「本当に凄い夢って、観たことある?」
ぼくは白いストローから唇を離した。
グラスの底にわずかに残ったポンカンジュースは、溶けた氷ですっかりと薄まってしまっていた。
二人とも黙ったまま、静かに時間が流れていたところで沈黙が破られた。
五分ほどだろうか。
正確な時間はわからない。
店内に音楽は流れておらず、他に客もいない。
聞こえていたのは、一体何だったのだろうか。
緩くウエーブのかかった髪が肩まで伸びている。
最後に会ったときよりも、少し髪を伸ばしたようだ。
前髪が眉の上で切り揃えられているのは相変わらずで、シャープだけど柔らかい印象の眉が見え隠れしている。
両手で頬杖をつき、その口元には笑みを浮かべ、今は上目づかいでぼくのことを見つめている。
さっきまでは空になったコーヒーカップの底をじっと覗いていたはずだったのに。
そうだ、ぼくはモーニングコーヒーを奢ってもらうために彼女とこの喫茶店に入ったのだ。
にもかかわらず結果的にぼくがコーヒーを飲まなかったのは、メニューの中に「ポンカンジュース」その物珍しい文字を見つけてしまったからだ。
ぼくは柑橘類には目がなく、特にポンカンが大好物なのである。
「ねえ、シュウ」
瑠璃花さんは白い頬から左手を離し、整った顔を右に預けた。
「なに?」
「なに?じゃないわよ。
聞いてたでしょう」
「ああ」
「うん」
「凄い夢?」
「そう」
「凄い夢って、何?」
「凄い夢は…、凄い夢よ」
「それだけじゃあわからないよ」
「じゃあ、何が知りたいのよ」
しまった、と思った。
こういうときは訳がわからなくても、訳がわからないなりに何かを答えてあげなければならないのだ。
何を答えるかは、また別に考えなければならないのだけれど。
とりあえず後には引けないので、疑問をぶつけてみることにする。
「夢っていうのは、その、想い描く方なのか、寝てるときに観る方なのか」
「文脈からして後者に決まってるでしょ」
そうだよね。
「凄い夢かあ」
「観たことある?」
一応は考えてはみたものの、何も思い浮かばない。
そもそもぼくは観た夢を目覚めてすぐに忘れてしまうたちだ。
残念ながら、今は瑠璃花さんの質問に答えてあげることはできそうにない。
「瑠璃花さんは、あるの?」と、とりあえず訊いてみることにした。
「あるわよ」
なんだ、観たことがあるのか。
それならば、その夢を教えてくれればいいではないか。
「へえ。
どんな?」
「さあ」
「さあ?」
「覚えてないのよねえ」
「ふーん」
ぼくと同じか。
そういう反応をしたつもりだ。
「反応、薄いのね」
「そう?」
「そうだよ」
「こんなもんだよ」
「うーん。
そっかあー」瑠璃花さんは大きく仰け反ると伸びをするようにして背もたれに全体重を預けた。
「そういえばシュウって、そうだったわね」瑠璃花さんが天井を見上げたままいう。
「『そうだった』って何?」
「可愛いい顔してるくせにクールっていうか」
「顔、戻しなよ」
瑠璃花さんは元の姿勢に戻ると悪戯っぽく笑う。
「そんなにわたしのこと見つめていたい?」
「そうじゃあないよ」
「なーんだ。
じゃあ何よ」
「そんなに、胸を強調しなくてもいい」
瑠璃花さんは驚いたように真っ直ぐぼくを見つめる。
瑠璃花さんの視線がぼくの顔の上を何往復もするのを感じて、ぼくは自ら視線を窓の外へと逃がす。
瑠璃花さんは中学生の頃から妙に大人っぽかった。
顔立ちもそうだが、身長はぼくと同じくらいのはずなのにほっそりとしていてスタイルが良く、廊下を闊歩していた。
「いうようになったわね。
少しは成長したってわけか」
ぼくの横顔に飽きたのか、瑠璃花さんも窓の外に視線を移した。
黄色のビートルが走り去って行って、ぼくたちはそれを黙って見送った。
「夢の話だけど」ぼくは窓の外を見つめたまま呟いた。
「そうだったね」瑠璃花さんは溜息をきっかけに、再びぼくの横顔に興味を示したようだ。
「その凄い夢がどうしたって?」
瑠璃花さんはカップに残ったコーヒーを喉に流し込んだ。
すっかり冷えているであろうそれは、もはやただの苦くて黒い液体にだろうに。
「どんな夢だったのか、覚えていないの」
「それはさっきも聞いた」
「最後まで聞いて」瑠璃花さんの声は真剣だった。
「ごめん」
「すぐ謝るのシュウくんの悪いクセ」
ごめん、といおうとするのを我慢して、ぼくは頷く。
「ほんと、変わってないね」
そういって瑠璃花さんは話を始めた。