第三回 鞆の浦検定 開催中! | 鞆の浦二千年の歴史を紐解く“鞆の浦研究室”/Discovery! 鞆の浦

第三回 鞆の浦検定 開催中!

いろは丸展示館
いろは丸展示館 posted by (C)鳶眼


第三回 全国一斉 鞆の浦検定
伊 呂 波 丸
~才谷梅太郎から「鞆殿」への恋文~


沼名前神社
沼名前神社 posted by (C)鳶眼





第三回 全国一斉 鞆の浦検定/検定問題

【 】内にある問を埋め、正しい文章を完成してください。
回答は5月30日(日)17時まで、ゆっくり考えて答えてください。
回答フォームは一番下にリンク先を記してあります。


pdf版はコチラからダウンロード
http://www.himalaya21.com/tomoken.html


慶長4年(1599年)、鞆の浦では大事件が起こりました。【問一】により、鞆祇園宮・渡守大明神は焼失し現在の場所に再建され、翌、慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦ののち、福島正則統治のもと【問ニ】されはじめ、もともとは孤立した島だった【問三】が陸続きとなり、室町時代では「釈迦堂」と呼ばれ、別の場所にあった【問四】が慶長年間末頃(1610年頃)【問三】に建立された。


保命酒浜/朝焼け1
保命酒浜/朝焼け1 posted by (C)鳶眼


【問四】の座敷【問五】は、【問六】の叔父【問七】が美しい景色に感動して銘々した。


保命酒浜
保命酒浜 posted by (C)鳶眼


寛永10年(1633年)鎖国令が発令される中、1634年~1850年までの間、【問八】は、18回(一説には19回)鞆の浦へ来航した。
1688~1704(元禄年間)には、鞆城の城郭の一角として遠見番所の役目も持つ、福禅寺本堂に隣接した客殿【問九】を建立。


福禅寺・対潮楼から
福禅寺・対潮楼から posted by (C)鳶眼


正徳元年(1711年)第八回【問十】の正史・趙は、ここからの景色を【問十一】(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)と讃え、従事官・李邦彦に六文字を書かせた。福山藩はこの書を板に彫らせ木額にし、永く寺に保存するように命じた。寛延元年(1748年)第十回【問十】正使・洪啓禧は復路の7月10日、宿泊した福禅寺の客殿を【問九】と命名。息子の慶賀使・洪景海に【問九】と書かせ、住職に与えた。【問十】の来航は【問十ニ】回におよぶ。
小松寺へ奉納された「容顔如見(ようがんみるごとし)」の扁額は、
寛政2年(1790年)この地で病死した【問八】の楽師・向生7回忌の供養に、寛政8年(1796年)、向生の父親・祖父が奉納したもので、今も本堂に掲げられている。赤地に黒、金箔などの華やかな【問十三】様式となっている。
文化11年(1814年)、【問六】は、酒製造や問屋などで栄えた豪商・大阪屋当主の三島怡斎に求められ、門楼を【問十四】と名付け漢詩「【問十四】記」を残した。その中で窓から見える仙酔島や瀬戸内海の景色を【問十五】と描写し、熟語の語源となったとされている。この後、【問六】は幕末の【問十六】運動や勤皇思想に大きな影響を与えた日本の歴史書、【問十七】を発行することとなる。


坂本 龍馬は天保6年11月15日(1836年1月3日)土佐国土佐郡に生また。
嘉永6(1853)年には、剣術修行のため、北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉の桶町千葉道場(通称:小千葉道場/東京都千代田区)に入門。安政5(1858)年、剣術修行を終え土佐へ帰国。
このころ、鞆の浦では日本最大と謳われる常夜燈を町衆が寄進。その東側に彫られた町衆の名前は次のうちどれでしょう。「寄進【問十八】中」
文久元(1861)年3月、井口村刃傷事件を機に土佐藩は下士・上士の間で対立が深まる。約半年後、下士は武市瑞山(武市半平太)をリーダーに土佐勤王党を結成し、龍馬は9番目(土佐では1番目に加盟)に加盟した。10月、武市の密使として長州へ向かい翌、文久2(1862)年1月、萩で久坂玄瑞と逢い2月末に帰国。萩からの帰国後、1ヶ月も経たないうち沢村惣之丞と共に脱藩した。その直後に勤王党による吉田東洋の暗殺事件がおこり、当初は龍馬が実行犯として疑われたが、龍馬は九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる。千葉重太郎の紹介で幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。春嶽の紹介状を携え12月、勝海舟に面会して弟子となる。

文久3(1863)年、勝海舟・神戸海軍操練所の設立に尽力、操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭を勤める。勝海舟・松平春嶽の運動で土佐藩主・山内容堂から脱藩の罪を許されたが、京都では八月十八日の政変(文久の政変)が起きました。文久3年8月18日(1863年9月30日)【問十九】派が、長州藩を主とする【問十六】派を京都における政治の中枢から追放した政変である。【問ニ十】を追放された【問十六】派の三条実美ら公家七人も長州藩兵と共に落ち延びた。これを【問二一】という。一行は鞆の浦保命酒屋(太田家住宅/旧保命酒屋)に立ち寄り、保命酒を讃える【問二ニ】を遺しました。


日東第一形勝
日東第一形勝 posted by (C)鳶眼



世にならす鞆の港の【問二三】をかくて嘗むるもめつらしの世や



また、三条 実美は土佐藩16代藩主・山内豊範とは【問二四】にあたる。
この【問二一】遺跡のある通りを【問二五】*通りと呼ぶ。
【問二五】は2004年、住民が命名した。
土佐勤王党も藩によって壊滅状態となる。藩の弾圧は江戸の龍馬にも及び、再脱藩することとなる。



西町/七卿通り(湧出町通り)
西町/七卿通り(湧出町通り) posted by (C)鳶眼



慶応元(1865)年、京の薩摩藩邸に移った龍馬の元に中岡慎太郎らが訪問。この頃から中岡と共に薩長同盟への運動を開始。薩摩藩の援助により、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行った。
龍馬は、長崎のグラバー商会(イギリス武器商会のジャーディン・マセソン商会の直系)と関係が深く信用を得ていたが8月、薩摩藩名義で香港のジャーディン・マセソン商会の信用状により長崎のグラバー商会から買い付けた銃器弾薬を長州藩に転売することに成功。この年、「非義勅命は勅命にあらず」という大久保利通の書簡を、長州藩重役に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷に任されている。慶応2(1866)年1月、龍馬の斡旋により、京都にて長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれた。このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書を依頼されるが、1月23日裏書を行う直前に寺田屋で幕吏に襲撃され、一命を取り留める。2月29日 お龍と結婚 中岡慎太郎(媒酌)、寺田屋での傷を癒すため、3月4日 薩摩藩船「三邦丸」は大坂を出港し、妻お龍と共に鹿児島に新婚旅行をする。これが日本初の新婚旅行と言われている。日当山温泉、塩浸温泉、霧島温泉などに宿泊。6月2日 坂本龍馬、お龍 「桜島丸<亀山社中の船・ユニオン号(グラバー商会から薩摩藩名義で買い入れ「桜島丸」となり、長州藩に引き渡され「乙丑丸」となる)>」で鹿児島出港。6月、第二次長州征伐では「乙丑丸」で長州藩海軍を支援。慶応3(1867)年、土佐藩との関係を修復して海援隊を創設。4月19日、海援隊約規を書いたのち、大州宇和島藩の所有する【問二六】は大坂に物資を運ぶため、長崎を出航。



【問二七】と乗り出す船は、稽古始めの【問二六】と唄った。



【問二八】午後11時頃、瀬戸内海、六島(現在の岡山県笠岡市)で紀州藩の【問二九】と衝突、【問二六】は大破。自力航行不能となって、近くの【問三十】に曳航しようとしたが、浸水のため【問三一】で沈没。龍馬ら海援隊士は明光丸の【問三ニ】を差し押さえ、事件の原因を追及、紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたものの、【問三三】をちらつかせ巧妙に談判は継続。
4日間にも及ぶ鞆の浦での談判は、【問九】【問三四】屋・魚屋萬蔵宅で行われ、海援隊隊士は廻船問屋・【問三五】にて身を潜めた。その時の隠れ部屋の様子が『いろは丸展示館』二階に再現されている。紀州藩は【問四】へ宿泊。当時龍馬は政治家・実業家ではあるが脱藩浪士であり、身を守る方法として「才谷(さいだに)梅太郎*」という変名を名乗る。その変名を使用して書かれた
「備後鞆津ニ於テ才谷梅太郎*紀州高柳楠之助等ト応接筆記」は、【問三六】と言われ、交渉経過を克明に記録した土佐藩の文書ではないかと見られており、相手に斬り込みかけようという海援隊士を、龍馬が【問三七】事にも触れている。紀州藩明光丸は、急用を理由に龍馬たちを残し【問三八】へ。談判の場は【問三八】に移り、龍馬は世論を味方につけるため、長崎・丸山遊郭で【問三九】というPRソングを流行らせた。結局、紀州藩は薩摩藩・五代友厚へ仲裁を頼るが、5月28日(29日とも言われる)、8万3526両198文の損害を賠償することで決着。談判の経過を妻・【問四十】に報告した手紙が現存。その宛名に「【問四十】殿」とすべきところ、なんと「【問四一】」という変名が使われていたという・・・ 『後藤象二郎と京に行くことになった』と書く。
慶応3年9月、下関で三吉慎蔵にお龍を預け、伊藤俊輔(伊藤博文)と会う。お龍と龍馬の最期の別れとなった。
後藤象二郎とともに【問四ニ】を策定し、後藤象二郎が山内容堂を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させた。同年11月15日(1867年12月10日)、京都の旅寓・【問四三】(京都市中京区)で何者かにより中岡慎太郎と共に暗殺された。龍馬はまず額を深く斬られ、奮戦するもののそれが原因ですぐに死亡。中岡も重傷を負うが、数日間は生存して意識もあり、事件の証言を残したが暗殺犯は未だ解明されていない。

1867年4月23日、瀬戸内海で沈没した海援隊の「【問二六】」は、143年の月日を経て2010年1月9日、「【問四四】」として就航する。(レプリカで縮小した旅客船)

※才谷梅太郎と大浜濤次郎(浅次郎)は、坂本家の先祖が住んでいた【問四五】村(高知県南国市才谷)の大浜屋敷に由来する変名。取巻抜六は、薩長同盟締結後に寺田屋で伏見奉行所役人に襲われた時、上手く取り巻きから抜け出した事を表したという変名。



さて、残り5問となってきました。
前回(第二回)まではフリーダム・トレイル(散策経路に沿って問題を作成)を採用しておりましたが、今年は日本全土を席巻しているNHK大河ドラマに因んで今回のみ“戦国時代から幕末にかけての鞆の浦・及び来訪した人々の歴史問題”へ、シフトしました。前回までの反省点を活かし如何に文字数を少なくするか悩みどころではありましたが、残念ながら奥深い歴史は削ることはできませんでした。それでもここまで一生懸命受検された方々に心から感謝します。それでは、その後の鞆の浦と前出の人達は・・・


慶応3年12月9日(1868年1月3日)、龍馬が暗殺された約一ヶ月後、明治天皇は王政復古の大号令を発令。明治4年7月14日(1871年8月29日)には、廃藩置県の行政改革。このころ、土地相撲で沸かせた鞆の浦出身の力士:村上武右衛門(のちの「鞆の平」)は
明治14年(1881年)5月新入幕から破竹の勢いで角界を沸かせ関脇まで昇りつめた。四股名は『東京力士 鞆ノ平 武右衛門』であるが、大坂相撲で名乗っていた四股名は【問四六】である。


東京力士/鞆の平
東京力士/鞆の平 posted by (C)鳶眼


明治22年(1889年)【問四七】は黒田内閣総辞職後、一時臨時首相を兼任した。
明治27年(1894年)神戸三宮に生まれた【問四八】は失明する8歳までに祖父母に育てられた土地、鞆の浦の海にインスピレーションを受けて創作した【問四九】を昭和4年(1929年)に発表。


初日の出/鞆の浦42
初日の出/鞆の浦42 posted by (C)鳶眼


今から100年前の明治43年(1910年)には、【問五十】が創業した。祝!100周年!





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以下、回答三択一覧
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【問一】
A:鞆の浦の大火/B:雪崩/C:津波

【問ニ】
A:鞆城が築城/B:備後安国寺が建立/C:大可島城が築城

【問三】
A:大可島/B:津軽島/C:玉津島

【問四】
A:圓福寺/B:竜宮城/C:玉津島神社

【問五】
A:対潮楼/B:夾明楼/C:対仙酔楼

【問六】
A:頼山陽/B:頼杏坪/C:菅茶山

【問七】
A: 頼杏坪/B:菅茶山/C:頼春水

【問八】
A:琉球使節団/B:朝鮮通信使/C:ペリー率いる黒船

【問九】
A:対潮楼/B:夾明楼/C:対仙酔楼

【問十】
A:赤髪のシャンクス/B:琉球使節団/C:朝鮮通信使

【問十一】
A:容顔如見/B:日東第一景勝/C:和以貴為

【問十ニ】
A:6/B:12/C:18

【問十三】
A:アールデコ/B:琉球/C:韓流

【問十四】
A:対潮楼/B:対仙酔楼/C:夾明楼

【問十五】
A:山紫水明処/B:日東第一景勝/C:容顔如見

【問十六】
A:楽市楽座/B:尊皇攘夷/C:開国

【問十七】
A:対仙酔楼記/B:日本外史/C:日本書紀

【問十八】
A:関町/B:西町/C:原町

【問十九】
A:尊皇攘夷/B:公武合体/C:カメハメ

【問ニ十】
A:日本/B:朝廷/C:江戸

【問二一】
A:王政復古の大号令/B:大政奉還/C:七卿落ち

【問二ニ】
A:PRソング/B:詩吟/C:和歌

【問二三】
A:さかなかな/B:常夜燈/C:竹の葉

【問二四】
A:兄/B:兄弟/C:従兄弟

【問二五】
A:保命酒/B:西町/C:湧出町

【問二六】
A:明光丸/B:咸臨丸/C:いろは丸

【問二七】
A:船を沈め/B:世の人は/C:今日をはじめ

【問二八】
A:2月23日/B:3月23日/C:4月23日

【問二九】
A:いろは丸/B:咸臨丸/C:明光丸

【問三十】
A:鞆の浦/B:室津/C:下津井

【問三一】
A:宇治島沖/B:鳴門海峡/C:関門海峡

【問三ニ】
A:航海日誌/B:金銀財宝/C:羅針盤

【問三三】
A:万国公法/B:金銀財宝/C:武力

【問三四】
A:博多/B:長崎/C:西松

【問三五】
A:豪商大阪屋/B:升屋清右衛門宅/C:大田家住宅

【問三六】
A:いろは丸事件始末記/B:いろは丸事件奮闘記/C:いろは丸日記

【問三七】
A:制した/B:煽った/C:盛り上げた

【問三八】
A:長崎/B:京/C:薩摩

【問三九】
A:船を沈めたその償いは金を取らずに国をとる/B:今一度日本を洗濯致し候/C:世の人は 我を何とも 言わば言え 我なす事は 我のみぞ知る

【問四十】
A:千葉佐那/B:平井加尾/C:お龍

【問四一】
A:アギ/B:鞆殿/C:鬼小町

【問四ニ】
A:海援隊約規/B:船中八策/C:万国公法

【問四三】
A:枡屋/B:近江屋/C:寺田屋

【問四四】
A:第三べんてん/B:平成いろは丸/C:神勢丸

【問四五】
A:才谷/B:大浜/C:坂本

【問四六】
A:梅の海/B:梅の森/C:梅の平

【問四七】
A:後藤象二郎/B:三条実美/C:五代才助

【問四八】
A:井伏鱒二/B:宮城道雄/C:森鴎外

【問四九】
A:鞆ノ津茶会記/B:春の海/C:藤鞆絵

【問五十】
A:観光鯛網/B:鞆軽便鉄道/C:阿藻珍味

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◎5月1日(開始一週間)の一級認定者:4名
◎総アクセス数:1377アクセス

鞆検一級認定者一覧(4/23~5/1)
宮城県:カントウノリツグ様
愛知県:クワハラトモヒサ様
京都府:タカハシツトム様
大阪府:ニシオユミコ様
<50音順/敬称略>



次回の全国一斉 鞆の浦検定は2011年4月29日から全国一斉に開催します。
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