鬱僧のブログ

鬱僧のブログ

ブログの説明を入力します。

Amebaでブログを始めよう!

それから一遍上人が申されていたのは、往生念仏について主義に異論があるのは、それぞれが私見を言っているからで、それぞれの人の主義で往生を遂げるのはありえない。法蔵菩薩の因中の誓願(やがて阿弥陀仏となる法蔵菩薩が誓願したことを根本原因として)と十念(十回念仏すること)の力なのだ。

 もし、ある人の主義が仏智にかなっていて、この人の主義が仏智に背いているとするなら、ある人を信じる人は皆往生して、この人を信じる人は往生しないだろう。

 だけれども、色々見聞して思った。往生できるかどうかはあれこれの流儀とは関係ない。本願の名号(を念仏するの)を、二心なく自分の決定往生の修行と思い知って、念仏するかどうかである。自力や他力、三心(至誠心・深心・回向発願心)が足りているとか、いないとかは、学説のそれぞれだから、何を正義として、何を邪義とするなど区別すべきではない。

 今生、受けがたい人の身を受けて、逢いがたい仏教に逢って、生死を離れようと思っている人は、念仏を申せば、仏の本願の不思議の力によって、罪悪生死の凡夫(罪悪と生死の運命の二つから逃れられない凡人)でも決定往生するぞと知って念仏申すのであって、三心具足の念仏者(至誠心・深心・回向発願心の三心を備えている念仏者)と命名されるような、法門の主義をよく心得た上で往生しようと思うのは、かなり自分自身の計らいで往生しようとしているようなもので、多くは本願に背いている考えでもあろう。浄土へ参って、阿弥陀仏に逢い奉って疑いのない法門を受け賜わったら良いのではなかろうか。

 この世の人は、法師たる私も誰も凡夫の妄言なのであって、必ずしも習ったり聞き知ったことでも、今生を隔てれば忘れるべきなのだから、大事ではない。ただ誠の仏語は「南無阿弥陀仏」、この念仏三昧が罪悪生死の凡夫の上に、実相所詮の仏智(諸法実相つまりあらゆる法則をありのままに見通す究極の仏智)である名号を保たせて、あっという間に善悪を忘れさせ、様々な考え方から離れさせる、奥深く不思議の法門なのだから、迷い心を嘆いて善法に励むのを自力だと嫌うし、迷い心をそのままに善法を捨てるのも露悪主義とたしなめる。

 だから、身分の良い悪い関係なく、心が澄んでいるか澄んでいないかも論ぜず、ただ南無阿弥陀仏と唱えて、取捨選択の判断をしなければ、かの証人(ブッダのことか、阿弥陀仏か一遍か不明)の修行と同様に往生を遂げられるだろう。だから、どういう心がふさわしくて、どういう心がふさわしくないか、という思う心こそ、不思議の本願に背いているのだから、露ひとしずくでも心根の良し悪しを非難するようなことでは、(自分が)他力に到達した、と思うべきではない。

 「宗教とは?」、「信仰とはなにか?」をひと言で言うと「世界了解の作法」だと思う。超人的・超自然的現象(つまり自分一人だけでは抗いようがない圧倒的な力)を、特定の考え方、感じ方で受け入れ、理解し、ふるまう態度を持つ特定のひとかたまりの集団だと思う。(集団であることが必要だ。たとえ二人でも三人でも、同じことを信じる複数の人間が信仰には必要だ。単独では、それはひとつの考えであり、思想であり、宗教とは呼べない。)
 「鰯の頭も信心」という語があり、信仰を皮肉するネガティブな価値観で使われることが多い。しかし、ぼくはこの皮肉が宗教の半面しか描いていないため、宗教の本質をとらまえた言い方にもかかわらず、かえって見誤せる用語になっている気がしている。「鰯の頭」という世間的にはごみ同然の物さえ信仰の対象になりうる、という宗教の無価値性を謳ったものに見えるからだ。
 ぼくは、違うと思う。というより、それは反面でしかない。「鰯の頭をごみ同然だと思う」その心のありようこそが、ひとつの信仰なのだ。宗教的態度をとるうえで、「神」は中空であり、その中空に向かう人間集団の態度と熱量の総和、ベクトルの強弱こそが宗教が持つ人間の力なのだ。シャーマニズムと世界宗教とでそこに差はない。
 しかし、一方で人は論理という別の了解作法を持っている。信仰心も論理的思考もともに先験的、人間が生れ落ちた時から潜在的に持っている認知判断能力だと信じるのだが、このふたつの併存はわりと厄介だ。
 信仰心が世界に対する抗いようがない無前提で圧倒的な確信で自己に迫り自我を満たすのに対し、論理には批判が伴う。疑い、検証してしまう。ものごとを順番通りに並べて、その順番が正しいかを考えてしまう。
 信仰心が無批判の確信なのに、論理は疑う。だから名だたるエバンジェリストたちは開祖者(オリジネーター)の圧倒的崇高さを言語化することに心を砕いてきた。無数の反論や誹謗中傷、あざけりに抗するだけの理論的枠組みを構築してきた。一人ひとりのそれまでの考え方や価値観をひっくり返すのは並大抵の努力ではないだろう。
 中空の神的概念への確信とその確信を支える理論的枠組みの強固さ、つまりシャーマニズムと世界宗教とをわけるのは、その論理的な了解方法の学知的集積の差にすぎない。

(以上が、ヘーゲルの「歴史哲学講義」と「宗教哲学講義」とかのぼくなりのざくっとした受け売りです。「ヘーゲルはこう言った」と書いてないから反論は受け付けません。サピエンス全史だったらどんなこと書いてるか、今度どなたか教えてほしいんですが、マクスベーバーの「古代ユダヤ教」を読んでる最中で、それ読み終わってから「サピエンス全史」読みます。)
 
 これがぼくなりの宗教に対する理解だ。そして、本セミナーのテーマである「浄土教と昭和戦時期の超国家主義」について考える。

 考えたいが、浄土教に関する知識がぼくにはない。ないなりに考える。

 浄土教の核心は阿弥陀仏の本願成就を"事実"として確信することだ。ひとつの考え方ではない。
 第十八願の「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。 もし生ぜずは、正覚を取らじ。 ただ五逆と誹謗正法とをば除く。(現代語:「たとえ私が、仏陀となりえたとしても、もし生きとし生ける全てのものが、ほんとうに疑いなく私の国に生まれる事が出来るとおもうて、たとえわずか十遍でも私の名を称えながら生きているものを、もし私の世界に生まれさせる事が出来ない様なら、私は本当に目覚めたものと呼ばれる資格がないのだ。」)」
<http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%85%AB%E9%A1%98%E6%96%87>;
 、という言葉が阿弥陀仏が阿弥陀仏になる前の法蔵菩薩としてこの世に存在し、実際に語られたという事実を、無前提無批判無謬の事実として全身全霊で信じ確信し生きるということだ。この事実は過去実際に起こった単なる事実であるから疑いようがない。
 この第十八願をはじめとする四十八願が書かれた仏説無量寿経などの経典に文字として書かれていることを事実として受け入れる。書かれたことを事実として受け入れ、その内容について考える。

 浄土教は絶対他力と広範言われる。
 絶対他力とは、何か? そこには、人為の、わが為の働きが一切効果のない境地である。
 そもそも、本願成就はわが意の成就ではない。(そこを履き違えてはならない)
 仏になるべくしてなった菩薩の願いなのだ。それは、過去、現実に起こった事実なのだ。
 私が望み実践できるのは、わずかにその菩薩の本願成就の願いを願いなおすことにすぎない。
 そこに、一人の個人として想い考え実践できることは皆無に等しい。

「南無阿弥陀仏」

 一生涯に一度、この6文字を十回口に出して本願を祈願し唱えるだけで、誰でも浄土に往生できるのだ。これほどの易行はない。
 
 日本での鎌倉仏教のムーブメントにしても、インドなどでの大乗仏教のムーブメントにしても、なぜそういう思想的革新運動が起こったのかぼくにはよくわからないのだけど、仮に身分制社会が度し難いほど社会に横溢したとしたら、と想像する。ぼくらは今、無資産労働者階級(階級!)の労働者として、日々の糧を毎日の労働と月々の賃金で賄っている(とても旧左翼的な言説だけど、今適当な言葉を思いつかないので、適当に流してください)。しかし、身分制社会に生きる貧民の生活を夢想すると、わりと大変だったのではないだろうか?、と思う。
 貴族は貴族として、農民は農民として、固定化した身分制自体は、まだガバナンスとしては分かる。しかし、統治機構としては有効でも経済学としては、まるで機能不全だったのではないでろうか?
 想像に過ぎないが、農民階級が貴族階級の資産を購入することは不可能だったかもしれないし、逆も同じで、農民階級が持っている物を対価を支払って貴族階級が手に入れることは難しかったかもしれない。
 インドで現存するような、身分=個人=役割、が固定化しているような、労働にまるで流動性がない社会は端的だが、身分を違える他人どうしの取引コストが膨大すぎて、国家発行の通貨がなしうる今の現代人が想定する通常の物交換や情報のやりとりが途方もなく困難だった、と仮定する。その取引コストの膨大さから、権力の有無で、権力者は収奪の方が安上がりだから、力の弱い者の資産を容易に奪っていたのかもしれない。
 以上はただの想像だ。だが、大乗仏教の思想的ひろがりへの考え方の一つだと思う。


 ようやく本論である昭和戦時期の話をする。超国家主義のことだ。
 「全体主義とはなにか?」をかいつまんで述べると、すべての人間の人間的機能が国家的集団に剥奪されて役割=機能としてだけ集団に寄与する社会体制だと思う。そこに個人の意思ややりがいや思いやりのない社会だ。
 それの良し悪しはぼくにはわからない。経済的効率性の多寡も。
 過去の貧しい経済体制しか作れなかった身分制社会を現在の視点から批判することも同様だ。(そもそも、古代インドや中世日本がどんな社会だったのか、ぼくにはわからない)

 浄土教の絶対他力の思想は明白で疑いようがなく、誰にでもわかり、浄土を信じる限りそこに不幸はない。
 翻って、靖国信仰も同様だ。
 戦死すれば神となり、靖国神社に合祀される。疑いようがない。
 

 浄土教は易行であり、易行であればあるほど、信仰を批判的に自らに捉えなおすことが難業になる。
 浄土を疑うことが、経文を唱えその文言を自分なりに理解し得心する作業自体が、アーキテクチャとして無理なのだ。
 「天皇陛下万歳!!」

 価値論的、意味的に本願成就祈願と天皇礼賛は等価である。

 浄土教の易行性、仏教の本質を理屈抜きで納得するための大乗仏教の教えを端的に広めた浄土教の意義は偉大だ。くりかえすが阿弥陀仏の本願成就を事実的に理解する意味で。
 しかし、先に述べた「鰯の頭」論を振り返る。仮に(事実だ)本願成就が仮想だとして、靖国合祀はどうだったのだろうか?事実的にわが子が神にされられる神事が行われることを眼前とし、そして自分が死んだあと浄土に往生することを思った親は。

 易行であることは偉大だが、封建主義的農民階級や古代インド人と、ぼくら現代日本大衆は違う。

 その時々の生活や家族や時流に飲み込まれつつ、自分の信心を確立する手段は、絶対他力の易行を前提としつつ、信仰の本義を見失わないためには、絶対他力の念仏の本義を、誰かが諭し、自分なりに得心するほかない。
 それは、国家神道的画一的価値観を迫られた時の各人の対抗手段ではないが、浄土教の本義をないがしろにしようとする圧力に対するきっかけにはなるだろう。経文と学知を各人が内面化するほかない。
 易行こそ、難業なのだ。
 

 5月19日は、京都龍岸寺に"冥土喫茶ぴゅあらんど"という仏教学セミナーに参加した。
http://ryuganji.jp/events/pureland010/
 この日は、(ぼくしてはわりと)ハードな日程で、13時にひらかたパークでmagical2(日曜朝のテレビ東京子供向け特撮番組の主人公の3人組歌唱ユニット、マジカルマジカル)のリリースイベントを見て、15時からこのぴゅあらんどに行き、19時からの大阪ロフトプラスワンウエストのex.清竜人25の今野亜美さんのトークイベントを見たあと、京都市に戻り、四条河原町のsurf discoで23時からのtofubeats,taku☆takahashi,TOWA TEIさんのDJを聞きに行った。未明を過ぎてからは意識が朦朧としていて、どうやって自宅に帰り着いたのかの記憶もない。

 それはともかく、冥土喫茶ぴゅあらんどに戻すと、行った動機はただひとつで、毎回アシスタントを努めているらしいメイドのくーたんを見れるらしい、という情報を目にしたからだ。


メイドくーたん かわいい
https://twitter.com/senrenja/status/997873206055718912

 だから、今回のセミナー(参加人数的にも専門性からも大学のゼミのようだった)のテーマ、「真宗・戦時教学から読み解く、解釈の波紋」と言われても、前提となる知識がまったくなく、何度も出てくる"清沢満之"という人名も一度も聞いたことがなく、おかげで何の予見もなくお話を聞くことができた。

 今、検索してみるとWikipediaには「清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日(文久3年6月26日) - 1903年(明治36年)6月6日)は、日本の明治期に活躍した真宗大谷派(本山・東本願寺)の僧侶、哲学者・宗教家。」とある。漱石こころの主人公「K」のモティーフかもしれない、とも書いてある。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B2%A2%E6%BA%80%E4%B9%8B

 初めて聞く思想家の、初めて聞くテーマでまったくチンプンカンプンだったが、講師の名和達宣先生の理路整然とした明晰な解題とメイドくーたんの描くかわいい板書を見聞きする中でテーマの現在性を徐々に得心することができた(納得は理解とは違う。自分なりに理解したいために、今これを書いている)。

 京都学派の勃興を代表する大正昭和の思想的革新運動(いわゆる「近代の超克」論)の中で、江戸時代から連綿する封建主義的価値観・伝統に縛られていた浄土真宗本流を近代的に革新するという教団の思想的革新運動の中での東西本願寺内部の対立と克服の通史的分析を通じて、現代の浄土真宗の「教学」、つまり教団の教えをひろめ諭す側の自分たち真宗僧侶のあり方ふるまい方はどうあるべきなのか?、というのがだいたいのテーマだった。

 率直に言って、どうでもいい。

 メイドくーたんはかわいい。

 ぼくの中でのこの背反するふたつのテーマを克服することはできそうになかった。

 しかし、主催の龍岸寺・池口龍法住職が終盤の質疑で名和先生に問うた、
「昭和戦時期の真宗のイデオローグたちが、戦時期の世相に飲まれ、体制的世論迎合的な天皇や軍部礼賛的言説を行ったことを現代の視点から批判することは意味があると思う。しかし、今の我々の立場から、現在や将来、世論が全体主義的傾向を帯びたとき、我々が世論に抗い、浄土教本義の信仰を守り、伝え続けることができるのか。それに対する有効な打開策はあるのか?」
 、という問題提起に目を見開かさられた。(こまかい用語やニュアンスが違ってたら、すみません。だいたいの大意です) 議論の中心を住職の発言でようやく理解した。
 よろしい。全体主義なら、市井の会社員にすぎないぼくの、生涯の研究テーマだ。仏教に関する前提知識も意気地もなく、セミナー当日にはとても話せなかったぼくの考えを今この場で考え、まとめて、表してみたい。

 

(後編につづく)

https://ameblo.jp/readymadetv1996/entry-12381350642.html