私もタイ・カッブを嫌ってます。 何故なら走塁時、二塁に滑り込む際にタッチを避けるためになるべくベースから遠ざかって爪先をひっかけることでセーフ判定を狙う「フック・スライディング」を考案・実践ひらめき電球したり、二塁へ進む際、ダブルプレーをとられないよう相手内野手に足を向けて滑り込んでゆく「ゲッツー崩し」を積極的にしかけたのがカッブが始めたからです。ひらめき電球今では一般的になり高校生でもやってきますが、そのせいで二遊間はかなり危険にさらされることになります。高校では投手兼遊撃手だった私は(投手で出番はほとんどありませんでしたが)このスライディングを避けて一塁に送球する練習を何万回やらされたことか・・・。あせる



レッドソックスファンの人生ブログ


タイ・カッブは日本では「球聖」と冠され、アメリカでは「メジャー史上、最も偉大かつ最も嫌われた選手」と言われている。また、世界野球史上唯一の打撃全タイトル制覇、六冠王を達成した選手王冠1

ジョージア州の教師ウィリアム・カッブと若妻アマンダの家庭に生まれ、厳格な父親は一時ごろつきになるのではないかと心配し、タイが野球をするのに反対。カッブは、自らの実力を過大評価した手紙を新聞社に送りオーガスタ・ツーリスツと契約。お金

オーガスタでの2年目の1905年8月に父・ウィリアムが、暴漢と勘違いした母親に誤って銃撃され死亡。叫びその葬儀の後、カッブはすぐにデトロイト・タイガースと契約したがそこでの恒例の新人相手のいたずらでいきなり暴力沙汰の騒ぎ。

2年目は体調不良などでわずか98試合に出場しただけでしたが、打率は3割1分6厘という好成績。翌年1907年には3割5分で首位打者。さらに、最多安打、打点王で当時の三冠王を達成。3年目にしてブレーク。この打率3割5分以降、24年間の現役生活最後に至るまで打率.3割2分3厘を下回る事はありませんでした。この年2年連続となる、当時の三冠王を達成。王冠1

強い闘争心と勝つためには手段を選ばないえげつなさで、いくつかのエピソードを残しています。1909年のシーズン終盤、1.5ゲーム差で首位を争うフィラデルフィア・アスレチックスとの試合で三塁への盗塁の際、故意にスパイクで三塁手の腕を刺したり、試合後半に安打を打つと迷わず二塁を目指し、スライディングで二塁手に足払いをかけて転倒させたり・・・。ドクロこの事によってカッブの悪評が全米に知れ渡ることとなった。「最高の技術と最悪の人格の持ち主」むかっと形容されるようになってしまう。これについてカッブは、「勝つためには手段は選んでいられなかった」と語っている。

1909年の成績は素晴らしいもので、世界野球史上初となる、首位打者、本塁打王、打点王、最多安打、盗塁王、最高出塁率の全タイトル制覇で六冠王を達成アップまた、この年はタイトルではないが二塁打数、三塁打数、長打率、塁打数、得点数、OPSでもトップだった。合計すると、12部門でトップであり、また、同年に達成したこの成績は3年連続の三冠王。王冠1

1910年、ナップ・ラジョイと打率のタイトル争いで打率を維持するためにカッブは残り試合を欠場。その後、ラジョイはダブルヘッダーで7本ものヒットを記録、カッブに追いすがった。ところがそのうちの6本がサードへのバントヒットで、セントルイス・ブラウンズの監督ジャック・オコナーが当時人気の高かったラジョイにタイトルを勝ち取らせるために三塁手に後ろに下がってプレーしろと命じた結果のものだった。これでラジョイの首位打者が確定、ラジョイはお祝いのメッセージ手紙を受け取ります。何と、カッブのチームメイト8人から・・・。カッブのチームメイトもカッブに首位打者を取らせたくなかったんですね。コミッショナーがカッブの安打数を認定し直したため、結局、公式な首位打者はカッブとなりました。。

1911年、自身初の打率4割に到達。キャリア最高の打率4割2分を達成。自身4回目の三冠王で、この年は投票数満票でのMVP選出王冠1


1912年、ニューヨーク・ヒルトップパークでのハイランダース(現在のニューヨーク・ヤンキース)戦でッブは観客の暴言に逆上してスタンドに殴りこみ、暴言を飛ばしたその観客(事故で片腕を失い、もう片方の手も不自由な人)を袋叩きにするという暴挙パンチ!を起こして退場、出場停止処分となった。叫び制止しようとしてカッブに殴られた人物によると、「その男を蹴るな!両手が無いんだぞ!」と止められても「こいつ(暴言を吐いた観客)だけは、両足が無くてもこうしてやる!」と怒鳴り返したそうです。5月18日、この処分を不服としたチームメートはフィラデルフィアでの試合をボイコット。チームは臨時で大学生らのアマチュア選手を集め、コーチ2人と合わせて試合を行うも24-2で大敗。結局カッブ自身がチームメートを説得し事態は収拾。しかし、1911年から続いて史上初となる2年連続打率4割を達成

1914年に肋骨を骨折し、その後右親指も骨折。喧嘩のためとも言われています。

1915年首位打者に輝き、9年連続首位打者。1916年打率3割7分1厘の高打率をマークするも、おしくも首位打者を逃します。

1921年には選手兼任でタイガースの監督に就任、同年のワシントン・セネタースとの一戦で審判の判定に激高し、試合後に観客と息子のジュニアが見守る中で審判のビリー・エバンスと取っ組み合いの大げんかを起こしている。その後タイガースを退団する1926年まで、監督として指揮をとったが、この時に、後に名二塁手として称されるチャーリー・ゲーリンジャー育てています。

1922年には4割1厘の高打率を残しますが、首位打者は4割2分をマークしたジョージ・シスラーに譲る形となった。だが、自身3回目の打率4割となり、史上初の3回目の打率4割を達成。

1926年限りでカッブはタイガースを退団して、フィラデルフィア・アスレチックスに移籍したが、2087得点、3902安打、664二塁打、286三塁打といったタイガースの球団記録樹立。

その後2シーズンをアスレチックスで過ごした後、1928年に現役を引退。

引退時には通算安打数をはじめとする90ものメジャー記録を保持。現在も30を超える記録が健在であり野球選手として堂々たる記録を残していますが、同時に性格の悪さも折り紙つきで、エゴイスト、人種差別者、粗暴な態度と歯に衣着せぬ口の悪さでも有名。そのため周囲からは忌み嫌われ、疎まれる存在でした。

映画『フィールド・オブ・ドリームス』の中でシューレス・ジョーことジョー・ジャクソン、「タイ・カッブも来たがっていたが、生前の恨みでヤツにだけは声をかけなかったよ」と言っている)。カッブと長い間チームメートだったデイビー・ジョーンズも、「彼(タイ・カッブ)がスランプに陥ったときは、話しかける事なんかできなかった。(ただでさえひどい態度が)悪魔よりもひどくなっていたから」と語っている。カッブの悪癖の1つにダッグアウトで相手にわざと見えるようにしてスパイクの歯を研ぐ事が知られているが、これは進塁の際に進塁先の守備を萎縮させる狙いがあったためとも言われています。


1936年に野球殿堂入り。そのときの得票数はベーブ・ルース らを上回り、最多得票。


カッブは、引退後のメジャーリーグでの本塁打至上主義には批判的な見解を示し、「野球本来の面白さは、走塁や単打の応酬にある」と自らの回顧録で語っているように「スモール・ベースボール」の重要性を説いています。打率維持のため、長打狙いのバッティングはしなかったが、実際は長打力も併せ持っており、ある時、ベーブ・ルースの豪打ばかりもてはやすマスコミ陣に対し、「君たちに見せたいものがある」と宣言して、セントルイス・ブラウンズ戦に臨み、その日の試合で柵越えの本塁打を3本、その次の日の試合でも本塁打を2本放ち、フェンス直撃の二塁打も2本打ってその実力を証明。

本塁打至上主義に批判的な見解をしめす理由の一つとして本塁打狙いになることによっての、大振りによる打率低下を言っており、ベーブ・ルースの本塁打狙いの打撃はまさにその典型だと語り、その打撃スタイルを否定。さらに、ルースタイ・カッブのヒット狙いの打法に対し、「あんたみたいな打ち方なら俺なら六割はいけるだろうな。でも、客は俺のけちなシングルヒットじゃなくて、ホームランを見に来ているのさ」とコメントしたため、カッブ自身も「打てるものなら打ってみろ。3割そこそこでなにを言ってやがる」と反論。むかっしかし、そのルースが打率3割7分6厘という高打率を記録したため、カッブ自身もルースを認める評価。さすがに本塁打狙いの打撃への否定は続けたが、ルースの打撃の才能を高く評価しはじめ、打率3割9分3厘で投票数満票でのMVPをとったときなどは「本塁打狙いの打撃をやめれば、4割を超えるのは間違いない」と述べ、自らのバッティングの考え方の差を感じたコメントをしています。

対ヤンキース戦での乱闘のときなども、いつもカッブに向かってやじを飛ばしていたルースに真っ先に殴りかかり、激しい乱闘。しかし、そんなカッブも、野球選手としてのルースに高い評価をし、回顧録で記した『自身の選ぶオールスターチーム』のメンバーにも、ベーブ・ルースを選び、またルースの死にも「また来世で会えることを願う」と記しています。


引退後に出場した試合で、捕手に「ひさしぶりに、バットを握るので、バットがすっぽ抜けてしまうかもしれない。少し後ろにさがっていてもらえるか?」と頼み、捕手が後ろにさがると、すかさずセーフティバントに成功。これを見ていた周りの選手は、「引退してもタイ・カッブという選手はあくまで勝利のみにこだわっている」ビックリマークと感心。

絶好調のときのタイ・カッブはあまりにもすさまじく打つため相手から報復とも言える行動をされることも少なくはなく、相手の捕手の中には、審判がボールをストライクと言うところのみしか投げないように指示し、そこのみを投げるように投手にいう捕手もいたり、あきらかに危険球ともいえるようなボールしか投げてこない選手も多かったそう。また、打席のみの報復にとどまらず、外野への打球で、二塁をまわったときに、腰にボンッと体当たりされて三塁打を二塁打にされ、乱闘になったなどがあります。パンチ!


嫌われ者というイメージが強いカッブですが、アメリカ球界に多大なる貢献をした人物なのに、その球界から厄介者のように扱われていた印象が強いですね。勝負にこだわる姿勢を、野球というスポーツのイメージを悪くしたととられてしまった、悲運な選手でもあります。彼なりの正義感で動いていたらしく、打撃不振などを責められたためにチームメイトと大喧嘩をしたり、前述のようにひどいやじをとばした観客を袋叩きにするなどの暴挙もありましたが、相手にも原因があるときのみしか大喧嘩をしなかったと言われています。試合の乱闘も、ボールをあてられたチームメイトへの怒りによるものなどがほとんどで、相手に大きな怪我をさせるような乱闘は一度もしていません。これは「怪我のせいで野球をできなくなるつらさは自分が一番わかっている。それを、たとえ敵でも同じ」とカッブ自身も語っています。


闘志を前面に出すプレーをし、それが結果として悪態として扱われてしまったこともありますし、乱闘のときなどは、ボールをあてられたチームメイトのために激しく攻撃したことも多かったそうです。パンチ!

引退後は現役時の罪滅ぼしなのか、若手選手を積極的にバックアップ。例えばジョー・ディマジオヤンキースと契約するときに一役買ったエピソードや、また困窮した元メジャーリーガーのために自分の財産の一部を寄付し続けた話もあります。お金その一方で自身の生活は荒んだもので、護身用に拳銃を携帯し、また体の痛みを紛らすためにバーボンビールを一日に一瓶空けるありさま。また、結婚生活もすべて最後は破局し、寂しい晩年となります。1961年7月にカッブは74歳でこの世を去りますが、現役時代や引退後の業は相当深かったらしく、葬儀に訪れた球界関係者はたったの3人、ないしは4人だけ。

カッブは人知れぬ悲しみを振り払うために野球野球に打ち込んでいたこと、そして、カップが貧困しているかつての野球仲間に定期的に送金お金していること、自分の凶暴な面のため、家族とはうまくいかなかったことなどをも書き留めめられていました。


専門家の中には、「彼は本当は、そこまで嫌われるほどの人物ではなかったのではないか?」や 「彼がこんな性格になってしまったのは、彼のつらい過去に原因があるのではないか?」との声も・・・。


野球選手として、とてもすぐれていたのは間違いありません。もし今、タイ・カッブが生きていたらスモールベースボールのチームはもっと多かったでしょうし、イチロー選手批判に対し、イチロー選手を擁護してくれたように思います。