ぼくの故郷、梟塚(ふくろうづか)では、かつてはその名の通り、梟が神様として祭られていたという。
もう何百年も昔、この地域には梟の住む広大な森林があったそうだ。
その多くは明治時代に始まった開発により開拓され、今ではゴルフ場や精密機器工場などが立ち並ぶ。
そしていつしか、梟の姿を見ることもなくなったそうだ。
今でこそ梟は「不苦労」や「福郎」などと呼ばれ、福の象徴として慕われているが、地域によってはその昔、梟には死んだ子供の霊魂が宿るとされ、その『ホーホー』という鳴き声は死んだ子供の泣き声だと伝えられた。
ヨーロッパにおける梟は知恵の使者とされていた。
「ミネルヴァの梟は夜に飛ぶ」という言葉がある。ミネルヴァは戦いの神であり、梟はその僕である。
人間は日中様々な出来事を経験し、夜になって初めて知恵を得ることから、学問が現実に遅れてしまうことの戒めの言葉とされる。
ここ梟塚においての梟の位置付けは後者、つまり学問の象徴である。
その名残で梟塚中学・高校・大学はいずれも学問において歴史ある私立の名門校である。
この地域に住む多くの人たちにとって梟塚に入学できることが誇りであり、一つのバロメーターでもある。
そういう少し古臭い考えや風習も梟塚の一部には根強く残っている。
そのほとんどを失ってしまった梟の森だが、残った森には梟の棲みつく塚がいまだに存在すると言われている。
そこには梟塚の森の主である大梟が住んでいるという噂だ。
満月の夜には空を飛ぶ梟の影のみが、新月の夜にはその梟の姿のみが現れるという都市伝説もある。
文献には塚に関する記述が残されているものの、その塚を見た者も大梟の影や姿を見た者もいない。
全てはあくまでも噂なのである。
ぼくは六歳から十八歳で大学に進学するまでのおよそ十二年間を梟塚で過ごした。
六歳までは片側三車線の舗装道路が通る首都圏内のとある街で暮らしていた。
梟塚で暮らすことになったのは、祖父が亡くなったためだ。
祖母はぼくが生まれたころに亡くなっていて、それから祖父は梟塚の片隅に佇む大きな屋敷に一人で暮らしていた。
長男であるぼくの父が、住人のいなくなった実家を引き受けたのだ。
三階建ての木造の古い屋敷で、かつて養蚕のために使われていた二階と三階は長い間使われていない。
今ではいつ床が抜けるかわからない状態だ。
広い玄関には鹿の頭の剥製が飾られ、幼いぼくはそれがとても恐ろしいものに見えた。
なるべくそれと目が合わないよう玄関でこそこそとしていたぼくは、父によくからかわれた。
本音を言うと、夜になると今でもその鹿の剥製が少し怖い。
ぼくは今、この大きな屋敷に父と二人で暮らしている。
母はぼくが生まれたときに亡くなっている。よく「お父さんと二人きりだなんて寂しいねえ」なんて言われたが、以外にもそう感じたことは少ない。
ぼくが物心付くころには父も母親を、つまりぼくにとっての祖母を亡くしており、幼いぼくはなんとなくそういうものなのかなと思っていた。
広大な森林を失った梟塚だが、今でも多くの自然に恵まれている。
幼い頃は森の中を駆けずり回り、虫取りや川遊びをして過ごした。
毎日のように泥だらけになって遊んだ。よそ様の敷地の筍を勝手に掘り出して怒られたことがあった。
採りたての筍は生でも美味しく、それ以上に網で焼いて砂糖醤油で頂くそれはもっと美味だった。
筍だけでなく茄子や葱、採りたての野菜は生でも美味しい。
茄子は灰汁を抜かずに食べられるし、葱はとても甘いのだ。
当時は何とも思わなかったが、今となっては梟塚の自然の中で過ごせたことにとても感謝している。
都会では決して味わえない、最高の体験だった。
ぼくの体験は楽しいものだけではない。
梟塚に来てからというもの不思議な出来事に遭遇するようになった。
梟塚に来てまだ間もない時分のことだ。
夜、布団に潜り瞼を閉じると、瞼の奥に何か黒く蠢く気配を感じた。
途端に目を開けたが、そこにはただ暗闇があるだけで何もないし誰もいない。
しかし再び瞼を閉じると確かにそこには何かがいる。
夏の蒸し暑い夜だというのに、ぼくは頭から布団をかぶり、その気味の悪さから逃れようとした。
それはたった一夜だけの出来事で、その後奇妙な気配を感じることはなかった。
気のせいだったのか。
ただ、「この世のものではない何か」が存在していてもおかしくはない、梟塚はそういう場所だ。
さて、本題に入ろう。
高校一年の夏の出来事だ。
蝉がよく鳴く、暑い夏だった。
ぼくは一人の男と出会い、不思議な体験をした。