[竹俣兼光の詐欺事件]


 刀剣偽物史上もっとも名高いのは、この竹俣兼光事件である。「竹俣兼光」という異名は、上杉家の重臣竹俣三河守が能登国穴水会戦のさい、この刀で名ある敵兵を数多く討ち取ったことによるという。三河守がそれを揮って殊勲をたてると、上杉謙信はとくに備前刀が好きだったので、こっちに
よこせと取り上げてしまった。

 弘治2年(1556)春3月、むら消えの雪を踏んで川中島に向かうとき、今度こそ武田信玄と雌雄を決しようと心中ふかく期するところがあったので、斬れ味の素晴らしいこの兼光を佩びて出陣した。
いよいよ武田の本陣に斬りこむと、輪形月平太夫が鉄砲を構えて狙いをつけている。撃たれては大変と馬上から電光の速さで斬りさげた。平太夫が無意識に鉄砲で受けると、鉄砲もろとも鎧まで切り裂いた。上杉勢が引揚げたあと、武田勢はこの斬れ味の凄さに驚嘆した。
「こんなに切れるんだったら、きっと謙信自慢の竹俣兼光でやったんだろう」甲州に帰陣してからの土産話も、まずこの話から始まったほど評判だった。それで謙信の三愛刀といえば小豆粥行光・谷切り来国俊とともに、この竹俣兼光の名があげられるようになった。謙信の養子景勝もこれを大いに秘蔵していた。それで京都に送って新たに外装を拵えさせた。ついでに京都の水で研ぎ直させた。
「どうだ、見違えるようになったのう」景勝が自慢の鼻もたかだかと家臣たちに披露すると、誰もがまったく御意のとおり、と相槌をうち賛辞を惜しまなかった。ところが、旧蔵者の三河守はそれをためつすかしつ見ていたが、「恐れながら、これは竹俣兼光ではござりませぬ」と、顔色を変えて申したて
た。驚いた景勝がその理由を訊くと、あれにはハバキから一寸五分ほど上に、馬の毛をとおすほどの小さな孔があったが、これにはないという。それは大変だというので、三河守が京都にのぼって捜索することになった。
「上杉家でこのたび長船兼光の刀を買い上げる。三尺近いものがあったら持ってまいれ」業者の間にこう触れさせると、間もなく清水の南坂から兼光の太刀を担ぎこんできた。見ると探している真実の竹俣兼光だった。さっそく縛り上げて調べると、偽造グループのやった犯行とわかった。その旨を石田三成に訴えでたところ、たちまち共犯者十三人を逮捕しことごとく日の岡で磔刑に処した。
 刀を作ったのは丹波守吉道だったが、いち早く姿をくらましたので難を免れたという説もある。

 この事件が豊臣秀吉の耳にはいると、秀吉が欲しいといい出した。それで仕方なく献上したが、元和元年(1615)大坂城の落城とともに行方不明になってしまった。落ち武者が河内か和泉のほうへ、あるいは伊賀のほうへ持って逃げた、という噂があったので徳川家康は、「竹俣兼光を持参したものには、黄金三百枚をとらせる」と、懸賞金をかけて探させたが、とうとう出て来なかった・・・・というのが有名な竹俣兼光偽造事件のあらましである。


余談:新刀の大御所、堀川国広もニセ物を作ったという。もっともそれは主君・石田三成の命によるというから、臣下として国広も断れなかったのであろう。石田三成は徳川家康に対抗して豊臣家を支えるために、諸将の歓心を買う必要があった。それで国広を召抱えて江州佐和山城下に鍛冶場を移
させた。そして相州正宗や豊後行平などの古名刀を偽作させた。
「これは故殿下(秀吉)よりの拝領でござるが、どうぞ・・・・」と言って、諸大名への贈物にしていたという。
国宝の偽物:中央刀剣会主宰の山田英氏は、その機関誌「刀剣会誌」昭和47年発刊号に、新国宝の刀剣約百振りについて、忌憚ない意見を連載された。それによると、国宝に指定しては困るものが約三十、国宝としての資格に問題のあるものが約四十で、国宝として名実ともに首肯されるものは、わずか約三十に過ぎないという。
 在銘のものだけを集計してみると、偽銘とあるもの八振り、銘に疑問のあるもの約十五振りとなっている。すると、新国宝の約四分の一は偽銘か疑銘かであることになる。国宝指定の内情を知らない一般人にとって、これほどショッキングな話はあるまい。しかし刀剣界では、すでに戦前から国宝の偽物についての記事は雑誌に出ているので、別に珍しい話ではないとある。

  「堀川国広」
 堀川国広は日向の伊東氏の家来で、日向東諸県郡綾村古屋が住所で、田中性で名は金太郎である。父は旅泊庵国昌という刀工であり代々の刀工であった。父旅泊の死後、旅泊庵主国広と名乗る。刀鍛冶で大名の家来というのはいささか不審であろうが、南九州では刀鍛冶は士なのである。
 
 伊東氏は天正五年(1577)12月に島津氏に最後の拠点佐土原を攻めおとされ、伊東義祐は豊後の大友宗麟をたよって落ち、回復をはかったが宗麟は天正六年冬島津氏との合戦に惨敗した。
義祐は望みを失って京都に去り、ついに旅の空で死んだ。のち豊臣秀吉の島津征伐後に伊東氏は南日向の一部五万七千石の領主に返り咲き、飫肥を居城とするようになる。
 主家はほろんでも国広は刀鍛冶だ、生活にこまるということはない。綾の古屋にとどまっていた。
「天正十二年二月彼岸」と裏銘に製作年月を切った刀があり、表銘には「日州古屋之住国広 山伏之時作之」と切ってある。また「天正十四年八月日」ときざんだ脇差がある。銘は「日州古屋住国広作」であり、これは専門家によって国広の日州打ちとして日向で作ったものと極めがついている。
 
 石田光成に招かれて江州佐和山にいて作刀した期間がある。光成は天正十五年の島津征伐の直後、秀吉の命令で南九州にとどまり、薩・隅・日三国の検地をしているから、この頃国広は光成に知られ、この時はじめて在所をはなれたのであろう。国広が佐和山で鍛刀したのは天正十六七年頃
と思われる。佐和山の住と銘を切った作もあります。[新版日本刀講座]によると、彼は天正十七年に関東に下り、翌十八年に下野の足利学校で城主長尾顕長のために、山姥切りと号する長義の刀の写しを鍛えている。銘は「九州日向住国広作 天正十八年庚寅弐月吉日平顕長」で重文に指定されていて、同作中この右に出るものはないとある。
 
 翌十九年には京都で作刀していて、埋忠明寿の門人になっています。翌文禄元年(1592)から慶長三年までの七年間は朝鮮役の期間だが、佐藤寒山博士によると、文禄四年から慶長四年に至る四年間は彼の消息は不明であるとあるが、海音寺潮五郎氏の著書[日本の名匠]によると、国広
の作刀の銘「於朝鮮釜山海鍛之 国広」が出てきた。
 彼の旧主家伊東氏は、文禄元年三月に出兵してから、最後まで朝鮮にとどまっている。国広は伊東家に従軍して朝鮮にいっていたと推定できる。日本では想像もおよばないほどに寒気の厳しい朝鮮では、刀槍が折れたり、損傷がはげしかったに違いない。諸大名の多くは刀工を連れていったはずであり、刀工らは従来の刀の欠点(寒地にたいする不適合性)について、いろいろ考えたはずだ。
 海音寺潮五郎氏は古刀・新刀の交代期が朝鮮役のちょうど休戦期と合致しているのは、このために違いないと述べている。多くの刀工が創意工夫をし、寒さに強い鍛刀法に変化したのかもしれません。
 
 国広は慶長四年以降は京の一条堀川に定住して、さかんに作刀し優秀な弟子を養い、堀川物といわれる特色ある作風を樹立した。晩年の銘は「洛陽一条住信濃守国広造」及び「洛陽堀川住田中信濃守国広」と切る。
 国広の弟子には名工が多いが、中でも国路、国貞、国助らが有名でる。国貞は国広と同じく伊
東氏の家臣の家の出身であり、その弟子で養子となった井上真改も伊東家の家来筋で、大坂正宗とあだ名されたほどの名工である。
 初代助広は播州津田村の刀鍛冶であったが、あまりに貧乏なので、立派な刀鍛冶になるべく一念発起し、大坂に出て初代国助に弟子入りして、一心に稽古に励みついに名工となった。その後も身なりなどさらにかまわず、ぼろぼろの着物で一筋に打ち込んだので「そぼろ助広」の異名がついたと
いう。
 多くの名工を養成した国広は、慶長十九年没、享年84、法名「明海祖白」。
 江戸の長曽弥虎徹と並んで新刀鍛冶東西の横綱格で、愛刀家垂涎の的になっています。


  「兼光写しの長寸刀」

[刃長]  77,8cm
[反り]  1,2cm
[銘]   無銘
[元幅]  3,35cm
[元重]  7,5mm
[先幅]  2,5cm
[先重]  5,5mm


[所見]
鎬造り、庵棟、生ぶ無銘茎。
板目流れた鍛えに杢目交じり、小模様の片落ち互の目、小丁子交じりの刃紋で、切先は延びごころ、帽子はゆったりと乱れ込む。
身幅広く、重ね尋常、南北朝の太刀姿にも見えますが、古刀復古が流行した幕末の勤皇刀かもしれません。
豪壮な刀で重くて、とても古い白鞘(江戸期と思われる)入りです。
ハバキは銅一重赤銅着せの古い物です。
裏中央の地に小さい鍛え疵があり、若干のヒケ傷と油染みがありますが目立つ錆も無く、その他欠点は見られません。

[画像]

城郭と歴史雑学
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竹俣兼光は三尺近くあったそうです。
今年の大河ドラマは、直江兼続を主人公にした「天地人」ですので、楽しみにしていますが、竹俣兼光は放映されそうもないですね。


備前刀を最後までお読み戴き、誠にありがとうございました。




 参考図書
吉備と山陽道 吉川文館、日本刀の鑑定と鑑賞 金園社、刀の偽銘(犬塚徳太郎・福永酔剣)光芸出版


小早川秀秋へ続く(作成中)