忠臣蔵 | 青森の鉛筆

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青海林檎です青海林檎

年末が近づくと、忠臣蔵の話題が出てきますね。

実は弘前には大石内蔵助の親戚筋の津軽大石家があったり、割と忠臣蔵との関係が深かったりします。

津軽に伝わる「忠臣蔵」(東奥日報 より)

 年の瀬の風物詩の一つ「忠臣蔵」。津軽藩は、赤穂事件の主人公である大石内蔵助や吉良上野介と、さまざまな縁がある。今年は内蔵助の親戚筋に当たる大石郷右衛門が津軽藩に仕えてちょうど320年。郷右衛門の子孫に当たる津軽大石家が、ドラマの舞台・江戸から遠く離れた津軽で伝え残した史料の数々は、今も静かに歴史を語り続けている。

 津軽大石家の史料は、1967年に赤穂大石神社(兵庫県赤穂市)に納められている。

 同神社の飯尾義明宮司は「参拝客がよく『なんで弘前なの?』とびっくりしています」という。郷右衛門や家族が討ち入りに間接的に関わっていたことから「『赤穂義士』は47人だけではなかった、とも言えるでしょう」と指摘する。

 津軽大石家の文書からは、義士たちのさまざまな姿が浮き彫りになっている。例えば、47人のうちただ一人切腹せず天寿をまっとうし「四十七士ではなく四十六士とすべき」などと、一部で非難され続けてきた寺坂吉右衛門。後年、寺坂の子孫が出世していた、という内容が記された書状が2008年、文書の中から見つかり、寺坂の義士としての再評価につながった。

 遺品の中には珍品も。大石内蔵助が自ら作って愛用したと伝えられる木杯「掟(おきて)の盃(さかずき)」は、酒徒が守るべき五つの戒めが書かれたユニークなもので、酒好きだったという内蔵助の横顔がうかがえる。

 同神社非常勤学芸員の佐藤誠さん(東京都)は「郷右衛門は自ら大石家の系図をまとめるなど、事件に強い関心を寄せていたからこそ、遺物も津軽に伝承されたと思う」と語る。

 弘前市新寺町の遍照寺には、謎を秘めた忠臣蔵の供養碑が残る。1890(明治23)年に境内から掘り出された。津軽藩の家老が建立した、という説と、津軽に忠臣蔵の興業に来た講談師が大入り御礼で寄進した、という説が伝えられているが、真相は判然としない。

 同寺の花田俊岳住職(53)は「忠臣蔵に対する庶民の熱狂が津軽まで及んでいたことを物語っているのだと思う」という。訪れる人はほとんどないが、花田住職は彼岸や盆のお勤めを欠かさない。

 一方、津軽藩の分家・黒石藩には、3代領主政〓(まさとら)に、吉良上野介の娘・あぐりが嫁いでいる。あぐりは赤穂事件前に病没しているが、政〓は事件翌朝、誰よりも早く義父の元に駆けつけたと伝えられている。

 黒石市出身で、元東京青森県人会事務局長の工藤浩之さん(82)=長野県上田市在住=は、津軽藩や黒石藩と吉良との関係などを研究し続けている。弘前高校の同窓生らでつくる「東京鏡ケ丘あさぐ会」の会長を務め、会員と共に実地で研究を重ねてきた。

 工藤さんは「(大石、吉良、津軽などといった)点と点を結べば線になり、いずれはそれが面になるかもしれない。正史には出てこないことも多いが、歴史には表があれば裏もある」と、新たな発見へのロマンを膨らませている。

※「3代領主政〓」の〓は、凹の下に儿(本文より)

保存されていた資料から、新しい発見があるのは嬉しいことですね。

兵庫の赤穂大石神社に、津軽大石家の資料があるので、近くの方は見に行ってみても良いかもしれません

参考サイト下矢印

津軽に伝わる「忠臣蔵」(東奥日報 より)