宮城野 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

 仙台に生まれ育った私にとって、歴史的東北地方と言って
真っ先に思い浮かぶ言葉は「えぞ蝦夷」である。京の
都人(みやこびと)が、野蛮人の住む遠い辺境の未開地と
イメージし、蔑視しているのであろうと思っていた。
 ところが平安朝の貴族たちは、陸奥国にロマンチックな
憧れを抱いていたらしい。今から1260年程前、東大寺
大仏を黄金で飾った砂金は、陸前(宮城県)で発見された。
以来陸奥国は、くがね黄金花咲く国となった。
 また、古今和歌集をはじめとする多くの歌に、白河の関
(福島県白河市)や宮城野の萩が詠まれている。その詩的感情は、
たとえば私たちが井上靖の西域小説を読んで、遠い異界の
時空を夢想する気分と似ているのかもしれない。

 東大寺の大仏建立と時を同じくして、聖武天皇は全国に
国分寺・国分尼寺の建立を命じた。陸奥国分寺は、現在の
仙台市若林区木ノ下の地に建てられた。「奥の細道」の旅で
ここを訪れた松尾芭蕉は、
「日影ももらぬ松の林に入りて、ここを木ノ下といふとぞ」
と記している。一面の赤松林だったのだろう。
 この陸奥国分寺の北に広がる野が、平安朝の頃から萩の
名所として知られていた「宮城野」である。紅紫色の萩の
花が、秋風吹く宮城野に咲き乱れるという、可憐であり
ながら寂しげなイメージが、平安朝貴族の詩情をかきたてた
のだろうか。
 木ノ下の北隣のなだらかな岡が、つつじが岡である。
今は桜の名所・榴ヶ岡になっている。この地はその昔、
「鞭楯(むちたて)」と呼ばれていた。源頼朝が奥州藤原氏
を討つべく19万の大軍で遠征した際、藤原泰衡(やすひら)
がこれを迎え撃つ為に陣を張った場所である。
 泰衡は、先陣の国衡が敗れた知らせを受けて平泉へ
引き揚げ、やがて泰衡も家臣の裏切りによって殺され、
黄金の奥州藤原王国は滅亡する事になる。
 木ノ下・榴ヶ岡から、宮城野原を通って陸奥国府・
多賀城政庁(宮城県多賀城市)へと続く道は、「奥大道」と
呼ばれていた。この道の途上に、一本のいちょうの木がある。
推定樹齢は、1200年とも1300年とも言われている。
 1200~1300年前と言えば、奈良時代の聖武天皇の
頃ではないか。その頃生まれた樹が、今も現役で生きている
というのは、やはり驚きである。誰が呼んだか「宮城野の
乳いちょう」。銀杏町の名も、むろんこの樹に由来している。
 乳いちょうは、高さ32メートル。幹の太さはおよそ
8メートル。雌株である。宮城野の大地に深々と根を張り、
地の霊気を吸い、神霊の風格を宿している。黒々とした
太い枝からは、牛の乳房のような気根がいくつも垂れ
下がっている。秋になると今でも、数多くのぎんなんを
実らせる。まさに「宮城野の最長老・オババ」と言える。
 乳いちょうの前に立つと、まずその神気(オーラ)に
圧倒される。
「うっ・・ん─・・すっ・・すごいっ・・」
確かに圧倒されるが、威圧的な霊気ではない。恐る恐る、
畏敬の念をこめて幹に触れてみる。凝縮された1300年の
時空が、身体を貫く。ふっと全身の力が抜け、広々とした
青空のような気持ちになってくる。これが本当の「自然の
叡智」というものなのだろう。

 乳いちょうは、宮城野八幡神社の境内にある。この神社は、
桓武天皇の延暦17(798)年に、征夷大将軍・坂上田村麻呂
が、男山八幡の分霊を勧請して社殿を造営したのが始まりと
されている。
 源氏の軍神・八幡太郎義家は、前九年の役が終息する
康平5(1062)年にこの神社を訪れ、奥州阿倍氏を討つ
べく戦勝を祈願した。
 時移り、元弘2(1332)年、陸奥守・北畠顕家(あきいえ)
は、北朝の敵・足利尊氏を討つべく、弓矢と太刀を献じて
戦勝を祈願した。
 ともあれ「おお、歴史だ」と思う。乳いちょうは、坂上
田村麻呂や源義家、北畠顕家や伊達政宗といった歴史上の
有名人の実物を、生で見ていた事になる。1000年と
いう時間の単位に、軽いめまいを覚える。
 巨樹・古木というのはすごい。地震・台風・落雷といった
自然災害をやり過ごし、空襲や宅地造成などの伐採という
人災をもかいくぐって、今日まで生き延びているわけで
ある。ちょっと調べてみると、案外身近な場所に、人知れず
在るもののようだ。

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