でも空はまぶしく、「ニューかさおか」は高い水しぶきを上げて疾走する。なかなか味わえない爽快感に、一同の表情もいつもにも増していきいきしている。侑加さんは乗り合わせた女学生に話しかけていた。はにかみながら彼女が答えたところによれば、高島から笠岡に通う高校生で、今日は早い帰り道らしい。リアルさびしんぼう。大海原、そして緑豊かな島々に見とれているうちに高島に到着。かの女学生を含む数人が下船。ここで眼鏡の船員さんと共に出港準備をしていたキャプテン(と思われる)が何かのはずみで、機具にしたたかに鼻をぶつけていた。思わず侑加さんが「大丈夫ですか!?」と声をかけてしまうほど衝撃的な光景だったのだが、そしておそらく流血するくらいの負傷はしたに違いないのだが、誇り高き海の男は「同情はいらねえ」とばかり(なるべく)平然として操舵室へと戻って行った。いよいよ目的地に着く!という喜びよりも、どちらかと言えば痛みに耐えて操舵しているキャプテンを案じているうちに、「ニューかさおか」はすいすいと白石島の港へ入っていった。