それから一遍上人が申されていたのは、往生念仏について主義に異論があるのは、それぞれが私見を言っているからで、それぞれの人の主義で往生を遂げるのはありえない。法蔵菩薩の因中の誓願(やがて阿弥陀仏となる法蔵菩薩が誓願したことを根本原因として)と十念(十回念仏すること)の力なのだ。
もし、ある人の主義が仏智にかなっていて、この人の主義が仏智に背いているとするなら、ある人を信じる人は皆往生して、この人を信じる人は往生しないだろう。
だけれども、色々見聞して思った。往生できるかどうかはあれこれの流儀とは関係ない。本願の名号(を念仏するの)を、二心なく自分の決定往生の修行と思い知って、念仏するかどうかである。自力や他力、三心(至誠心・深心・回向発願心)が足りているとか、いないとかは、学説のそれぞれだから、何を正義として、何を邪義とするなど区別すべきではない。
今生、受けがたい人の身を受けて、逢いがたい仏教に逢って、生死を離れようと思っている人は、念仏を申せば、仏の本願の不思議の力によって、罪悪生死の凡夫(罪悪と生死の運命の二つから逃れられない凡人)でも決定往生するぞと知って念仏申すのであって、三心具足の念仏者(至誠心・深心・回向発願心の三心を備えている念仏者)と命名されるような、法門の主義をよく心得た上で往生しようと思うのは、かなり自分自身の計らいで往生しようとしているようなもので、多くは本願に背いている考えでもあろう。浄土へ参って、阿弥陀仏に逢い奉って疑いのない法門を受け賜わったら良いのではなかろうか。
この世の人は、法師たる私も誰も凡夫の妄言なのであって、必ずしも習ったり聞き知ったことでも、今生を隔てれば忘れるべきなのだから、大事ではない。ただ誠の仏語は「南無阿弥陀仏」、この念仏三昧が罪悪生死の凡夫の上に、実相所詮の仏智(諸法実相つまりあらゆる法則をありのままに見通す究極の仏智)である名号を保たせて、あっという間に善悪を忘れさせ、様々な考え方から離れさせる、奥深く不思議の法門なのだから、迷い心を嘆いて善法に励むのを自力だと嫌うし、迷い心をそのままに善法を捨てるのも露悪主義とたしなめる。
だから、身分の良い悪い関係なく、心が澄んでいるか澄んでいないかも論ぜず、ただ南無阿弥陀仏と唱えて、取捨選択の判断をしなければ、かの証人(ブッダのことか、阿弥陀仏か一遍か不明)の修行と同様に往生を遂げられるだろう。だから、どういう心がふさわしくて、どういう心がふさわしくないか、という思う心こそ、不思議の本願に背いているのだから、露ひとしずくでも心根の良し悪しを非難するようなことでは、(自分が)他力に到達した、と思うべきではない。