津軽信英 | 青森の鉛筆

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青海林檎です青林檎




昨日の記事で、訂正箇所がありました。


「黒石藩は3代津軽信義の代に分家して~」と、ブログにアップしたのですが、実は4代津軽信政の代での分家でしたビックリマーク


間違いをしてしまい、申し訳ありませんでした汗


以上の点も踏まえて、今日のブログとしていきたいと思います。





記事の題名になっている津軽信英(つがるのぶふさ)は、初代黒石藩主として紹介されています(厳密には違います)。


津軽信英は、1620年に、弘前藩2代藩主信枚と、正室満天姫との間に生まれます。


兄に、3代藩主となる信義がいます。


母の満天姫は正室であり、なおかつ徳川家康の養女(実父は松平康元)、兄の信義は側室辰姫(石田三成の娘)の子なので、本来は信英が弘前藩を継いでしかるべき人物でした。




ところが、辰姫を深く愛していた信枚は、辰姫の子の信義を次期藩主として指名します。


そのため、信英は一旗本として、江戸や駿府で働くことになります。


ただし、旗本と言え、信義から一千石を譲り受け、幕府からも重用されていたので、それなりに充実した日々を送っていたようです。



転機が訪れたのは1655年、兄の信義が死去し、その子供の信政が弘前藩4代藩主に就任したときでした。


当時の信政はまだ13歳で、しっかりした藩運営を行えないということから、幕府が信政の津軽家相続に当たって、信英が後見人とすること、信英に5千石を分知すること、という2つの条件を出してきたのです。


こうして、5千石の交代寄合(参勤交代を行う大旗本)となり、後々の黒石藩の基礎を築き上げていきます。


以降の信英は、江戸で幼い信政の補佐を行いながら、黒石領の運営を行い、信政が16歳になり正式に津軽家を継いだ1661年、43歳で亡くなりました。




文武に秀で、幕府からの信頼も厚く、兄の信義からも信頼されている人物だったようです。




参考サイト下矢印


津軽信英(Wikipedia)


交代寄合(Wikipedia)




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