津軽独立へ・津軽為信2 | 青森の鉛筆

青森の鉛筆

青森に関するつれづれをかきます。
おもしぇーはんで、みでけろじゃー(^_^)/

※修正
石川(南部)信直は、南部宗家26代当主でした。
25代当主は、南部晴継です。

皆さん、こんにちはニコニコ

青海林檎です青林檎

前回は、南部宗家内の対立で当主・晴政についた大浦(津軽)為信が、石川城をせめて領土を手に入れたものの、1532年、晴政とその息子・晴継の死によって、ピンチになるところまで話しましたふきだし




南部晴政と対立していた石川信直が26代南部家当主となり、大浦為信の立場は一気に悪くなりました。

当主となった南部(石川)信直は、実父を自害に追い込んだ大浦為信を討伐するため、早速津軽に侵攻してきました。

ところが、南部信直の配下であるはずの九戸一族が、国許の南部地方で反乱を起こし、南部信直は津軽攻略を一時停止せざるを得なくなりました。

運よく助かった大浦為信弘前市標

南部信直が反乱を抑えているのに四苦八苦している間、大浦為信は津軽地方の領土を更に広げるために、天正2~3年(1574~73年)にかけて、南部一族の守る大光寺城を攻め落とします。

ついで、天正6年(1578年)浪岡御所を守っていた北畠顕村を攻めて自害に追い込みます。

天正13年(1585年)に油川城を攻略、これにより外ヶ浜一帯を制圧することに成功します。

この間、南部信直もただ手をこまねいていたわけではなく、たびたび津軽地方奪還のために遠征をしていました。

天正13年、南部側は浅瀬石城を攻撃したものの、浅瀬石城主・千徳大和守の奮戦により攻め落とす事が出来なかった上、為信によって田舎館城を落されます。

天正16年(1588年)に飯詰高楯城を攻略、これによってほぼ津軽一統は完了したのです。

青森の鉛筆-津軽地図

上矢印当時の津軽のおおまかな地図です青森県



参考サイト下矢印

歴史の勉強・津軽氏

津軽為信 (Wikipedia より)左矢印あだ名は「髭殿」ですヒゲ



人気ブログランキング参加中下矢印
人気ブログランキングへ 左矢印クリックよろしくお願いしますお団子