佐々木多門その2 | 青森の鉛筆

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皆さん、こんにちは

青海林檎です青林檎

一昨日の記事に引き続き、大正時代の経済学者、佐々木多門についてです。

佐々木は大正10年辺りからロンドン・タイムスの通信員として働くようになっています。

その後も高橋是清の私設顧問として、日銀職員としても働いていましたが、関東大震災後の大正15年、日銀を退職します。

ただし、当分の間は嘱託職員として働いていました。

昭和に入り、金融危機が頻発するようになると、高橋とともに金融対策を練るようになります。

結果として金融危機は何とか抑えることができたのですが、対策の都合上、高率のインフレが起こる可能性が出てきて、さらなる対策案を練るために、高橋とともに政府支出を抑える案を考えます。

その際に軍予算を削減したために、高橋とともに軍部から目を付けられるようになりました。


昭和7年、当時大蔵大臣を務めていた高橋とともに、再び起こった金融危機対策を練ります。

同時期、前年に起こった満州事変についての論説「THE JAPANESE VIEW/VITAL CLAIMS IN MANCHURIA/A PLEA FOR PATIENCE」を、ロンドン・タイムスに掲載します。

この論説は、日本が置かれている現状について、理解を求めるように述べたもので、国連総会でも話題になります(ただし、満州事変の調査をしたヴィクター・リットンは、この論説に反発していたようです)。

日本の現状について理解を求めつつも、「それはそれ、これはこれ」で急進的な国粋主義者や軍部の批判も、たびたびタイムス誌上に掲載していた佐々木は、かねてから軍部に目を付けられていたこともあって、軍の監視下に置かれるようになります。

昭和8年になると、タイムスの論評をめぐり、頭山満(当時のアジア主義者の大物)や陸軍大臣を務めていた荒木貞夫などが、頻繁に訪れるようになります。

露骨に監視されるようになった佐々木は、次第に体調を崩すようになります。


昭和11年2月26日、陸軍若手将校が起こしたクーデター、2.26事件が起こります。

軍予算削減を行っていた高橋是清はターゲットの1人にされ、警備の手薄さも災いし、殺害されてしまいました。

ほかにも、内大臣斎藤實や教育総監渡辺錠太郎が殺害され、多数の重傷者を出した2.26事件は、3日後の29日に収束に向かいます。

この事件(特に、高橋是清の死)は、病気がちだった佐々木に衝撃を与え、一層体が弱る事となります。

高橋の死の翌年、とうとう筆もとることが出来なくなり、ロンドン・タイムスの執筆を中止します。

そのまま病状が回復することなく、昭和12年12月、72歳で佐々木多門は永眠しました。


参考サイト下矢印

満州事変

ヴィクター・ブルワー=リットン

2.26事件

頭山満

荒木貞夫