[備前刀]


「真金吹く吉備」と枕詞に使われたほど、古代吉備国は代表的な鉄産地であった。

 鉄は鍛えて刃をつけることにより、基本産業であった農業の発展に欠かせない鍬や鋤などとなるし、社会体制の維持・発展を目的とする戦いのための刀剣や鏃ともなる。
 刀剣生産に必要な条件としては、①良質の砂鉄や鉄鉱石の産地が近く、鉄山開発に力量を発揮する豪族がいる。②山地が多く燃料が豊富で、特に優良炭の原料となる赤松が多いこと。③販売・輸送に便利な市場や交通路が近い。これらのすべてを満たす地域として、備前国南東部は最適地であった。ここを流れる吉井川中・上流部一帯は上質の砂鉄の採集地であり、それを精錬し他国へ供給することで一大勢力圏を形成していたのが、和気氏である。平安京の造営に尽力したことで有名な和気清麻呂(わけのきよまろ733~799年)もそのような背景のもとに誕生したのである。また、吉井川の下流長船近辺には、福岡荘・香登荘などがあり、鎌倉時代後期にこの地に移設された山陽道にも面し人口密度も高く、商業活動も盛んな地域であった。そして福岡荘は、福岡一文字派や吉井派の活躍する鎌倉時代には、最勝光院や一乗院の領地であり、備前焼の生産で有名な香登荘も鎌倉時代を通じて皇室領で、いずれも中央との結びつきが強い地域であった。

 古来、備前国は気候温暖で、吉井川・旭川下流域には広大・肥沃な農地が形成され、特に備前刀発祥の地と目される吉井川中・下流域は、現地であるいは上流域から水運を利用して、精良な砂鉄や精錬鉄の供給が可能な好位置であった。また瀬戸内沿岸から中国山地にかけては、鍛刀用木炭
の原料である赤松の林が広く分布し、この点でも条件のととのった地域といえる。
 このようなことから、直刀時代の古代にもこの地域でおそらく鍛刀は行われていたであろうが、史料的にその存在が確認できるのは、平安後期の寛治8年(1094)で、備前鍛冶の白根安正が京都へ呼ばれ、高雄山で節刀二腰を作ったというものである。しかし安正在銘の刀剣は伝世していない。
 備前鍛冶の中で、鎌倉初期ごろまでの刀工を古備前派と呼ぶ。友成と正恒の二派60余名の名匠グループがあるが、地名を冠した刀銘も文献史料もなく鍛刀地を比定することはできない。のちの鍛刀地から推定して、吉井川中流の和気郡佐伯町近辺から下流の邑久郡長船町・同邑久町あたりま
での各地に点在していたとも考えられる。
 なかでも友成は、国宝二振・重要文化財六振が伝世し、伯耆国安綱・山城国三条宗近と並び、日本最古の三名匠の一人とされている。これらの作は、細身・小鋒で腰反りの強い大変優美な姿の太刀である。また同派の高平・包平・助平は三平と総称され、特に「太刀銘備前国包平作」は、近世岡
山藩池田家に伝世した天下の名刀で「名物大包平」と称される。
 このほか信房・利恒・真恒・恒光・助包・吉包などの名工がいる。備前鍛冶の作風の特色は、丁寧に鍛えられた美しい地肌に現れる端正で明るく冴え渡った刃紋と、その刃紋にまとわりつく匂い出来風の優雅な景色である。


 [福岡一文字派]
 鎌倉時代初期から中期にかけて、当時は吉井川の右岸に位置していた福岡荘福岡(現長船町福岡)に、則宗を祖とする福岡一文字派が現れる。初期、銘の代りに「一」の字を切ったのでこの派名で呼ばれる。これは、承元年間(1207~11)後鳥羽上皇が自ら焼刃し菊の御紋を刻み込んだ、い
わゆる御番鍛冶に、各鍛刀地の刀工が月番の助手として選定されるが、最も多く選ばれたのが備前鍛冶であり、上皇から「天下一なり」との御言葉を賜ったところから始まったと言われる。
 この派からは、助宗・延房・吉房・助真などの名工が出る。古備前派と比べて大変華やかな作風となり、咲き誇る桜のような重花丁字乱れの刃紋を焼く。
 追って鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて、吉岡荘鍛冶屋(現瀬戸町鍛冶屋)で、福岡一文字派助宗の孫にあたる左兵衛尉助吉を祖とする吉岡一文字派の助光・助包・助次などが、正中年間(1324~26)を中心に活躍する。また、現在の佐伯町岩戸付近で、岩戸(正中)一文字派の氏吉・吉家などが活躍する。さらに、福岡一文字系に属し、長船に隣接した村落畠田に居住した一派に畠田派がおり、鎌倉時代中期から室町時代初期にかけて、守家・守重・家助・真守などが鍛刀する。
 一方、一文字派の隆盛でそれまで影の薄かった長船の地に、鎌倉時代中期、名匠光忠が現れ初めて「長船」の銘を切り長船鍛冶の祖となった。

 鎌倉時代後期以降、備前刀に対する需要増を反映して長船とは吉井川を挟んで対岸の福岡荘吉井(岡山市吉井)に吉井派が現れ、為則・景則・真則などが鍛刀し、現在の岡山市浦間付近では、山城国大宮から移住したとの伝承がある大宮派の国盛・盛景・盛重などが鍛刀する。また、吉井川を少し遡った和気荘(熊山町)で重則・重助などが、新田荘(和気町)で親依などが鍛刀し、わずかながら作品が残っている。
 旭川流域でも、その支流宇甘川沿いの宇甘郷(御津町宇甘)に、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて雲派(雲類・鵜飼派・宇甘派とも)が出て、雲生・雲次・雲重などが鍛刀する。作風はやや古風な腰反りのものと中間反りのものとがある。

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    福岡一文字の刀と拵え(乱れ映りが極立っている)
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   鎌倉中期・福岡一文字吉房の小鳥丸写しの太刀


 [名刀長船鍛冶]
 備前刀は量、質とも全国一である。刀工数では、室町時代末期までの古刀期だけに限っても二千名以上いたと言われ、この数は美濃国の約五倍、山城国の約七倍、相模国の約十七倍に当たり、全体の約半数は備前刀工だったと言っても過言ではない。さらに、現存する国宝、重要文化財の40%以上が備前物(備中・備後を併せると約50%)であることを考え合わせると、備前国の鍛刀技術の優秀さ、生産が盛んだった様子などを実感させられるのである。
 特に長船鍛冶については、光忠が初めて「長船」の銘を切った。これは一文字派の弱体化に代わって、多分以前から鍛刀活動の伝統を持ちながら、一時陰を潜めていたこの地にスーパースター光忠が、言わば「忠興の祖」として新しく登場したものと考えられる。
 光忠の子孫・係累からは、以後長光・真長・景秀・景光・真長・重吉・兼光・俊光・真光・景依など名匠・名工が続き、正に長船鍛冶の黄金期を形成した。なかでもその初期の太刀は、平安貴族の好みを残しながらも、質実剛健な鎌倉武士の気風に合った身幅広く猪首鋒の威風堂々たる姿であっ
た。そして長船刀といえば名刀の代名詞とまでなったのである。
 幕府の支配が安定する鎌倉時代中期を迎えると、備前から相州鎌倉に招かれる刀工もいた。福岡一文字派の助真や長船派の備前三郎国宗らである。彼らのなかには鎌倉と備前を行き来したものもいて、それぞれの長所をミックスした作風が創出される。景光の子兼光は、相州正宗のもとで修業した関係で、備前伝に相州風を加えた作刀を行う。兼光・倫光・義光がそれぞれ数代、その他基光・政光・友光などが続く。
 そのころの長船では、初代が正宗十哲の一人と目される長義も鍛刀するが、兼光よりさらに相州伝の強い作柄である。
 通常備前鍛冶は、刀剣の命ともいえる鍛錬・焼入れにおいては、杢目鍛えで、火加減の弱い匂い出来という伝統技法は守っている。しかし長義系のみは、備前伝の法則にとらわれないで、形姿のみならず鍛錬・焼入れにおいても、相州伝の板目鍛え・荒沸え出来の作刀を行っている。

 南北朝時代から室町時代前期にかけて、応永備前と称される長船鍛冶の刀工群がいる。なかでも盛光・康光・師光は三光と呼ばれその時代を代表する名工である。いずれも正統備前伝の刀剣を鍛えている。
 南北朝の統一により、刀剣も実用的なものより観賞用として優美な形姿・刃紋のものが好まれるようになる。そしてこの時代からは歩兵戦が主となり、抜刀に便利な打刀(刃を上に向けて腰に指す)が好まれるようになる。このため寸法は二尺位と短く、身幅も狭くなり総体に優しく体裁の良い姿となった。刃長40センチ前後の脇差は、この時期の備前鍛冶によって創案されたもので全国に流行していく。
 またこの時期、小反物派と呼ばれる長船鍛冶傍系の秀光・幸景などの刀工群がいて、応永備前以上に上品な刀を打った。

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          応永備前・康光の刀

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          室町中期・則光の脇指


 室町時代後期から末期にかけては、末備前と称される一群の刀工たちがいる。末備前は別に永正備前とも呼ばれ、古刀末期の戦国時代急増する需要に応じて、勝光・宗光・忠光・祐光・則光・法光・清光などの数代とその工房により、夥しい数の刀剣が生産される。したがってこの期の作品には、師自らが鍛えた注文品の優作と、工房で粗製された数打物との二種類の作柄がある。注文品には、勝光と宗光、勝光と治光のような合作刀や、注文主である浦上宗景、浦上氏の重臣宇喜多能家(宇喜多直家①参照)など戦国大名の名前を刻銘したものも残っている。

 この時期遠方まで招かれた刀工もおり、勝光・宗光は将軍足利義尚のため近江国鉤の陣へ総勢100人でおもむき、播磨国千草から産出する良質の鉄を用いて作刀している。また、戦闘が各地で行われるため生産が追いつかず、戦地での鍛刀や修理を行うための駐槌も行われた。
 数打物には、集団戦に適した刀・脇差兼用の寸詰まりの実用刀が多く、銘も俗名や年号は省略して単に備州長船某と切っている。
 また、「長船」と問えば「祐定」と答えるぐらい有名な祐定は、永正年間(1504~21)の与三左衛門尉祐定を祖とし、以後同銘刀工が60余名続くが、しかし他の末備前物と同様、俗名のつくものは注文打ちで、単に祐定作と切るものは数打物の濫造品である。このように刀剣の大量生産が行われていた備前は、東の美濃と並び、正に戦国の武器庫だった。さらにこれらの数打物のなかには、対明貿易の商品とされたものも少なくなかったのである。

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         永正備前・忠光の大脇指
(初代祐定の刀の画像は宇喜多直家1に掲載しています)


 [その他の鍛刀地]
 古代吉備地方その他の圏域、備中・美作・備後にも優れた鍛刀地があった。
 まず備中地域であるが、平安時代末期ごろ万寿荘青江(倉敷市)に名匠安次が現れて以来、後鳥羽院御番鍛冶にも貞次・恒次・次家など、備前刀工につぐ人数が選ばれるなど、平安・鎌倉・南北朝各時代にわたって備中青江鍛冶の名を上げる。特に鎌倉時代中期ごろまでのものを古青江と呼
び、名刀が多く伝世する。
 鎌倉時代中期から南北朝時代末期にかけての中青江、室町時代の末青江と続き、原因は判然としないが、室町時代中期になるとすでに鍛刀は途絶えている。
 また、青江の真北にそびえる標高302メートルの福山北麓の地頭片山(山手村)には、鎌倉時代前期、備前国から福岡一文字派助房の次男で名工の則房が移住し、片山一文字派を開いたが、数代で絶える。
 美作国では鎌倉時代初期、名工朝忠およびその弟の実経が出て作刀したという伝承はあるが、彼らの作品は残っていない。その後数百年にわたり刀剣生産はほとんど見られない。
 備後国では鎌倉時代末期三原に正家(大和系)が出て、以後室町時代中期にかけて正清・正広などが活躍する。このうち南北朝時代までのものを古三原、室町時代のものを末三原と呼ぶ。またもう一派、二代正家の子で日蓮宗に入ったため法華派と称される一乗とその子孫・門人たちが、室町時代前期にかけて作刀する。
 同時期尾道では、重光を祖とする辰房派と呼ばれる一派がいて、鞆でも貞家・家次などが鍛刀する。

 [備前刀の衰微]
 古代後期から中世末期にかけて二千数百名にのぼる刀工が活躍し、数においても質においても断然他国に優り、一大刀剣王国を形成していた備前国であるが、近世初頭天正年間(1573~92)の吉井川大氾濫により、その中心長船一帯が甚大な被害を受け、刀工のほとんどが水死したり鍛刀場を失うこととなる。また戦国時代が終り刀剣に対する需要が減少したこと、主要な武器が鉄砲に取って代わられたことも備前刀衰微の一因であろう。
 しかし、近世に入っても刀剣は「武士の魂」のより所として大切にされる。以前の刀剣を古刀と呼ぶのに対し、これ以降のものを新刀と称する。
 衰微したとはいえ、伝統の鍛刀地長船では細々ながら命脈が保たれる。優刀を鍛えた刀工には、長船鍛冶正系の四代藤四郎祐定・七兵衛尉祐定・上野大掾祐定・大和大掾祐定・傍系である宗左衛門系の河内守祐定および永正九代末葉と名乗る祐定などがいる。
 そして幕藩体制の安定と鎖国による泰平の世の継続は、ますます刀剣の需要の減少を招き、備前刀の灯はほぼ消滅する。
 しかし幕末になると、尊皇攘夷思想や内乱とあいまって刀剣の需要が増加する。このころから明治時代にかけての刀剣は、新々刀と呼ばれる。
 長船では文化年間(1804~18)宗左衛門系五代に祐平が出て、さらにその子加賀介祐永および祐包は、新々刀期長船刀工の双璧であったが、この二人が備前長船鍛冶最後の刀工となったのである。

 一方城下町岡山では、寛永年間(1624~44)ごろから、東多聞兵衛正成派が代々数名鍛刀し、ほかにもいわゆる一人鍛冶が数名いたが取り立てて良工はいない。明治初年に至り、天龍子正隆に師事した逸見竹貫斎義隆が優刀を鍛え「明治正宗」とも称された。
 備中国でも室町時代末期、水田郷(北房町)に国重派が現れ、新刀初期の慶長年間ごろには名工大月与五郎(大与五)国重が出る。彼の秀作のなかには、古刀期の相州上位の作品に迫るものがあると言われ、その弟とされる山城大掾国重を始めとする多くの刀工が続く。
 そしてこの国重一派は、城下町松山(高梁市)、同津山(津山市)、山陽道沿いの荏原(井原市)、遠くは摂津国・武蔵国までも移住し鍛刀する。また、幕末ころ荏原に在住したこの派の刀匠のうちに、女性の刀工国重(通称お源)が現れたことは、日本刀剣史上まことに珍しく注目すべきことである。    

 新刀期の美作国においては城下町津山で、直江志津十七代末孫と称する兼景派と、同じく美濃
鍛冶の流れを汲む因幡国鳥取の刀匠兼先から分派した作州兼先派が、細々と鍛刀を続ける。
 新々刀期に入ると、当時の江戸刀工を代表する水心子正秀の高弟細川正義が津山藩に抱えられ、「作陽幕下之士」と名乗るが、ほとんど江戸屋敷での鍛刀である。
 津山に在住し鍛刀するのは、その子正守、弟子正明、および多田正利、大坂の刀匠尾崎助隆門の多田貴勝など数名のみであった。

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   大磨り上げ無銘ながら直江志津と極められた刀と拵え
直江志津:志津三郎兼氏が祖で、正宗十哲の一人で本国は大和国、始め包氏と銘を切るが、美濃国志津村に居住して志津三郎兼氏と改める。以後兼氏の門人たちが直江村に移住して南北朝期に繁栄した一門の総称で、相州伝に美濃伝を加味した作柄です。

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      重要刀剣 太刀 信国(山城国) と太刀拵え

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            村正(真田幸村指料)
妖刀村正:伊勢国千子(せんじ)系で、初代は美濃国直江志津兼信系の鍛冶で大業物の作者として有名です。
 昔から妖刀といえば村正。抜けば血を見ずには治まらないとか、村正の刀は祟るといって恐れられてきました。特に徳川家に禍を招いたといわれています。いくつかを記してみます。

☆徳川家康の祖父清康が、天文4年(1535)12月尾張守山の陣中で、誤って家臣の阿部正豊に殺された刀が村正の長刀です。
☆天文14年3月家康の父元広(広忠)が譜代の臣、岩松八弥に村正の短刀で股を刺され大怪我をした。

☆天正3年家康の長子岡崎三郎信康を介錯した、天方山城守の刀が村正でした。
☆慶長5年関ヶ原の戦いで凱旋の時、家康が、織田有楽斎の子河内守長孝の武勇を表彰する際、誤って長孝武勇の槍を取り落とし手に怪我をした。

☆同年、石田三成の家臣加賀江秀望が家康暗殺を計画したが果たせず、家来の水野忠重が身代わりとなり殺された。その時の刀が村正でした。(福山城水野忠重の項参照)
☆家康の孫駿河大納言忠長が寛永9年、上州高崎城で自害した短刀が村正でした。

☆長崎奉行竹中重義が寛永11年不正事件を起し、切腹を命じられた際、罪状申渡書に「村正の刀、脇差二十四振りあり・・・・・不忠の徒と云はん」とあって、本来ならば島流しに処すべきところを切腹を申しつけられています。
 このように家康は村正は当家に不吉なりと言ったことから大名、旗本たちは徳川家に遠慮して、村正の刀を差すことをはばかり、現在でも村正の二字銘の村の字を消したものを見るとあります。
 また、反対に豊臣家の恩願を受けた大名や、徳川家に反感を持つ武士達や、幕末の勤皇倒幕の志士達がこぞって村正の刀を愛用しています。真田幸村指料がいい例で、幕末では土佐藩の家老後藤象次郎が村正の刀を差していました。また、二字銘で切りやすいので無銘の刀に切った偽銘が非常に多いです。


 [数打ち物]
 数打ちと呼ばれるのは、数でこなす粗製刀のことである。それを作るには、まず安価な材料をつかう。鉄は品質によりかなり価格に開きがあった。次に鍛錬回数を減らす。日本刀の特徴である折返し鍛錬を十五回やると鉄の量は半分近く減ってしまうので、鍛錬回数を少なくすれば鉄の材料費を節約できるとともに、手間代がはぶける。つまり安い刀が提供できることになる。

 昔の武士は、経済的には今日のサラリーマンと同じであった。現代刀匠に新作刀を注文できるほど、経済的に余裕のあるサラリーマンは少ない。昔の武士には、その日の糧にも困るほど微禄なものが相当いた。彼らに高価な刀が買えるはずがない。それに刀は武士だけの専用ではなかった。
 豊臣秀吉の「刀狩り」以前は天下万民が刀を有していたし、それ以後でもいわゆる道中差しは、武士以外でも佩用を許されていた。彼らの需要は、すべて刀の格好をしていればいい安価な刀ばかりであった。そうした需要に応じて供給するために、数打ち刀がぜひ必要だった。
 「播磨打ち」といって、播州で作られた数打ちも、その需要に応じたものであった。いくら粗製刀でも毎日打っていたら腕もよくなるので、その中から津田越前守助広(初代)のような上手も出ている。

 名工の作だったら作り切れないほど売れるが、凡工の作だったらサッパリ売れない。凡工でも生きる権利を確保するためには、値段で勝負しようと安い数打ち刀を作らざるを得なかった。
 世に「奈良刀」と呼ばれる起源は多く、ここにあったようである。奈良刀または奈良物という言葉は、古くは奈良産の名刀という意味で使われていた。室町初期に成ったものとされていて、諸国の名物と並んで奈良刀を挙げている。当時奈良には末手掻派を主力にして、優刀が作られていた。と
ころが室町末期にはいると、大和から美濃の関(関市)に移住したいわゆる関鍛冶に繁栄を奪われてしまった。奈良鍛冶たちは、奈良見物に来た大衆相手にお土産代わりの安い数打ち物を作るようになった。昔は奈良の名刀という意味だったのが、一転して粗製刀の意味に転落してしまった。

 悪貨は良貨を駆逐するという経済の原則どおり、金房鍛冶のまじめな良刀を尻目に、数打ちの奈良刀が大繁盛するという皮肉な結果になった。
 奈良刀を買って帰ろうという客が多くなると、奈良鍛冶に長さなん尺なん寸の刀が夕刻までほしいと注文すると、奈良鍛冶の鍛冶場には、刀の身幅と重ねに合わせて素延べした鉄板が幾つも用意してあって、注文の長さに切断し、見る見るうちに一刀を仕上げ、夕刻までに研ぎあげ白鞘に入れて
客に渡していたそうだ。太平洋戦争中スチールの鉄を素延べ(鍛え無しの無地肌)した、いわゆる昭和刀の如き似非刀だったのかも?。
 奈良刀の評判が高くなると、他国から纏まった注文も来るようになって、需要が供給に追いつかなくなった。それで、奈良の問屋では遠く肥前(佐賀)にまで手を伸ばし、忠吉一門から数打ち刀を送ってもらったほどである。
 京都も観光の街であり、古刀期から「柴辻物」といって、柴辻あたりが作った数打ち刀をひろく売っていたが、新刀期になると四条南・寺町の業者が奈良刀を仕入れてきて、派手な外装を拵えて売り出すようになった。それを京都では「寺町物」または「拵え物」と呼んでいた。
 京都で奈良物が売れるという評判になると、大坂や江戸の業者も右へならえをした。江戸では、神田紺屋町の刀問屋が、大坂から数打ち物を仕入れて小売や地方の業者に卸していた。それでこれを「紺屋物」または「紺屋打ち」と呼んでいた。

 幕末では備前長船の加賀介祐永などは、「友成五十六代孫」という肩書きをつけて注文に応じていたが、弟子たちは稽古打ちとして、盛んに数打ち物を作った。それを問屋に持ってゆくとなん本でも買ってくれた。刀は弟子たちが稽古のため、備前伝をはじめいろいろの伝で打っていた。それで問屋に荷をおろすと、これは備前伝、それは美濃伝と選り分けて、作風の似たような刀工の銘を切った。

 数打ち物を材料にしたのでは上作のニセ物は作れない。ある程度似たものを材料にしなければ、すぐ看破されてしまう。
 幕末の巨匠水心子正秀は、長曽弥虎徹の偽物を作るには和泉守国貞三代目・伊豆守正房・大和大掾正則初代などの三工。津田助広には門人や高井越前守信吉。井上真改には子の団右衛門や門人鈴木貞則の作などが使われているようだ。それで虎徹を見たら三人の作ではないか、と疑って
かかれと述べている。
 大坂では幕末のころニセ物を作るには、井上真改には水田国重、長曽弥虎徹には越前汎隆や正則、津田助広には越前守信吉、相州物には伊勢村正の作を用いていたという。


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           無銘ながら重文の太刀
(古備前と思われる。踏んばりがある優美な姿に映りがあざやかです)




[竹俣兼光の詐欺事件]へ続く