[広島城]

          種別:平城  別名:鯉城


城郭と歴史雑学
         広島城天守正面(南面)

往時は東に三重三階の東小天守、南に三重三階の二基を従え廊下(渡櫓)で連結した史上最大の連結式天守であった。

西国の覇者112万石の太守の毛利輝元が築いた広島城は、聚楽第と大坂城の長所を吸収してそれらを超える名城であった。

 戦国の智将毛利元就は、安芸国の山間部の山城・吉田郡山城に本拠を構えて西国の覇者となった。その孫の輝元は、天正10年(1582)の本能寺の変で備中高松に於いて秀吉と和睦し、同16年には秀吉が築いた聚楽第と大坂城を実見している。
 それまで毛利氏の居城であった郡山城は旧式な山城であって、中世城郭を大規模化しただけにすぎなかった。聚楽第や大坂城には、郡山城になかった広い水堀や高い石垣、壮大な天守や豪華な御殿があり、輝元が受けた衝撃の大きさは、たとえようもないものであったはずである。
 大坂から帰国した輝元は、ただちに新城を計画し、翌天正17年に広島城の築城を開始した。
 城の縄張りは平城の聚楽第を模倣し、大坂城のように巨大な五重の天守を建て、本丸には広大な御殿を設けた。
 広島城は、古代からの西日本の交流の拠点であった瀬戸内海に面した太田川河口の三角州に、平城を一から築くものであったために、島普請とも呼んでいた。

 文献によれば、石垣は文禄元年(1592)から同2年に築かれたものとしており、その後、慶長4年(1599)正月の御城成就祝儀まで普請が行われているので、石垣はその間に着々と築きあげてきたものと考えられる。
 また天守は成就前の慶長3年頃に完成したものとみられている。
 広島城天守は輝元が創建した貴重なものであった。それが残っていれば、現存最古の天守である。外観は望楼型の五重、内部五階であって、明治初期までは三重三階の南小天守と東小天守を従えており、その壮大さは後に築かれた姫路城の天守群に優るとも劣らぬものであった。
 外観は黒い下見板張で、創建当時は大坂城と同様黒漆塗りであったと考えられる。発掘調査で金箔瓦も発見されているので、往時の外観はすこぶる豪華なものであった。
 それに対して天守の内部は、最上階を除いて天井も張られず、皮を剥いただけの松丸太の梁が露出しており、武骨そのものであった。天守内部を飾る無駄を省いた点に、毛利氏の質実剛健さがよく表れていたといえる。

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本丸内より見た天守群CGI
左が南小天守で石垣下に続く付櫓から上り渡櫓を経て天守へ上がった。
右は東小天守で天守との間の渡櫓に階段を収めた玄関(入口)が見える。

 天守台には穴蔵(地階)がないため天守への直接の入口はない。天守と小天守を繋ぐ渡櫓の内部に階段を設けていた。
 関ヶ原後の天守が広島城同様に内部を簡素に仕上げ、中に出入りさせず見せない手法を採っていることから、この天守は戦略・攻略的に利にかなったもので、先見の明があったといえる。

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広島城の櫓と門:原図は江戸中期から後期にかけての図で、城内の櫓と城門が全て描かれている。

 各所の構成としては、本丸・二の丸を総石垣とし、三の丸と大手と呼ばれていた外郭は、櫓台と枡形を石垣とし、ほかは土居としていた。また、堀はすべて水堀であった。
 櫓は数が多く浅野氏時代の数で88棟となっている。また、櫓はすべて下見板張、窓は突き上げ式とし、毛利氏・福島氏時代を通じて古式な外観を見せていた。

 毛利輝元の築いた広島城は、本丸をやや南北に長い方形の枡形とし、西北隅を張り出して天守を置いた。本丸は北方を一段高くして二段構えとし、本丸上段に御殿を建て込んでいた。
 本丸下段は馬場とし、二の丸を南面に馬出し状に土橋で繋いで中御門で仕切る。中御門は鉄門であり、外門がないところに古制が見られる。
 櫓につては、本丸の二重櫓は細長い大型の平面であるため、二階が中央だけに載る古い形式のものと考えられ、この例は福山城の伏見櫓(伏見城より移築)に残るのみである。
 二の丸西側には、表御門(櫓門)が戦前まであり、櫓部分の柱と長押を白木で見せ、舟肘木を置くなど中御門と同様古式な姿を見せていた。
 三の丸は本丸・二の丸を囲むようにコの字型に北を除いて配されている。その外側には外郭を南・東側に配し、唯一の敵となりうる豊臣氏に向け、東からの防備を固めていた。
 三の丸外郭には、隅櫓として正方形平面の二重櫓を置き、毛利時代の規模が大きい平櫓を配した。毛利時代の城壁は直線的で、虎口に枡形を欠くところもあるなど古制を残している。

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広島城復元CGI:現在の広島城の市街地に甦らせた本丸と二の丸の在りし日の雄姿。南西より見る。

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同角度から見た天守群復元CGI:史上最大の連結式天守であった。

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天守復元透視イラスト:江戸期の広島城天守と東と南の廊下(渡櫓)の正確な復元図。
廊下は一階建てであるが天守寄りの部分は二階建てとなり、その二階から天守一階へ入った。天守は外観五重・内部五階で、各階の中心部には畳敷きの部屋があり、その周囲に板敷きの武者走りが廻っていた。
天守内部は簡素で、丸太の松の梁がむき出しとなり飾りは一切なく、毛利家の気風をよく示していた。
明治になって、小天守及び南廊下の大部分が取り壊されたが、国宝に指定されていた。原爆で倒壊し、戦後天守だけが再建されたが、外観も往時のものと異なっている。

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本丸御殿復元図:御殿の屋根は、もとは柿葺(こけらぶき・薄板を厚く重ねたもの)であったが、江戸後期の財政難で瓦葺に変更された。

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表御殿広間内部復元CGI:本丸御殿で最も豪華であった広間は、藩主と家臣が対面を執り行い、主従関係を確認しあう重要な儀式の場であった。

 毛利輝元が築いた広大な広島城であるが、成就を祝った翌慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、豊臣方であった毛利輝元は、周防・長門二国に減封となり、徳川方の功労者であり、清洲城主の福島正則が安芸・備後498,000余石で広島城に入った。


     [広島城の歴史]へ続く