ダビデは、民を打っている御使いを見たとき、主に言った。「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」
その日、ガドはダビデのところに来て、彼に言った。「エブス人アラウナの打ち場に上って行って、主のために祭壇を築きなさい。」
そこでダビデは、ガドのことばのとおりに、主が命じられたとおりに、上って行った。
アラウナが見おろすと、王とその家来たちが自分のほうに進んで来るのが見えた。それで、アラウナは出て来て、地にひれ伏して、王に礼をした。
アラウナは言った。「なぜ、王さまは、このしもべのところにおいでになるのですか。」そこでダビデは言った。「あなたの打ち場を買って、主のために祭壇を建てるためです。神罰が民に及ばないようになるためです。」
アラウナはダビデに言った。「王さま。お気に召す物を取って、おささげください。ご覧ください。ここに全焼のいけにえのための牛がいます。たきぎにできる打穀機や牛の用具もあります。
王さま。このアラウナはすべてを王に差し上げます。」アラウナはさらに王に言った。「あなたの神、主が、あなたのささげ物を受け入れてくださいますように。」
しかし王はアラウナに言った。「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」そしてダビデは、打ち場と牛とを銀五十シェケルで買った。
こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげた。主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。
ここを見ていこうと思います
ダビデは、民を打っている御使いを見たとき、主に言った。「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」
どうしてこうなったのでしょうか。2サムエル記24:10 ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」
導く立場、つまり人々を導く立場の人が大きな罪を犯すと、民に神の怒りが向かいます、自分の事のみで終始するのではなく周りのクリスチャンたちにも影響を受ける事柄なのです、ゆえにこうなります
2サムエル記 24:17
ダビデは、民を打っている御使いを見たとき、主に言った。「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」
しかし感謝な事に預言者ガドが来て勧め、忠告をします。
24:18
その日、ガドはダビデのところに来て、彼に言った。「エブス人アラウナの打ち場に上って行って、主のために祭壇を築きなさい。」
預言者の働きは決して滅亡に追いやる勧めではなく神様と神の民の関係の修復、滅びないための勧め、忠告 そういうことなどがあります。
ただ神の民が滅ぼされるままにしないで、預言者という神の御心を伝える人が神様から遣わされる事、ご用意されている事 神様の愛です。
たとえばペンテコステ・カリスマ派などでは人を霊で後ろに倒す現象が盛んですが、サタンの使いも「獣の印をつけろ」といいながら同じ現象をしています
http://ameblo.jp/rebanonn/entry-10294395173.html
こういうところから離れてください!↑(警告)
けれど、聖書を読むにつけ、預言者・神からの警告をないがしろにしたり、聞く耳を持たなかったり 逆に牢屋に入れたりしていますので、余り期待はしていません、が、書く事は書きますよ。
24:19
そこでダビデは、ガドのことばのとおりに、主が命じられたとおりに、上って行った。
名指しで指名される主のための祭壇を築く場所 かくありたいと思いませんか?ご自分の所属されている教会のことです
その教会が神様に選ばれる・認められる そんな教会・会衆・集まり にしていきたいものですが皆さんいかがでしょうか。
アラウナが見おろすと、王とその家来たちが自分のほうに進んで来るのが見えた。それで、アラウナは出て来て、地にひれ伏して、王に礼をした。
ダビデはキリストの型でもあるので 当然このような服従・敬意が必要です 前回のナバルの箇所とは逆の態度ですね
1サムエル25: 10 ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。
11 私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」
神のために祭壇が築かれる その目的は!?
アラウナは言った。「なぜ、王さまは、このしもべのところにおいでになるのですか。」そこでダビデは言った。「あなたの打ち場を買って、主のために祭壇を建てるためです。神罰が民に及ばないようになるためです。」
「あなたの打ち場を買って、主のために祭壇を建てるためです。神罰が民に及ばないようになるためです。」
ためです、クリスチャンはハッピーなら楽しければそれでいい そんな感じでしょうか?
「あなたの打ち場を買って、主のために祭壇を建てるためです。神罰が民に及ばないようになるためです。」
今必要な教会の働きはこれでは無いでしょうか?別の箇所ですと過越しの祭りににて居ます つまり、エジプトの長子が滅ぶ時、イスラエルの長子に被害が及ばないようにする 行動と似ています。
アラウナはダビデに言った。「王さま。お気に召す物を取って、おささげください。ご覧ください。ここに全焼のいけにえのための牛がいます。たきぎにできる打穀機や牛の用具もあります。
王さま。このアラウナはすべてを王に差し上げます。」アラウナはさらに王に言った。「あなたの神、主が、あなたのささげ物を受け入れてくださいますように。」
注意事項としてただ、無料の牛ではだめです。
しかし王はアラウナに言った。「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」そしてダビデは、打ち場と牛とを銀五十シェケルで買った。
買うつまり、購い が必要です
神様のものとなったクリスチャン(牛のたとえ)では無いと無理です そんな方いませんか
他のものをバアル(主人)としたり偶像(アイドル)に聞き従ったり、仕えたりしていませんか
先ほどの祭壇を「建て」 と、ここの「買い」 以下の箇所にもある「たとえ」です
また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、
こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげた。主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。
こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげた。
全焼の つまり、聖霊(火)に燃え和解のいけにえをささげるクリスチャンのことです。(たとえでは)色々な目的の奉仕、いけにえございますが、神の民(クリスチャン)の行った事により神からの怒りを感じ、実際そうなっている時 和解のいけにえ お祈り・とりなし が必要だとわかります もっというと「いつも」。
ヨブの場合
こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。
ですのでこのように、自分のみではなく神の民のことにいつも心を配ってお祈りをしていきましょう。
主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。
今必要なのは神への和解の捧げもの お祈りだと私は感じています なぜなら強盗の巣のようになっているからです。
http://ameblo.jp/rebanonn/entry-10618505143.html
何の目的で つまり、神様の目的があって神のものとなったのか、何の祈り・いけにえを教会でするのか もう一度考えてみてください、繰り返しますが今はこれが重要だと個人的に強く思っています
24:25
こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげた。主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。
こことも似ています 皆さんお祈りをよろしくお願いします、神罰が何処まで及ぶかは皆さんのお祈り・いけにえにかかっていると思っていますよ。
自分たちの天幕でつぶやき、主の御声を聞かなかった。
それゆえ、主は彼らにこう誓われた。彼らを荒野で打ち倒し、
その子孫を国々の中に投げ散らし、彼らをもろもろの地にまき散らそうと。
彼らはまた、バアル・ペオルにつき従い、死者へのいけにえを食べた。
こうして、その行ないによって御怒りを引き起こし、彼らの間に神罰が下った。
そのとき、ピネハスが立ち、なかだちのわざをしたので、その神罰はやんだ。
このことは、代々永遠に、彼の義と認められた。