日本橋川・亀島川カルタづくりEボート&WS
12月2日、日本橋川・亀島川カルタづくりEボート&ワークショップ。
天候不順等で延期が重なり、この日が第1回目の日本橋川Eボート踏査です。
参加者は定員の16名が、1名欠席となり、15名とスタッフ4名の合計19名で実施しました。
天候は、午後から曇り。発着場所は中央区の常盤橋防災船着き場。
ライフジャケットをしっかり着用後、趣旨説明、安全上の注意、漕ぎ方の講習。
それからEボートの乗り込んで、まずは下流の日本橋へ。そこから引き返して、上流の宝田橋までを往復する約2時間のコースです。
日本橋は、昨年が架橋100年。観光桟橋も作られ、船の行き来が多くなっています。
橋をくぐると、裏側には戦争時に焼夷弾で焼かれた跡がありました。
一石橋は、橋の北側に金座頭の後藤さん、南に呉服頭の後藤さんの屋敷があり、江戸っ子たちが、後藤をもじって「五斗」が2つで1石になるから、一石橋と呼ぶようになったとか。
下の写真は、一石橋の親柱と、江戸時代から残る、「満よひ子の志るべ」と書かれた迷子知らせ石。紙を貼って、迷子情報を知らせ合ったそうです。
常磐橋は、明治5年に作られた都内最古の石橋。江戸城の石垣を使って作られたものですが、今は老朽化のために通れません。何年か前までは、歩いて通れたのですがね。
ここは、江戸時代には常盤橋御門があったところで、石垣が当時の面影を今に伝えています。
石垣の積み石には、よく見ると石を寄贈した藩のしるしが・・・。
当時の石工が、どの大名から届いたものかが分かるように付けたそうです。
JRの橋は、下流側から新幹線、京浜東北線・山手線、中央線など、その都度作り足して3つの橋になっています。
一番古いものには、大正七年と印された車輪のレリーフが掲げられておりました。
これって、川からでないと見られないものですね。
関東大震災にも耐えた、丈夫な鉄橋です。
次は鎌倉橋。「どうして鎌倉橋なんだ?」とは、参加者からの声。
調べたてみら、江戸築城に際して鎌倉から運ばれた木材を陸揚げした「鎌倉河岸」から名付けられたそうです。
神田橋も、かつては神田橋御門があったところ。橋の下の岸には石垣に使われたと思しき石が散乱していました。これも、川からでないと見付からないことでしょう。
錦橋は、震災復興橋のひとつ。
かつて、一色(いっしき)さんという旗本がこのあたりに2家あり、二色が錦になったとか。
これまた、江戸っ子のお洒落なネーミングなのでした。
一ツ橋にも、御門の後の石垣が残されていました。一ツ橋御門があった名残が見られます。
一橋家は、徳川御三卿のひとつ。前から一ツ橋があったところに徳川家が屋敷を構えて、一橋徳川家を名乗ったんですね。ご存じのように最後の将軍は、一橋慶喜でした。
また、一ツ橋の橋桁には、「復興局建造」の鋳物の版が埋め込まれておりました。関東大震災直後に復興されたようです。(上の写真は左端に小さくて、下の写真は暗くて見えないかも)
毎日新聞社の辺りは、江戸時代のままの石積み護岸が残されておりました。「打ち込みはぎ様式」という、古い石垣の様式だそうです。根固めの護岸補強がされており、わざと残してあることが伺えます。
雉子橋は、雉子橋御門があったところ。警備が厳しく、川柳に「雉子橋でけんもほろろに叱られる」と詠まれたとか。
途中で、遊覧船に遭遇。あっという間に抜き去られ・・・。
折り返し地点の宝田橋。
区役所の裏手には、防災船着き場がありました。
でも、鍵がかかっており、許可を得なければ、使わせてもらえないのでした。
河川管理者は、水面は自由使用と言いながら、船着き場は使えない。(不自由仕様)
これが首都東京の河川の実態なのだから、水の都もお粗末さまです。
ようやく折り返し。1号艇と2号艇がご挨拶。
帰りは、ちょっとお疲れ気味の方も!?
いろいろと、カルタの文句を考えながら・・・。
上陸後は、みんなでカルタづくりのワークショップ。
いろいろな視点、いろいろな発見、いろいろな感想、いろいろな言葉使い、言葉選びが楽しい。
次回は亀島川でEボート踏査とワークショップをして、カルタ文句を選出・整理し、絵を付けてもらえば、立派なカルタが完成する、
と良いなあ。
みなさん、どうもありがとう。そして、次回もよろしく。2月に予定します。