そんな折、7月中旬、ゼロ戦(海軍零式(れいしき)艦上戦闘機)が正式採用になりました。航空論者達の期待を一身に背負って、、、次章へ、、、
鉄と血の世紀
第四章 開戦準備 パールハーバーの予感
開戦一年前(1940)の11月、イギリス海軍は、空母イラストリアスから、12機の攻撃機を発艦させ、イタリア海軍の本拠地、タラント港を襲います。さらに一時間後8機が、、、戦艦1隻撃沈、2隻大破、と言う、大戦果を挙げました。世界初の、航空機による戦艦の撃沈です。日本海軍はこの事を真剣に研究しました。この頃一般的には、戦艦が究極の兵器と考える人が多かったのですが 、
アメリカの実力を良く知る山本五十六、小沢治三郎、山口多聞、等の航空主戦論を唱える人達は、ピン、と閃くのです。”これだ”と。
この時は未だ、日本は参戦していませんが最早、時間の問題でした。
開戦と決まれば、即座に、米太平洋艦隊の根拠地、ハワイ真珠湾(パールハーバー)、を航空部隊で襲いアメリカ艦隊を、港から出すこと無く、その場に沈めてしまおう、と考えたのです。猛訓練が始まりました。地形のよく似た鹿児島県の桜島が訓練場になりました。超低空40㍍で市街地をかすめるように、錦江湾に飛び込み、海面上5㍍を最大速度で、操縦桿を数ミリ誤れば、海ポチャです、桜島の手前で、急上昇、これは雷撃訓練です。
鹿児島湾を真珠湾に見立てて九七艦攻の雷撃訓練、桜島の手前が標的、米戦艦空母
一方は高度三千㍍で桜島の火口の真上から、桜島を滑り台に見立て、島を滑り降りるように急降下し、海面激突すれすれ400㍍になって急上昇です。これは急降下爆撃です。この訓練を、タラント空襲の直後から、パールハーバーに向かって出撃する直前、十一月前半までの、1年間休み無く続けました。
新しい魚雷も完成しました。落下した魚雷はいったん150㍍位まで潜り、それから浮かび上がって敵艦に当たるのですが、これでは真珠湾では海底に潜ってしまいます。何しろ深さが7㍍しか無いのですから。この問題を解決したのが、浅深度魚雷の開発でした。何のことはない、海面に激突した瞬間に、羽根が開くのです。スキーのビンディング、を思い出せば直ぐに理解できるでしょう。
ちなみに搭乗員達は何故こんな激しい特殊訓練をするかは知らされていません。ただ皆大変なエリート、侍達ですから、パールハーバーだと想像はしていた筈ですが、、、
敵を欺かんとすれば
10月下旬頃から、土曜午後から日曜日事に、東京横須賀、神戸広島、佐世保などの軍港や都市で水兵達が三々五々、休暇を楽しむ姿がやけに目立つようになりました。普段も日曜ごとの半舷上陸(はんげんじようりく)で休暇を楽しむ姿がそこ此処に見えるのは当然なのですが、いつもより少しだけ多いように見えます。当時水兵は休日でも外出は必ず制服でしたからけっこう目立ちます。もっとも海軍の制服着てればどこでもモテモテですから放って置いても着たのでしょうが、、、
水兵達の帽子には帝国軍艦 赤城 同じく帝国軍艦 加賀 同じく飛龍、同蒼龍、同瑞鶴同翔鶴 比叡 霧島 etcetc等と書いてあります。後に変わるのですが、この頃までは所属軍艦名、あるいは所属基地名が帽子に書いてあったのです。
真珠湾攻撃に参加した全部の艦の水兵達が横須賀や銀座、神戸や佐世保で楽しげに遊んでいるのです。日本中に張り巡らされた米国のスパイ網がこれを見逃すはずがありません。
スパイの暗躍 日比谷公園内のレストランテラス
後述しますが、さらに柱島からは赤城や比叡の無線通信の電波が、横須賀からは飛龍、蒼龍の電波、佐世保からは、瑞鶴、翔鶴の電波が平日も土日も日頃と変わりなく、演習中だったり、大本営に報告だったり、帝国海軍主力は日本にへばりついて平和そのもの、、、
大本営からも ”食料や菓子の追加は無しや”とか水兵の衛生面注意だったり、、、
アメリカのスパイ達はペンタゴン(アメリカ国防省)に報告します。
”太平洋は波静か、日本は当分開戦する気は無い模様”、、、
(注半舷上陸 乗員を左舷側と右舷側に分け、交互に休暇を取る事、海軍では全員が上陸するのは艦が修理でドックに入った時だけ)
土日の朝、海兵団(陸上の海軍施設)当直将校の訓辞、
10月中旬から土曜日曜ごとに毎週こうです
”本日選別された100名の者、お前達は、これから渡す帽子を被り、本日只今より横須賀 (佐世保でも広島でもどこでも)で休暇を楽しむように、ただし帽子を必ず被ること、そし て民間人に聞かれた場合必ず、帽子の艦名の所属であると答えること、絶対に海兵団の 所属であることを知られてはならない、したがって行きつけの店には絶対に行かないこ と”、、
帽子には軍艦赤城と書いてあります。あいつは加賀です、向こうの奴は霧島、、、
横須賀や佐世保は時ならぬ水兵達の大挙上陸で賑わいを見せ、飲食店やダンスホール、それに今で言う風俗は、かき入れ時到来とばかりねじりはちまきに腕まくり、の週末なのでした。! ちょうどその頃、、、、
新高山昇れ
”進路ハワイ、宜候(ようそろ)”
完璧な技量の上に新兵器まで手に入れ、完全に秘匿された南雲機動部隊(第一機動艦隊)は隠密理に択捉(えとろふ)島、単冠(ひとかつぷ)湾に集結しました。機密保持のため各艦所属の母港から三々五々、ばらばらに日を置いて集合です。いわゆる現地集合。
此処で丁々発止と繰り広げられる日米交渉に聞き耳を立て、成り行きを見守ります。11月26日までに無事妥結ならばその場で解散、進展がなければ、26日に出撃になる手はずです。
この時点では南雲忠一(なぐもちゆういち)長官と草加(くさか)竜之介(りゆうのすけ)参謀長(少将)以下の参謀(幕僚)連中の他は、なんのために択捉島に集合させられたかは、知らないのです。皆多分想像はしていたでしょうが、、、、
11月26日、
赤城以下空母6隻を主力に機動艦隊は、護衛の戦艦二隻、比叡と霧島に引率されるようにヒトカップ湾を出港、北太平洋に出撃します。
”進路ハワイ宜候(ようそろ)、、、
12月1日、荒れ狂う北太平洋上を進撃中の南雲機動艦隊に連合艦隊旗艦長門(山本長官)から暗号電報が届きます。新高山昇れ1208
各艦の艦長は事前に厳重に保管していた命令書を艦長室の金庫から取り出します。
書いてある内容は
布哇(ハワイ)方面の、アメリカ太平洋艦隊を撃滅せよ、”
日取りの部分は空欄です。電報の1208が日取りと言うことになります。
この時点でハワイ攻撃のための出撃であることが、全将兵に正式発表されます。艦内いたるところで万歳の渦が沸き起りました。
連合艦隊旗艦 長門 二度に渡る改装で一本煙突、上絵の姿になる
もしこの電報が無ければ、出撃すれども戦わず、、、例え目の前にハワイが見えるところまで行っても攻撃は無し、Uターンして帰るだけだったのです。
この北太平洋は一年中荒天続き、晴れることは滅多にない海域です。ですからここを通れば攻撃前に発見される確率はきわめて低くなるのですが、途中で燃料を補給しなければなりません。給油中は最徐行で、随伴のオイルタンカーとパイプでつないで給油するのですが、駆逐艦などは荒波で激しく動き回りますから、もの凄く大変なのです。
しかも戦艦や空母などの大艦は1度の給油で済みますが 小さな駆逐艦は3-4回も給油しなければなりません。台風の最中に給油訓練を積んだのはこのためでした。また機動艦隊の司令長官に南雲忠一中将が選ばれたのも、彼が駆逐艦戦の大家だったからに他なりません。
このことが後の戦いに裏目に出るとは、、、、しかし”今は行けばどうにでもなる、行くまでが勝負だ”、、、、、
ここからはハワイ時間で書きます。
7日午前4時半、この時間までに日米交渉が妥結すれば攻撃は中止、引き返すのです。パールハーバーの北370㎞に達した機動部隊は、歴史的瞬間をあと二時間ほどで迎えることになります。
三時間半前の、午前一時、東京の外務省はワシントンの野村、来栖、両大使宛に極秘の電報を発進し始めます。無論暗号で、、、朝の七時半きっかりにこの最後通牒文書を国務省に届けろ、と言う命令です。対米覚書、最後通牒、いわゆる宣戦布告の電報です。
米国防総省(ペンタゴン)でもこの電報を傍受していました。前から日本の暗号を解読していたペンタゴンは、マジックという名の日本暗号の自動解読機まで作っていました。つまり暗号電報が受信されると、自動的に解読されてプリントアウトされるのです。
文章を読んでみるとストレートに宣戦布告の文字はありませんが、国交を断絶する事が書いてあり、しきりと午前七時半きっかりにアメリカ国務省に、届けるように指令しています。それに暗号機械の破壊処分まで厳命しています。
この時代最後通牒、国交断絶は戦争と同義語です。それを朝の7時30分まで、ではありません。7時30分きっかりに届けろと書いてあるのです。これが何を意味するかは明白です。軍人ならこの時間の直後に攻撃があると考えるのが普通のはずです。即座にルーズベルト大統領やハル国務長官に報告され、ハワイ、アジア地域の全アメリカ軍に対して即座に警戒警報が発せられました。朝の7時をチョット回った時間でした。空襲まで一時間を切ったところです。
しかしこの警戒警報、8時にはハワイに届きませんでした。なぜならペンタゴンや国務省の緊急電報(ホットライン)を使わず、民間局の商用電報を使用したため、何カ所も中継され午後になってハワイに到着したのです。何故そんなことをしたかは不明ですが、この事が米首脳はハワイ空襲が有ることを知っていながら、日本にだまし討ちの汚名を着せるため、あえて太平洋艦隊に知らせなかった、と言われ続ける所以なのです。
(注アメリカでは当時から電信電話郵便は民間の業務なのです)
攻撃隊発進 1941年12月7日 早朝6時(未明)
空母加賀と雷撃隊出動 魚雷が重いため甲板の先端まで滑走しても浮き上がらず、海面に落ち込むように下がってから浮き上がる
攻撃隊発進、頭上には艦隊上空直援(護衛)のゼロ戦が鷹のように油断無く見守っています。その数30機ほど。赤城から最初の一機、ゼロ戦が飛び立ちます、加賀、瑞鶴、翔鶴、蒼龍、飛龍 次々とゼロ戦が発進します。戦闘機が発進し終わると、すかさず爆弾を抱えた九九艦爆(九九式艦上爆撃機)その後に、一番重い魚雷を抱えた、九七艦攻(九七式艦上攻撃機)が飛び立ちます。
重たいので甲板を離れた瞬間、海面に向けて沈み込み一瞬 見慣れていない人なら発艦失敗 海面に激突かと勘違いするでしょう。事実記録映画ではこのシーンで映画館内から必ず悲鳴が上がったのです。それだけ魚雷は重たかったのです。
発艦の時は攻撃隊全部を、滑走距離の長い巡に後ろの方から甲板上に列べて置き、さらに艦を風上に向かわせ、全速力で航走させます。合成風速を十分に利用しながら、最前列にいる滑走距離の短い戦闘機から発艦を開始するのです。一番後ろの、重い魚雷を抱いた艦攻機は多少なりとも滑走距離を長く取れるのですが、それでも命がけ、未熟な者は訓練中に海に落ちてしまい命を落とす者も多かったのです。
全機発艦が終われば上空で編隊を組み、攻撃地へ向け、進撃です。この編隊を組むと言うのが防御上のポイントで、これで敵戦闘機もうかつには手が出せなくなるのです。編隊を組んでいなければ一機ずつやられてしまいますが、編隊を組んでいれば攻撃機の全ての機銃が襲い来る敵戦闘機に向けられます。
さすがの敵戦闘機も、四方から十字砲火(じゆうじほうか)を浴びることになり、じっくりと獲物が狙えなくなるのです。また上空からの水平爆撃の場合、十数機、二十機と言った編隊を組んでいれば、編隊の中心に目標を捉え、全機で一斉に爆弾を落とせばどれかが命中と言うことになります。必ず命中させるためには編隊を組む事が必須条件になるのです。
(注 十字砲火 正面だけでなく側面からも同時に銃撃する状態)
母艦上空で編隊を組む九七式艦上攻撃機、旭日を浴びながら
こうして編隊を組み終わった攻撃隊は一路攻撃地、オアフ島パールハーバーを目指します。進撃開始と同時にラジオを付けます。アナログ時代のラジオですからダイヤルを回しハワイ放送(オアフ放送局)の電波を捕まえます。常にラジオの電波状態が最良になるように、飛んでゆけば自動的に最短距離でハワイにつくのです。もっともラジオが有ろうが無かろうが一騎当千(いつきとうせん)の当時の日本の搭乗員、道に迷う(コースを間違える)なんて事はあり得ないのですが、、、、これには訳けがありました。
(注 一騎当千(いつきとうせん) 相手よりも遥かに優れた技量や力を持ち、一人で数多くの敵をやっつける事)
始めのうちはノイズ混じりの放送も次第に鮮明に聞こえるようになり、早朝の音楽番組が始ったようです。ハワイアンが軽やかに聞こえ、ビングクロスビーの珊瑚礁の彼方(ビヨンドザリーフ)やダイナショアのタフアフアイ(ハワイの民謡)等が次々と、彼等は当時日本でもその人気は相当なもので、日本の攻撃隊員にもおなじみの曲ばかりです。これから始るであろう修羅場などは微塵も感じさせずに、、、
リクエスト番組ですからリスナーからのリクエストです。ジョッキー(MC)の爽やかな曲目紹介、と共に、ジャズやハワイアンに混じって日本の歌も何曲か混じります。故郷、椰子の実、ハワイは日系移民がもの凄く多いのです。何曲目かにめんこい仔馬がかかります。日本のスパイがハワイは普段と変わらず、平穏そのものと教えているのです。警戒警報が出たりすれば別の曲(荒城の月)になるはずでした、、、
アメリカの事情
この頃アメリカ側は、10日ほど前(11月下旬頃)に取り付けたレーダーを使い索敵警戒行動を取っていました。ダイアモンドヘッドの突端に当時としては巨大な10m四方程のアンテナを設置し、陸軍の通信部隊が運用していたのです。下士官一名と兵卒一名の二名で運用していましたが、初期のレーダー、まだまだ画面情報は判別が難しく、おまけにレーダー初体験、取り扱いも全く慣れていなかったのです。
この日はサンフランシスコから8機ほどのB17爆撃機がハワイに来ることになっていました。
突然レーダー画面に無数の輝点が映し出されます。兵卒が横で居眠りしている下士官を揺り動かし”この無数の点はなんでしょう”と訪ねます。
今日は日曜日、途中抜け出したとは言え、昨夜のどんちゃん騒ぎパーティのシャンパンで二日酔い、寝ぼけ眼で画面をチラリと見やり”シスコ(サンフランシスコ)からのB17だろ”と言ってまた居眠りを始めます。
10分程画面を見やっていた兵卒は、なんだか変だと思います。B17は昼前に来るはずなのです。グースカいびきを掻いている上官を起こすのも悪いので、電話で中隊本部を呼び出し確認を取ることにしました。間が抜けた話ですが電話は此処にはまだ引いてありません、明日月曜には引かれる予定なのですが、、、ダイアモンドヘッドの麓(ふもと)の雑貨屋(コンビニ)で借りるのです。往復小一時間、大急ぎで山を駆け下り、コンビニの受話器を持ち上げたところで、頭の上に超低空で突進してくる攻撃隊の爆音が聞こえ始めたのでした、、、、
遅かった確認電話、コンビニにて
此処までは日本はウンが付いていたのです。もしレーダーサイトの兵士達が気合いを入れて見張って入れば、攻撃隊はハワイ到着前に、アメリカの防空戦闘機と格闘を演じなければならなかったはずなのです。もっともこの時点でゼロ戦に太刀打ちできる戦闘機など世界中どこにもありません。スピットファイアーだって一目見て逃げ出したほどのゼロ戦、バッファローやトマフォークじゃ、鴨葱(かもねぎ)、になるだけのこと、失望の上塗りになっただけだとは思いますが、、、
日米交渉の雲行きが怪しくなってからは、”ハワイが狙われる”と、アメリカの政府高官や上級軍人達は、皆考えていました。ですから彼等自身も未体験のレーダーをいち早く実戦配備し、日本の侵攻に備えたのです。しかし殆どの軍人兵士達は、”なんでこんな面倒臭い物を”と思っていたのです。
”メリーランドもウエストバージニアも居るじゃねーか”、、彼等は大艦巨砲主義のかたまりだったのです。
(注 スピットファイアー、バッファロー、トマフォーク 当時最新鋭と言われていた連合国側の 戦闘機 開戦後ゼロ戦にばたばたと打ち落とされた。スピットファイアーは英国、他はアメカ)
(注 鴨葱(かもねぎ) ただ負けるだけでなく、敵になんの被害も与えられず軽く負けてしまうようなこと)
(注 メリーランド、ウエストバージニア アメリカの主力戦艦)
もっとも日本のスパイ達も、ちょっと見上げれば大概どこからでも見えるのに、この新設レーダーアンテナには全く気が付かず、大本営にはなんの報告もありませんでした。
多分 雀かツグミの霞網(かすみあみ)のでかいの、ぐらいに思っていたのでしょう、、、
ハル国務長官もペンタゴンもそして太平洋艦隊のキンメル長官も、さらにルーズベルトでさへ、日本が攻撃してくる日はあらゆる状況証拠から見て、11月30日(日本時間12月1日)と確信していました。なぜなら日本の外交暗号は、後述しますが既に解読されていたのです。この日はハワイの全軍、全警察がピリピリと緊張の連続で過ごしたのです。それでも東京や佐世保のスパイからは”街は水兵達で賑わっている、空母も戦艦もそれぞれの母港に入港中という報告がここ一ヶ月ほど、の間に幾度となく届いています。
一本だけ怪しげな文章の電報、新高山昇れが有りましたが、”どこの国でもやっている、フェイント、気にすることはねーよ”、、、何事もなく一日が過ぎ去ってしまえば後に残ったのは、安堵と”俺達に向かってこれる訳ねーよ”という慢心でした。
アメリカ人は自分たちの自由と正義、に基づく力、強さに絶対的信頼を置いていたのでした、、、、次章へ、、