日東第一形勝 | 鞆の浦二千年の歴史を紐解く“鞆の浦研究室”/Discovery! 鞆の浦

日東第一形勝



【海岸山 千手院 福禅寺客殿「対潮楼」の借景から】

◎山号:海岸山
◎院号:千手院
◎宗派:真言宗・仏教寺院
◎本尊:千手観音<鎌倉時代>(市指定重要文化財)
◎創建:平安時代(950年頃)
◎開基:空也上人(弘也上人)・光勝
◎正式名:海岸山 千手院 福禅寺
◎文化財:千手観音、木造・地蔵菩薩半跏像<鎌倉~室町時代>(市指定重要文化財)、木造・役行者像及び二鬼像<室町時代>(市指定重要文化財)、国史跡 表・話・編・歴

◎所在地:広島県福山市鞆町鞆2 〒720-0201
◎入場料:大人:拝観料200円
◎営業時間:8:00~17:00 年中無休

備後西国三十三ヶ寺 第二番札所
京都大覚寺の末寺
本堂:観音堂(桁行三間、梁間四間の入母屋造)
客殿(使館):対潮楼・書院造客殿(桁行六間、梁間五間で向唐破風の玄関)


【朝鮮通信使の歴史】
 日本へ派遣された李氏朝鮮(1392~1910)からの外交使節団の名称。そもそもの趣旨は室町将軍からの使者と国書に対する返礼であり、永和元(1375)年、足利義満により派遣された日本国王使に対して、信を通わす使者として派遣されたのが始まりである。
 15世紀半ばからしばらく途絶えたが、「朝鮮に出兵するか否かを確認」するため、豊臣秀吉に向けて派遣されている。(安土桃山時代)しかし、その後の文禄・慶長の役によって日朝間が国交断絶となったために中断されたが、その後、江戸時代に再開。
広義の意味では、室町時代から江戸時代にかけてのものすべてを指すが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。


<第八次朝鮮通信使>
◎年号:正徳元(1711)年
◎目的:徳川家宣・襲封祝賀
◎人員:500人/正使・趙泰億
◎往路:9.9鞆の浦着船
◎復路:12.30~1.1鞆の浦着船

 正徳元(1711)年九月重陽の日:六代代将軍家宣の襲職祝賀に来日した。
正使・趙泰億は、ここからの景色を“日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)”と讃え、従事官・李邦彦(イ・パンオン)に六文字を書かせた。

正使・趙泰億は歴代の正使の中でも最高級の学者であり、人物であったと評されている。この時の朝鮮通信使の三使は帰国後、儒学者・新井白石により「国王を日本の将軍と同格にされた」責任を問われ、『辱国の罪』で処罰されてしまう。

「我等は朝鮮に居て、この地の風景が無双なことを、永年に亘って聞いていたのでありましたが、やはり評判戸通りで、今この目で確かめたことは日東(日本の東方地区)の形勝でこれに過ぎるところはございません。これは、ここにいる八人。十六の目が一致した感想です。/朝鮮通信使 李邦彦」


日東第一形勝
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◎さらに詳細な朝鮮通信使ログ
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833810319.html