ぼくたちは小川沿いの細道を水の流れに逆らって歩いた。
ぼくにとっては進む方向で、瑠璃花さんにとっては引き返す方向となる。
二人が並んで歩くにも窮屈な細道で、時々ぼくたちの腕は触れ合った。
ぼくは気付かないふりをしていた。
ふりをしていただけで、ぼくの腕に瑠璃花さんの白くて冷たい腕が振れる度に、ぼくは二人で指を絡めて歩いた半年ほど前の日々を思い出していた。
心音が高まり、まるで体全体が小刻みに振動しているかのような、そんな錯覚に陥る。
このことに、瑠璃花さんは気が付いているのだろうか。
もう気が付いているだろうが、ぼくと瑠璃花さんは中学三年の冬、ほんの数か月間だけ恋人同士だった。
出会いは中学一年生の頃。
ぼくも瑠璃花さんも数か月しか所属していなかったテニス部でのことだ。
瑠璃花さんはその大人びた容姿からすでに校内に知らないもののいない華やかな存在だった。
ぼくはというと、それはもちろん、学校という組織の中でひっそりと影を落とす地味な存在である。
そんなぼくでも、瑠璃花さんのことを素敵だと思った。
自身がどんな存在であったとしても、女性を素敵だと思うことは自由である。
ただ、素敵だと思っただけで、当時、瑠璃花さんに対してそれ以上の興味はなかった。
ぼくはその時点で、ある一定のボーダーラインを引いてしまっていたのだ。
ある雨の日の放課後。
武道場で室内練習でのこと。
瑠璃花さんは突然ぼくの目の前に現れた。
ぼくたちはしばらく見つめ合っていた。
少なくとも、ぼくは瑠璃花さんの綺麗な二重瞼と、整った眉と、すうっと通った鼻筋と、ふっくらと柔らかそうな唇にすっかりと見惚れてしまっていた。
それまで瑠璃花さんのことをなんとなく素敵だと思っていたぼくは、その至近距離で初めて「素敵」の意味を正確に把握した。
やがて瑠璃花さんは、ぼくの目の前でぱちんと手を鳴らした。
瑠璃花さんの「素敵」にぼうっと見惚れていたぼくは、突然の出来事に床の体操マットの上に尻もちをついた。
間髪入れず、瑠璃花さんはぼくの肩を体操マットに押し付け、顔を近づけてきた。
ぼくたちは、鼻の頭が触れ合うほどに近づいた。
瑠璃花さんのふくよかな胸も、ぼくの軽薄な胸にあわや接触していた。
ぼくは抵抗することも忘れて、何もしないまましばらくそうしていた。
ここまで接近してしまうと、瑠璃花さんの「素敵」はもう視界には入らない。
ただ、新たにそのしっとりと潤いのある美しい瞳にぼくは見惚れてしまっていた。
やがて瑠璃花さんが「かわいい子」と一言呟いた。
そうして、ぼくの肩から手を離すと立ち上がり、手を振ってどこかへ行ってしまった。
その日から、瑠璃花さんはぼくのことを見つけるたびに「かわいい子」といって声を掛けてくれるようになった。
ぼくたちが恋人同士になったのは、それから二年以上も後のことだ。
その間ぼくは何人かの女の子に告白をしてもらったが、その誰とも恋人同士になることはなかった。
瑠璃花さんはというと、会うたびに違う男の子と過ごしていた。
そのことに対してぼくは「人気者は大変なんだな」と思ったものだ。
それ以上のことを思うことはなかった。
これは本当のことだ。
「シュウの夢には色がついてる?」
「夢に色?」
すぐに夢を忘れてしまうぼくにとっては、なかなかの難問だ。
ぼくは両手を頬に当てて考えるふりをしてみた。
夢が思い出せないのに、それに色がついていたかどうかなんて思い出せるわけがない。
ぼくがそうしている間に瑠璃花さんはカウンターの向こうのマスターにコーヒーのおかわりをする。
「シュウはおかわりいいの?
奢るわよ」
瑠璃花さんはいたずらっ子のような笑みでぼくを覗き込む。
ぼくは黙って首を横にふる。
そのとき、何故だか、たった一度瑠璃花さんの夢を観たことを思い出した。
節分をやり過ごししばらく経った頃に、全く連絡を取らない三連休があった。
どうも、そういう、恋仲ともなると、連絡を取らないその三日間の休日が長く感じるから不思議だ。
付き合って間もなく迎えた冬休みでも瑠璃花さんに会えないことはもちろん、声が聴けないこと、そんなこと気にもしなかったのに。
ああ、これが「寂しい」という感情なのだなと、ぼくは身に染みて理解できた。
彼女はどう思っているのだろう。
ぼくからの連絡をずっと待っていたのだろうか。
彼女もぼくと同じように寂しいと感じたりするのだろうか。
となると、これがすれ違いというやつなのだろうか。
などと考えていた三連休の真ん中に、昼寝で彼女の夢をみた。
船の上にいた。
あれは、高校二年に行った修学旅行の光景のようだ。
この頃ぼくと瑠璃花さんは恋人同士ではなかったし、あの修学旅行ではぼくたちは会話をしなかったはずだ。
しかし、ぼくたちは大テーブルで友達に囲まれ、向かい合って食事をしながら話をしていた。
内容はほとんど覚えていない。
ただ、何だか痴話喧嘩のような、言い合いをしていたような気がする。
ぼくはその会話の最後だけ覚えている。
トイレにでも行こうとしたのだろうか、ぼくは席を立った。
瑠璃花さんはぼくに声を掛ける。
「ちゃんとお祈りしなよ」
「お祈りなんかしないよ。
ぼくは神を信じない」
「何いってんの」
目が覚めた。
寂しから、少しの間でも彼女のことを忘れるために眠ったのに、そうすると夢に現れる。
瑠璃花さんは罪だ。
そう思った。
そして、ぼくは彼女が心から好きなのだ。
そう思った。
あのとき、あの夢は、モノクロだった。