きのう「相棒」の文章を書いたあと、「なんかしっくりこない」と思っていました。何だか落ち着かない。まだし足りないというか、妙な残○感というか・・・。

下品ですね、逆にします。飲み込んだはずなのに咽喉に引っ掛かっている感じがして眠れませんでした。寝ましたが。


一晩眠って結論が出ました。

「相棒」は「渡る世間・・・」がやってきたような「シリーズ再開」番組です。全く新しいプログラムではありません。よってどんな視聴者を想定しているかといえば、これはかなりの部分が「相棒の固定客」でしょう。前に、この番組はシリーズの放送過程で「じわじわとファンを増やしていったんではないか?」と書きましたが、そのファンを狙っていて、して、このスタートスペシャルを見る限り、そういう「相棒のスタートを待ってました」的視聴者にしか向けられていないのではないか?と考えるわけです。そうでないとすれば、例えばかつての「太陽にほえろ」のように、(誰かに白羽の矢を立てて殉職させ)新人刑事を登場させたり職場のアイドル的お茶くみOLを新しく登場させたり、何らかの新味がなければおかしい。

顔ぶれは全く変わっていないでしょ?主役のふたり「水谷豊・寺脇康文」をはじめとして、鈴木砂羽、高樹沙耶、岸辺シローの弟?兄?それから津川雅彦とか。もちろん変わってもらっては困るわけですよ。んで、スタートスペシャルに過度の期待をした僕がいけなかった。ちゃんと津川・長門裕之の兄弟対決を実現させて、影の悪党としての高橋かおりを悪女として登場させて、それで充分なのです。僕はつい、他局で始まる新ドラマの乗りで「相棒」に期待をしてしまっていました。それは間違いでした。


期待はせず、楽しみにしていればそれでよかった。

期待をするというのは、あらかじめ一定のレベルの結果を持って臨む事です。例えば、去年の正月にお年玉を(毎年ちょっとずつ上がった結果として)1万円くれた親戚に遊びに行くとすれば、今年は最低でも一万円は貰えると期待します。それが「去年、会社が倒産したから今年はね、お年玉はナシよ。ごめんね?その代わりご馳走たくさん作ったから、お腹いっぱい食べてね?」って親戚のおばちゃんが言うのです。仕方ないけど、がっかりはします。でも、2年に1回くらい3000円くれる親戚なら、期待はしませんが楽しみにはします。そういうことです。


ここで、『「相棒」は現代の水戸黄門である』と言ってしまいます。それはどういうことでしょうか?水戸黄門について、僕は僕はこう 書きました。

いはく、毎回色んな趣向を凝らしながら、しかし絶対に観る側の期待を裏切る事はしない勧善懲悪の大団円。

「相棒」もそうなのです。事件の捜査を担当するのは捜査1係です。しかし、この連中が全く頼りになりません。特命係の二人は、あとからふらっと(・・・とも限らないが)現れて、右京の独自の視点と、「亀山のとぼけた或いは何気ないひと言に刺激された」右京のひらめきでもって事件の謎に迫ります。エピソードによっては表面上の落着だけで、真犯人が検挙されないケースや逃がしてしまう事案もあったように記憶していますが、視聴者のニーズには最終的にはきちんと応えてくれます。様々な趣向を凝らした最後にはきっちり勧善懲悪を成し遂げてくれるわけです。エピソードが前後編に分かれた場合を除き、不覚にも見逃した週があっても問題なく楽しめるところも嬉しいですね。これも水戸黄門と共通しています。裏切られる結末は存在せず、楽しむのはそこに至るまでの経緯なのです。


スタートスペシャルのエピソードも、裏の裏の裏の、って感じでした。嘘をついているのは誰だ?騙されているのは誰だ?殺人の動機を持っているのは誰で、実行したのは誰で、手口はどうで、要はなんだ?・・・というような、事件の鍵を握る言葉をいつ誰が発するのか?どんな新事実が出てくるのか?という、非常に引き込まれる、いわば大人の観賞に耐え得る謎解きの楽しみがありました


次回はどんな話で、そしてゲスト(たいがいはそいつが犯人です)は誰でしょう?

ただ楽しみにしたいと思います。

現代版「水戸黄門」として見る。それが正しい「相棒」の見方です。