最近、真理や悟りについて
目覚めている人が増えている気がする。
自分が関心があるから目についている可能性もある。
Youtube、書籍、
そして古舘一郎さんの本もそう。
古舘一郎さんは
「釈迦の言葉を熱弁すると友人が離れていく」
とのこと。
”初期”仏教とは
最適な「心理学」だと思っているが、
日本においては「宗教」
だと思われてしまうことが多いのだと思う。
「悟り」に
全く関心がない方
縁が出始めた方
縁により悟り的視点が出てきた方
悟り的視点をさらにあげようとしている方
と色々な段階があると思っている。
でも
段階がどこにあろうと
ただその段階なだけなのだと思う。
それが起こる「縁」があったから
その「縁」しかなかったから
そうなっているのだとは思う。
では何も変えられないのか?
本人の希望があり変わりたい、
「心の平安」 が欲しいという思考が出た場合、
今の「縁」を
より平安な心が出やすい「縁」に変えていくことは有効だと思う。
今の自分が思うには、
あたり前を行うことを大事にしつつ、
「瞑想」も有効的だし(短くてもいい)、
「思考」を見はりつづける、
「呼吸」を深くするのもよいし、
「言葉」を変える、
「読書」などなど
いろいろあるとは思うが
ピアノや英語やスポーツのように
習得するまでコツコツ学び続けることも
とても大事だとも思う。
ここまで書いてきたが
矛盾があるようにみえるとと思う。
「自由意志」がなく
「縁」で決まっていると言うのに
「平安」を求める行動をとるとよい、
とはどういうことか?
その希望がでたり
行動の変化が起きるのも
流れの一つ、
ということだと思っている。
選びつつも、
なるがままだが
楽しんでいく。
でも
楽しめなくても
それもそれが起こったので
それでいい。
良くても
おごらず
辛く感じても
己を悲観せず卑下することもなく、
良き思考を選ぶようには努め、
自分の内面を見つめ
平安を深め
また進んでいきたいものですね。