下山事件 その9
下山事件の時効が成立した1964年(昭和39年)7月に下山事件研究会が発足した。松本清張、南原繁、桑原武夫、団藤重光、木下順二ら10人がメンバーだった。松川事件で一審、二審で死刑判決を受けながら最高裁で無罪を勝ち取った佐藤一も研究会の事務局員として加わった。研究会は建前上は客観公正を唱えてはいたけど、他殺説が主流で1969年(昭和44年)に「資料・下山事件」(みすず書房)を出版して解散した。
研究会に参加していた佐藤一は関係者からの聞き取りや実地調査を続けるうちに次第に自殺説に傾いていった。研究会が解散したあとも独力で究明作業を続けて、1976年(昭和51年)に「下山事件全研究」(時事通信社)を出版した。この本は研究会の結論とは逆に下山の自殺説の集大成と形容していいような本のようだ。今年の6月19日の大分合同新聞の朝刊に佐藤一さんの訃報が載っていた。訃報の記事には「下山事件全研究」については全く触れられていなくて松川事件で逆転無罪を勝ち取ったことだけが記されていた。秦氏は「この本はそれまでに登場した問題点のほぼ全域にわたり、緻密な調査と検討を積み上げた労作で、謀殺がありえぬゆえんを検証し、自殺の結論を導きだした」と書いている。
松本清張が不審を抱いた進駐軍専用列車について、佐藤は当時の運行表を探し出して乗務員に面接した結果、田端駅に寄っていないこと、途中で異常はなく時刻表通りに運行されて目的地の札幌に到着していたこと、下山の遺体を運ぶ可能性がないことを警察が確認していたことが判明した。進駐軍列車は運行の実務は国鉄に任されており、乗務員は全員が国鉄職員だったこと、大野達三は「乗務員は消されたか隔離されたに違いない」と言っていたのに、佐藤一が国鉄に問い合わせると消息がすぐにわかり二人は現職であり、車掌の一人は事件直後に警察に事情を聞かれたあとは誰も事情を聞きにきた者はいないと証言した。
下山の遺体に付着した油についても国鉄関係者に佐藤一は聞き取り調査をおこない、機関車は「油漬け」と形容していいくらい油を食い、鉱物油だけでなく植物油も使用しており、油まみれの轢死体は珍しくないこと、実際にD51型の底部にもぐって拭き取ると油が簡単に採取できたことから他殺説の有力な根拠だった秋谷鑑定も成立しないと結論した。
秦氏は進駐軍列車による遺体の運搬がありえないということ、油に関する秋谷鑑定が誤っていたことを立証した二点が佐藤一の調査の圧巻と思われると記している。そして残る他殺説の根拠は古畑鑑定だけになると指摘している。
古畑種基の鑑定に慶大の中館久平が疑問を投げかけて対立したことは前述の通りだ。文化勲章を受章した日本の法医学の最高権威だった古畑種基が亡くなったのは1975年(昭和50年)だった。彼が亡くなったあとに弘前大学教授夫人殺害事件、財田川事件、松山事件が再審の結果、被疑者として逮捕された人たちに無罪判決が出された。事件の被疑者は冤罪ということになった。いずれも古畑種基が鑑定を担当した事件であり、古畑鑑定に対する世間の信頼は落ちた。昭和20年代に発生したこれらの事件がなかなか冤罪と認められなかった理由として、古畑種基に対する遠慮が挙げられることが多い。彼の死後は制約がなくなったせいか再審がおこなわれて無罪が確定する事件が次々と出てきた。
事件の局外者として法医学的考察をおこなった著作として北海道大学の錫谷徹教授の「死の法医学 下山事件再考」(北大図書刊行会)を秦氏は挙げている。1983年(昭和58年)に出版されたこの本では法医学の最新知識で検証すると、自殺も他殺も可能性としてありうるもので判定できないという結論を出した。しかし遺体の損傷状況から下山の姿勢を推定して立位で機関車の前端に衝突され、即死した直後に路線上に倒れて轢断されたという自殺論を錫谷教授は主張した。
1986年(昭和61年)に産経新聞が米公文書館で発見した下山総裁の遺体の写真にも多くの法医学者が錫谷教授に近い理由で自殺と推定するコメントを寄せた。
朝日新聞の矢田喜美雄記者が佐藤一の本が出版される3年前の1973年(昭和48年)に「謀殺・下山事件」(講談社)を出版している。松本清張の「下山国鉄総裁謀殺論」と並んで謀殺説の代表格の本だ。秦氏は矢田記者の最大の功績とされるロープ小屋の血痕の発見も下山の血液とは断定できず、「雑然と並ぶ謀殺関連の情報がすべて尻すぼみに終っているのが、この本の特色だろう」と記している。ロープ小屋から現場に遺体を運んだと証言した男に取材をしているけど、実名ではなくイニシャルの表記にしているそうだ。この本は1981年(昭和56年)に熊井啓監督、仲代達矢主演で「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」というタイトルで映画化されている。事件当時の雰囲気を出すためにモノクロで撮影されたこの映画を私は見たことがない。
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