歳相応
御 教 歌
としたけて 親をうらみん ことなせそ
人のすること 出来ぬよみかき
いい年をして思い通りにならないことを、親のせいにしたり恨んだりするものではない。
すべて自分の因果であることを弁えた人になっていくことの大事さをお示しの御教歌です。
生きていけば、思い通りにならないことも間々ありますが、自分のことは自身で対処していくべきで、他人や親の所為にしたくないものです。
仏さまの教えに
「自業(じごう)の因果」
「今の自分に起こってくる出来事は、誰のせいでもなく自分自身が行ってきたところの因果によるもの。」
このようにあります。
今の自分を見れば過去の行ないが分かり、今の行ないを見れば未来が見えてくる というのです。
歳をかさね人生経験を積んでいけばこそ、この道理を確りと捉えていきたいものです。
「自業の因果」を捉えていくと、人の所為にしたり、ましてや親の所為にするようなことはしない筈です。
そして、歳相応に身に付けていきたいことは「因果の道理」です。
教えとして
「人を敬へば人また我を敬ふ。人を軽しむれば人また我を軽しむ。この因果を信ぜよ。」
このようにあり、実際に身に付けていく人を「歳相応の大人」だと言えるでしょうし、是非とも自分の行いに幸せにも不幸にもなることを銘記しておきましょう。
油を売る意味
御 教 歌
遊んでも せいを出しても 一日ぞ
さればいづれを 徳とかはしる
遊んで暮らすも精を出して暮らすも同じ一日であるが、どちらの方が徳となるのかはいずれ知ることとなる。
このように仰せの御教歌です。
江戸時代では、夜灯(とも)す明かりに行灯(あんどん)と呼ばれるものが使われていました。
この油を売る商人は、当時の生活に欠かせない必要な職種だったようです。
仕事ぶりは?というと各家を回ってマスを使って量り売りをしていたのですが、油は水と違い、中々落ちず時間が掛かり、その間お客さんと世間話でもしながらじっと待っていたとのこと。
その仕事ぶりが、まるでさぼっているかのように見えたことから「油を売る」ことは「仕事をさぼる」という意味に使われるようになったようです。
また
「油尽(つ)きて火消ゆ」
という言葉がありますが、その日その日を可笑(おか)し楽しく暮らして楽しい思いをしたとしても、火を灯す油が無くなれば火は消えていくように、人生のともし火も消滅していくことでしょう。
お祖師さま(日蓮聖人)は
「果報(かほう)つきぬれば所従(しょじゅう)もしたがはず。」
「わが身に果報が尽き果てたら、誰も敬い付き従ってこなくなるものである。」
このようにお示しで、幸せの因となる果報(功徳を積み重ねた結果)が無くては、幸せも長続きがしないというのです。
であれば、今は何事においても一生懸命取り組んでいき、苦労を積み重ねていき未来を楽しみにしていきたいものです。
悔い改める心
御 教 歌
さんげせば 心の罪や きえぬらん
身におひきつる おも荷おろして
己を悔い改めていくところに自身の業も消えていき、そこに背負い続けてきた心の重荷を下ろすことになることを仰せの御教歌です。
懺悔(さんげ)とは、自分自身の至らないところを悔い改めることです。
孔子は
「過(あやま)って過ざるを真の過ちといふ。
過ちては則(すなわ)ち改めるに憚(はばか)ることなかれ」
「人は過ちを犯しやすいものであるが、過ちを犯したときそれを認めようとしないのを真の過ちである。」
このように教えています。
確かに人は過ちを犯しやすいものですが、それを素直に認めようととしない心があるのも確かなことです。
御指南に
「俗にいふ前のみぞからさらへざれば、水はながれずとやら、わが手の黒きをおとさざれば、白きものはとりがたし。」
「溝も上のほうから泥を取り除いていかないと水は上手く流れないように、自分の手が汚れていたら綺麗なものは取りがたいように、我が心に過ちがあるにも拘わらずそれを悔い改めようとしないのであれば、人本来のこころを取り戻すことは出来ない。」
このようにお示しで、ありのままの自分をよく見つめ、至らない点があればあっさりと認め、心から悔い改めていくようにしていきたいものです。