佐々木多門その1 | 青森の鉛筆

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皆さん、こんにちは

青海林檎です青林檎

昨日のうちに記事をアップしようと思ったのですが、仕事が忙しかったのと、帰りに電車が止まって足止めを食らったのとで、書くことができませんでした。

田園都市線は1時間弱で運転再開したようですが、瀬戸大橋では7時間も電車に閉じ込められた人がいて、大変そうでした

今日は北日本の方が大荒れになりそうなので、北の人たちは気を付けてくださいね


それでは、一昨日の続きで、佐々木多門についてです。

佐々木多門は、慶応2年(1866年)に現在の青森県平内町に生まれました。

一昨日は神社が生家だと書きましたが、正確には修験道の家だそうです。

地元の小学校を出た後は、青森県師範学校(現在の弘前大学教育部)に入学しますが、その時の校長に才能を見いだされ、東京に上京します。

上京中にメソジスト教会の宣教師と出会い、その影響を受けて、東洋英和学校に入学、英語をこのころから本格的に勉強し始めたようです。

英語を学んだあとは、帝国大学法科(現在の東京大学)に入学し、今度は経済学を勉強し始めます。

2年ほど経済学を勉強し、卒業した後は、英語の通訳などもしていましたが、同志社普通学校(現在の同志社大学)や第二高等学校(現在の東北大学)で英語や経済学の講師を務め続けていました。

約12年ほどの講師生活が終わったのは、明治37年、佐々木の評判を聞いた高橋是清によって、日本銀行に採用され、海外代理店監査役として、アメリカやイギリスに渡るようになってからでした。

このころから高橋是清と懇意になっていったらしく、高橋の代筆として英語の文書を作成したりもしています。

大正2年に高橋が大蔵大臣に就任すると、政治・経済学の私設顧問となり、陰で高橋を支えるようになります。

私設顧問をしている間も、日銀に勤め続けていて、大正4年に佐々木が英文執筆した「The Recent Economic Development of Japan(昨今の日本の経済発展について)」という論文が、海外でも評判を呼びます。

この論文の評判がきっかけで、佐々木はロンドン・タイムスの東京通信員となります。

当時、もっともクオリティーの高い経済誌がロンドン・タイムスであり、日本人としては初めての快挙でした。