枕返 【壱】 | ぼくはきっと魔法を使う

ぼくはきっと魔法を使う

半分創作、半分事実。
幼い頃の想い出を基に、簡単な物語を書きます。
ちょっと不思議な、
ありそうで、なさそうな、そんな。


誰にだって嫌いなものや苦手なものはある。


ぼくの話をすると、例えば、食べものであればシイタケとかシシャモとかアボガドとか…
好んで食べないものはそれなりにある。

ぼくは今、父さんと二人暮らしだから、食事作りは交代制だ。
ぼくはその日食べたいものを作るし、それは父さんも同じだ。
そして出されたものは絶対に食べる。
例え父さんが、父さんの大好物のイタケとかシシャモとかアボガドを出してきたとしても、だ。
これは家族のルールでも何でもなく、ぼくが勝手に決めた自分だけのルールだ。
だから、父さんはぼくの嫌いな食べものを知らない。
逆に、ぼくも父さんの嫌いな食べものを知らない。
父さんもまた、食事のときには嫌いだとか美味しくないだのと一度も口にしたことがなかった。
本当に好き嫌いがないからなのか、単に舌バカなのか、定かではない。

「嫌いなら嫌いといえばいいじゃないか」そう思う人も少なくないはずだ。
その意見は正しい。
全くその通りである。
だけど、せっかく心をこめて作ってくれたものを、嫌いだからといって跳ね除けることができなかった。
ぼくは、ぼくが産まれたときに母さんを亡くしているから、家族は父さんだけだった。
わがままをいって嫌われることが怖かったのだ。

ぼくはそんな風に、気を遣いすぎというか、ちょっと気の弱いところがあるようだ。

もう一つ言い訳をするとすれば、好き嫌いしなければ元気でいられると教えられたからだ。
元気でいられるということは病気や怪我をしないでいられるということで、病気や怪我をしないでいられるということは、病院に行かなくてもいい、ということだ。

そう、ぼくは病院嫌いである。
理由は分からない。
ただ物心ついたころには病院嫌いになっていた。
きっと記憶が曖昧な時分にお医者に痛い注射でもされたのだろう。
ときに理由なんてそんな「しょうもない」ものなのだ。

六歳の頃に発熱して以来約十年、ぼくは発熱しなかった。
病院嫌いと好き嫌いしないことこそ、健康優良児の秘訣である。
そう思っていたが、この春にぼくがひいた風邪の原因は、そのどちらもない。
この世にはまだまだ信じられないようなことがたくさんあるのだ。

そして、車嫌いである。
これも車を正面から見ると人の顔に見えるから、という「どうしようもない」理由だ。
車に限らず、例えばパンジーという花もその模様のせいあって人の顔に見える。
そんな風に、生きもの以外のものに顔がある、ということが幼いころから恐ろしくてたまらなかった。

蝉嫌いでもある。
これはぼくの持論だが、蝉の鳴き声は夏の暑さの増幅作用を有する。
夏が暑いのは、地球温暖化だけが原因ではない。
蝉の鳴き声もきっと関係している。

蝉嫌いに拍車がかかったのは、「蝉は音が聞こえない」という噂を聞いたからだ。
その噂が真実であるならば、どんな理由があってあんな大声で鳴く必要があるのだ。
懸命に鳴いたとしても、それは彼ら同士の会話にも求愛行動にもならないのだ。


誰にだって嫌いなものや苦手なものはある。


ぼくは、病院嫌いで、車嫌いで、蝉嫌い。
そして、マフラー嫌いだ。

夏休みが終わり、神無月がくれば、この地域は次第に過ごしやすい季節になり、気づけば寒い寒い冬となる。
そして街は今年もマフラーで心身を温める人たちであふれるのだ。

ぼくはマフラーが巻けない。
やはりこれにも理由がある。
「しょうもない」とか「どうしようもない」とか思うのは勝手である。

でもこれは、ぼくの「嫌い」リストの中で、最も切ない「嫌い」の理由だ。

夏の日差しがアンティークな窓から差し込み、グラスの水滴を照らした。
光を受けた水滴は、順にグラス表面を撫でコースターへと消えていく。


「本当に凄い夢って、観たことある?」


彼女のその一言で現実に引き戻された。



梟2013