はかることのたとえ | 777のクリスチャンへの警告と聖書 蛇のように聡く、鳩のように無垢であれ

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通算 NO.11 はかることのたとえ

テキスト:マルコ4:24、25

”きいていることによく注意しなさい。あなた方は人に量ってあげるその量りで自分にも量りあたえられ、さらにその上に増加えられます。(ニューキングジェームスバージョン訳では”自分の使用するその同じはかりで自分にはかり与えられます。聞くものにはさらにまし加えられます。”)持っている人はさらに与えられ、持たない人は持っているものまでもとりあげられてしまいます。”

このたとえを理解していきます。このたとえは何をいわんとしているのでしょうか。一見しただけではわかりません。しかしそれがたとえたるゆえんです。聖書ははっきりと”外の人には全てがたとえでいわれる、しかし弟子たちには全てを説きあかされた”といわれました。ですから、主の弟子にはこのたとえを開いてくださいます。

さて、このたとえでは”はかる”ことに関して書かれています。しかし、何をはかるかに関しては言っていません。それで、ばくぜんとしてとらえずらい話になっています。しかし、多くの他のたとえがそうであるように、弟子が真に求めていく時、近くに鍵がおかれていることがわかります。

何を量るかの鍵とは他でもないすぐ前の節に書かれている舛ー穀物の計量器です。そしてさらに見ていく時わかることはこの舛もさらに前に書かれている種まきのたとえと関連していることがわかります。すなわちこのマルコ4章の流れは、種をまき、穀物が30倍、60倍と実るーあかりのたとえで出てくる舛(穀物の計量器)ーはかることのたとえ というように話が続いていることがわかります。

それで、このたとえで何をきき、何をはかると言っているのかすっきりわかります。”きいていることによく注意しなさい”とは穀物の種ーすなわち神のみことばを聞くことをさし、”量り与えられる”とは穀物ーすなわちみことばが量り与えられることをさすのです。

それで、このたとえが具体的に言わんとすることはこのような意味になります。神のことばー穀物は同じであってもそれを量るため用いる舛はそれを使用する人によって異なるということです。ある人は穀物を自分に量り取るために、1合舛を使用し、他の人は5合舛、更に別の人は1升舛を使用します。自分が持って行った、即ち自分が使用したその舛で量り与えられるのです。大きな舛を持参した人は多く与えられるでしょうが、小さな舛を持参した人には少ししか量り与えられません。

さらに具体的に言うとこれは神のみことばに対する評価について語っているのです。同じ穀物ー神のみことばに対してある人は小さなはかりー評価しか下しません。聖書は教養の書、修身の書、そのようにはかる人にはそれだけのものでしかありません。聖書を読みながら自殺した作家が日本にも何人かいますが、彼等の聖書に対するはかりは小さかったのです。クリスチャンであってもある人は聖書は救いの書である
が、それ以外は全く受け入れられない、いやしも異言も受け入れられないと言う人がいます。その人の舛も決して大きくはありません。また一方、聖書の全ての真理を受け入れよう、聖霊のたまものも預言を含めて全て受け入れるという人もいます。そのひとの量りー舛は大きいのです。そして、みことばの不思議なことは、その量りー舛に従って恵みが与えられるということです。今まで、預言に関してのことばが受け入れられなかった、すなわち、その分、舛が小さかった人でも、その舛を大きくして、そのみことばを受け入れるようにすると、実際にその恵み、預言のたまものが現われてきたりするのです。これが、”自分の使用するその同じはかりで自分にはかり与えられます。ーNKJV訳”との意味です。

また、神のみことばの不思議なことは、それを心に受け入れていく人にはますます、恵みがあふれ、増加していくということです。ある人はキリストの処女降誕も再臨も聖霊のたまものも全て受け入れ、それらを熱心に求めて受けいていきます。するとある日、その人はふと気がつきます。自分が特別祈り求めたわけではない聖霊の実ー愛、喜び、平和という御霊の実という他の恵みも与えられていることを。しかし、また逆の人もいます。私はキリストの処女降誕も再臨も信じられない、また創世記の話も進化論と比べるとおかしいと思う、しかしキリストの救いだけは信じているぞと思っています。しかし、ある日キリストの血が現在の人間の罪を許すなんて全く非科学的だと思って肝心の救いさえあやうくなったりします。これが、”持っている人はさらに与えられ、持たない人は持っているものまでもとりあげられてしまいます。”ということばの意味です。ルカ伝の平行記事では”持っていると思うものまでとりあげられてしまいます。”となっています。

それでこのたとえの結論、警告は”きいていることによく注意しなさい。”です。すなわち、みことばを聞く態度でしょうか。何故なら、語られている神のことばに違いがあるわでではないのです。それは誰に対しても同じ聖書のことばなのです。しかし、問題はその人がどう聞くかです。クリスチャンの歩みの違いはその人のみことばへのききかたで大きく異なってくる、そのことを警告して語っているのです。

さらに主にあってたとえを理解していきましょう。

ー以上ー 目次へ戻る moku.html   

~エレミヤの部屋から転載~