185冊目『ザ・議論』(井上達夫 小林よしのり 毎日新聞出版) | 図書礼賛!

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ザ・議論! 「リベラルVS保守」究極対決/毎日新聞出版

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保守代表の小林よしのりと、リベラル代表の井上達夫の政治対談である。

井上達夫は、最近の『憲法の涙 リベラルのことは嫌いでもリベラリズムのことは嫌いにならないでください』で、一躍脚光を浴び、氏の説くリベラリズムの考え方に多くの人が共感した思われる。私も、その一人だ。

とはいえ、正直、保守やリベラルという政治的立ち位置についても、結局は相対的なものでしかない。19世紀から20世紀という、たかが100年程度の時間に限ってみても、国家の解放を求める左派は、逆に国家による庇護を求めるようになったし、国に忠誠を示す右派は、国家による規制に否定的な態度を示すようになった。右、左というのは、あくまで便宜的なものでしかない。

井上達夫の主張するリベラルというのは、近年の「護憲」や「反安保」といった、既存のタームではくくれないものだ。井上はいう。「リベラリズムが求めるのは、正義基準である」と。実は、井上達夫の著者については、本ブログ180冊目『共生の作法』を取り上げた。かなり硬質な文体で学術的な内容だが、正義基準の復権に貢献した名著だ。

さて、本書では、「天皇制」、「歴史問題」、「憲法九条」の三つを焦点に、お互いの意見をぶつけている。ただ二人の立場がはっきり分かれるのは、「天皇制」をめぐる議論のみで、「歴史問題」においては、思想的な大きな対立はないし、「憲法九条」については、九条を欺瞞とみる点で共闘さえしている。「天皇制」をめぐっては、権威の存在の必要性を説く小林に対して、井上は、個人の人権という観点から、天皇制に疑義を呈している。日本国のアイデンティティを保持するために、ある血統をもつ人たちの人権を封じ、制度として閉じ込めておくことは、正義という観点から承服できないという意見だ。一方で、小林は、天皇の「権威」の存在が、安寧な秩序に役立っていると主張する。小林にいたっては、天皇がもっと政治的決定に関与してほしいとまで言っているのだから、かなりタブーに踏み込んだ意見だ。ただ、小林が天皇に対して、人権を認めていないかというと、そうではない。小林はいう。

 わたしは、天皇や皇族の方々には本当に申し訳ないけれど、「やっていただいている」という感
 覚なんですよ。差別を引き受けていただいているので、もし本人たちが嫌だ」とおっしゃるなら 、そのときは終わりにするしかない。(31‐2頁)


 天皇の意思で、天皇制の終焉を認める小林の立場は、既存の尊王家とは大きく正確が違う。小林よしのりは、一般的にネトウヨの産みの親だとされるが、小林本人はかなりリベラルな人間である。かつて、小林が何か本で言っていたと思うが、イデオロギーの思想よりも、考え方が変わる思考の方を大事にしたいと言っていた。実際に、小林は、保守のホープとして崇められながらも、その党派性を嫌い、「つくる会教科書」のもとからは離れ、西部進とも喧嘩別れした。小林のこういう柔軟な思考は、私自身のものを考えるときのひとつの枠組みを提供してくれた。

 本書では、お互いに同調するときもあるし、まったく異なる見解をぶつけあうこともある。まさしく、タイトルの通り、ザ・議論という感じである。日本だけなのかどうか知らないが、ネット世界を中心に、最近では、論破文化がはやっている。はたして、ああいうものが、どれだけ自らの思考に貢献してくれるのか疑問だ。私は、自分の意見の95パーセントぐらいは間違っていると思ってしゃべっているで、他者との応答は、自分自身が真実に近づくための契機になるものと捉える。自分の意見の可謬性を認識できることは、自己の成長にとって、この上ない機会であり、感謝さえすべきものなのだ。一方、論破文化は、意見Aと意見Bがぶつかりあい、どちらかに軍配を上げるだけで、思考が発展しない。それに勝利者の意見Aには、可謬性をもたないとうことになり、議論の仕方として疑問点が多く残る。

 今回の対談で、井上達夫は、本物の対談をした、と言っていた。この言葉の重みは、本書を読めば、自然とわかるはずだ。