今日ここで
最後になるかもしれないブログで
今の気持ちを記しておこうと筆を(keyを)とりました。
最後になるかもしれないし
ならないかもしれない
ただ
合否が出る前に
自分の感情を整理しておこうと思った。
何故痛みの専門家を目指したのか
学校初日にみんなの前でプレゼンしたスライドをさっきみてみた。
そのスライドにはこう記されていました。
「もし痛みで患者さんのその人らしさが奪われていたら
私はその人の痛みを取り除きその人が望む生活を取り戻すお手伝いがしたい。
そのために
私は絶対にがんせいとうつ看護認定看護師になる」
と。
絶対になると。
あのときのほうが
きっと真剣だったと思う。
最近は
「落ちても認定看護師だけが人生じゃない」とか
「からだを壊してまでやる仕事じゃない」とか自分に言い聞かせて
落ちてもへこたれないように予防線を張っていました。
正直
ここんとこ先生達が
「オピオイド何出したらいい?」
「何ミリがいい?」と聞いてきてくださり
嬉しい反面
泊まり込みたいくらいの勢いで心配になるので
責任の重さにズーーーーんとなっていました。
でもさっき病院を出るとき
とある患者さんの家族に
「ちーさんがいる病院に入院したいって転院してきたんだよ」
とお世辞にももったいないお言葉をいただき(期待に沿えていないぶん辛い)
絶対受からなければいけないってゆう使命感・責任感・重圧感がのしかかったのもあって
思わず涙がこぼれました。
看護の力は
患者さんに希望を与えることができる不思議な力がある。
科学的根拠の乏しい看護の世界ですが
科学的には証明できなくても
対象喪失の看護というものは
医学ではなしえない秘めたものを持っていると私は思っています。
いきあたりばったりではなくもちろん中範囲理論に基づいた行動をとっているつもりなので
まったく根拠のないケアをしているつもりはもうとうありませんが
全然秘めたものなんてない
いわゆる
ケアしケアされる相互関係が
看護を「秘めたもの」にしているような気がします。
こないだ2年目が
「痛みの看護がわからない」「痛みをとるのは薬だから看護はなにをしたらいいかわからない」という
かわいい質問をしてきてくれましたが
彼女が痛みの看護を身体で実感できるようになるには
彼女が患者さんからケアされているいう体験が必要やなと思いました。
患者とのパートナーシップを体験することができるように
彼女を支えて教えていかないといけないなとも思いました。
もし
明日仮に落ちていても
痛みの看護は続けられるし
しばらく笑えないかもしれないけど
底に落ちればいつか上向きになれるだろうし
いつもみたいに「わてまだ底じゃないやろー」と言い聞かして
次のことを考えようと思います。
或いは
もし受かっていたとしても
それはそれで地獄の始まりで
血を吐くような日々が待っていると思うので
どっちも微妙やなという複雑な心境というのが
今日のうちに残しておきたい自分へのメッセージ。
看護師として最後の一日になるかもしれない今日という日は特別な思いがした一日でした。
辞めるわけじゃないのに
辞めるような気持ちによく似ている。
もう後戻りできないからかな。