如何にして「芸術」は可能か① | ЯαYの日記

ЯαYの日記

信なくば立たず

「自分の好む音楽が単に自分個人の好みなのか、或いは一般的に優れた音楽なのか」

この問いが最初に浮かんだのは恐らく小学校低学年だったと思います。
遅くとも小学校高学年にはかなり意識的に考えておりました。

当初はイデアみたいなものを想定していました。
これはまだあまり思考力も発達していなく、色々な知識を得る前のおチビが最初に頭の中に浮かぶ事ですから、恐らく人間の持つ「本能」に近い感覚だと思います。
その頃は「神」が実在して、イデアもそれに関わるものだと思っておりました。
これはギリシア哲学だとかを知るずっと以前です。

だから宗教というのは、人間が云わば「人為的」に作成したものというより、最初から資質として人間の中にあるものだと思います。
「神」という概念も同様です。
これは人間の弱さが想像に駆り立てたものではなく、例えば幼児の心の中にも(潜在的であっても)既に存在している可能性が高いと思います。

「神」に対して疑い出すのは、寧ろ考える力が発達したり、知識を得るようになってからです。
人間に考える力があるから「神を考案」したものでないのは、こういった事からも言えるのではないでしょうか。

音楽の話に戻ります。
しかし単なる個人的な好みとイデアとの区別は、実は判断してる本人にすら判らない(但しある局面ではそうでもないです、次の日記にそれが書いてあります)。
では多数の人々が「良い」というものがイデアなのかというと、それは単なる「個人的好みの集合」にしか過ぎないとも思える。
それにこれは小学生の頃から感じてた事ですが、多くの人々が好む歌謡曲にイデアのような「究極の美」が在するとも思えなかった。

だから反証可能性というのものの有効性があると考え出した訳です。
当時はまだこの言葉は知りませんでしたが、もしイデアが存在するならば「個人的好みの集合」的なものでは駄目で、もっと客観的つまり科学的に認識出来ないと駄目だと思うようになった訳です。
本人にも単なる自分の好みかイデアなのか判らない訳ですから、「自分」から離れた第三者的もっと言えば客観的指標が必要だという事です。

この科学的客観性について、僕から見てマトモだと思える人は最低限ここまではおさえてると思います。
単なる自分の主観だけで勝手に判断したりはしない、正当か不当かの判断を客観的根拠によって行う。
この根拠の信憑性や論理性があるかどうかの判断力も重要です。
自分の個人的判断、特に個人的感情は取り敢えず置いて物事に対する事が出来る。
ここで数行で書ける位に難しい事ではありませんが、上記がきちんと出来るのはかなりの少数派です。でも10%位は存在すると思いたいですが難しいかな・・・・・・・。
ところがまだこの先があります。

しかし反証可能性自体は何によって保証されているのか?
結局我々の知覚が「一致」してるとの「勝手な」前提に基づいているだけではないだろうか。
その一致自体には反証可能性があるのか。

科学がその「一致」に答えるとしたら。
我々に知覚の一致があるのは、人体の構造特に脳の構造が同じだから。
なぜその脳の構造が同じだと言い切れるのかというと、我々の知覚(や認識)の一致があるから。

とこのように循環理論になります。
というか科学そのものがそういうものを内包してるのですが、だから学問も科学も相対的といえば相対的なものです。
同じ意味で宗教も相対的なものですが、どちらにしても絶対的に執着するような性質のものではありません。

これは音楽には和音や和声が存在し、それが客観的指標であるのも同じ事です。
それが主客問題に対しての完全な解決をもたらさないのかもしれませんが、それでも有用な道具ではあります。
それは科学も学問もそういった意味で有効だという事です。音楽の和音と同じで最終的にはその法則性は人間の主観に過ぎません。

「科学的客観性」というのは厳密に考えていくと絶対的真理ではない。
しかしそう「見做せる」範囲では有効性があり、それを理解していればそれはそれで良い。
それは例えば量子力学の如く物質というのは究極的には位置を固定出来ない不確実なものではあるが、巨視的にはそれを無視してそこにある筆箱は固定でき安定していると見做す事が出来ると言えるのと同じです。

しかし自分の中でどうしても納得いかない事が残ったのです。
これは科学的客観性だとか反証可能性に対しての疑問符なのですが。

そもそも逆に客観性が云々出来るのは実は「科学」でも限られた範囲で、文学部で学ぶような人文科学だけでなく、法学や経済学だとかの社会科学も学説の優劣に客観的指標を殆ど持ち込めないのではないだろうかという事です。
実際「科学的社会主義」を標榜していたマルクス経済学等、何ら客観的な有効性がある訳でもないのにかなり多くの国々に導入され各地で大失敗をしている。
その大失敗はある意味科学的(客観的事実)ではあるのだけど、このように多大な犠牲を払って大失敗をするまでは社会科学の中では優れた学説として理解されていた訳ですから、社会科学が今でもそうですが如何に客観性に乏しいかを自ら証明しているという事です。

更に我々の日常生活など言わずもがなです。
仕事では色々な判断がありますが、例えば会社の経営判断の場合は当たり前の事だけど結果を出す前に優劣を判断して決定しなくてはなりません。
この優劣判断に客観的指標が無い場合も多いですし、あってもそれが正しい保証もありません。実験等出来ないですから。
ではどうやってそれを判断するのか。
ただの「あてずっぽう」では無論ありません。寧ろ数ある経営判断から正しかろうというものを厳選しても殆ど失敗する位のものです。

iPodもiPadも凄く売れて普及してからそれを分析したりは出来ます。でも売れなかったらそれについて理由の説明も出来るのです。
実は「科学」というのは結果が既に出てしまっていて、そういう後追い的にどうとでも言えるようなものを扱ってるから「客観性」がどうとか呑気な事を言ってられるのではないか、という面も大いにあると思いました。

上記の事は以下の疑問と同じ事です。

科学は「知覚の一致」が前提と出来る位なのに、なぜ例えば「音楽」だとかの芸術となるとその一致がなく主観的好悪と客観的イデアの見分けがつかないのか。

つまりは要するに「客観性」だとか「反証可能性」というものは、それが成り立つ根拠のあやふやさというより、そもそも我々の人生に直結する重要分野に於いて、実効性や有効性部分で全然駄目だという結論に至りました。
それが適用出来るのは極めて限られた範囲で、多くの局面で実効性・有効性を欠くと

もうここらで完全に行き詰ってしまったのを覚えております。
我々に関わる多くのシステム、政治や裁判や法律等、がそれを運用する人々の「主観」によって用いられているように、そこに何らかの正当性・妥当性が無ければたまったものではない、と考えられるのと似たような心境です。

これらの事を踏まえた上で、では主客についてどのように考えるのかが次の日記となります。
多分持論をいきなり展開しても頭のオカシイ人位にしか思われない可能性があるので、あくまで常識的な見方を通ってる事を示しておく必要がありました。
それだけでは解決がつかないので、もっと考える必要があった。
そしてなぜそう考えるのかを、それ以前に上手く行かなかった根拠を示さないと理解に支障をきたす可能性が大きいという事があるからです。