トートロジー | 哲子の部屋

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哲学系メモ帳と哲学に向かないヒトビトの観察日記。

一番単純なトートロジー。

 

これは字面の上でではなく意味の上でという意味で、対象とする内容同士が一致するという事。これの難儀な点というのは対象と理解の一致を、例えばZ=Zとしてしまうと、対象と理解が区別できなくなってしまうという辺りだ。この混同は古い時代に少しばかり世界像を歪めてしまったように思う。しかし、Z=Zであれば、理解の通りにならなければならないから、再現できないならそれは真とは言えないという話にはなる。

 

さて、当たり前にいつでも成立するのが truth 真理。

 

※真理だとか真実だとかいうものはいつもそこに在る。単に気づかれていなかっただけで、無かった訳では決してない。答えはいつもありのままそこに在り、気がづかれなかったのは真理や真実の責任ではなく、気がづかなかった側に問題がある。

 

正=正 は正しい。これは(正=正)=正、という事である(同様に、誤=誤は正しい)。

 

※在るものが無くて、無いものが在る。これが常態であれば複雑すぎて生活が成り立たないだろう。これらは人間の認識のベースをなしていて、当たり前すぎるほどの基本だ。

 

正=正、そこに誤りは含まれていない。つまり、完壁に正しく、全てにおいて正しい事を意味する。これが可能なのは、正にそのもの、その理解(つまり答え)そのものになるだろう。何か"完全に正しく、全てにおいて正しいもの"があるとするならば、それはこの事であり、その正体はこれという事だ。

 

※完全な真を理解するためにすべてを知る必要がある、というのが哲学の原理ですべての話が冒頭に置かれている理由だ。哲学が物事を知ろうとする営みである以上、何が真か、真とは何か、という問題から逃れることは出来なかった。

 

すべての物事にそれぞれ問いがあり、それぞれが答えを持つならば、この世界は正しさの塊で出来ていることになる。哲学で言うところの対話(ダイアローグ)とは、この正しさとの対話に他ならず、知を求め愛する者がするそれは、知るための方法として哲学のする営みであり、従ってそれは哲学そのものという事になる。答えを求め、愛するが故に、彼らは自らを答えを求め、愛する者と呼んだのだった。

 

※事実を基にして、あーでもないこーでもないと考えるプロセスの事。これは妄想や想像する事と同義の考えるではなく、物事を調べるうえでの必要な思考プロセスの話であり、議論の展開、前提の検証、結論の確認など、ダイアローグは様々なパートを持っている。

 

現代においては、より高度で確かな議論がなされているが、人間の歴史において言われた事、行われた事、即ちあった事がすべてそうした議論を前提にしていたとは到底思えない。シンプルな感性が産んだシンプルな結論を、現代的な複雑さで読み解こうとしても複雑になりすぎて余計に分らなくなるだけではないだろうか。

 

最後に、トートロジーは何も語らないと言われるが、それは単に、語られる側であって語る側ではないからだ。事実を基にあれこれと議論するのが人間的振る舞い=ヒューマニズムであって、その様にして初めて、前提が真ならば結論も正しいだろうという妥当な推論が可能になる。

 

 

この話は、直観の話から続けたものだが公開順で記事の順番が前後してしまった。

 

 

 


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