執着は甘えである(。・ω・。) | ЯαYの日記

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信なくば立たず

日記の為にAKBについて色々調べていたら板野さんの整形疑惑というものがありました。
整形で叩かれるとしたら、これは多分儒教思想が根強いのだと思います。
恩義ある親から頂いた顔を「気に入らない」とか、更にそれを変えよう等とは不届きなヤツだということでしょう。
「親を敬うべし」というのは儒教の重要な教えの一つですから。

「両親に感謝」とか日本ではやたらコレを耳にする局面が多いです。
実際これを読まれてる方々の中にも「そう思わなくてはいけない」と心のどこかにこの存在を感じ取れる方がおられると思います。
自然な気持ちで感謝するというより、もっと強制力がある道徳観です。これを他人に強制する局面(或るいは感謝しない人間に対する攻撃)も数多く僕は目にして来ました。

なぜこのように道徳で「親に感謝すべし」と強制しなくてはならないのかと言いますと、そうしないと感謝しない人間が沢山輩出されるからです。
そうしますと社会的に不利益が生じます。
昔は現在のように福祉国家等存在しませんから、年老いたら年金ではなく自分の子供に頼るしかありません。
だから子供が親を放り出しては年老いた親は生きていけません。
それに親の立場からしてみれば、子供というのは大変なコストがかかるものなのに、何の見返りもないのでは困るというのもあるでしょう。
本来感謝というか、道徳や倫理感は自分の中から自然に出て来るべきもので、寧ろそういうのを他人から強制されるのは嫌なものです。
それを教義という形で強制してくるものは上記のような事情があるからです。こういったものは儒教だけではなくて、多かれ少なかれ各文化にあります。
なので人が本源的に持つべき道徳・倫理観とかではないので、あまりそういったものに縛られる必要はないとは思います。

中には本当に幼児虐待をしたり、そこまでいかなくとも子供に対して酷い扱いをする親は結構存在する訳です。
そういう親の子は、虐待を受けていたとしても道徳的強制力故に「感謝してます」とか気の毒な事を言ってる場合もありますが、多くは親の事が嫌いだったり批判したりします。
その場合、特に女の子なのですが「整形したい」という子が多いのですね。
本人も気付いてなくて、表層では「自分の顔が気に入らない」ということなのですが、実際には親に対する憎しみみたいなものの転移だと思います。
整形というものが親を巡ってのものなのだと色々観察していると分ります。
儒教的倫理観が根強い国ならではの現象でしょう。

ところで自分の子供に酷い仕打ちをする親なのですが、色々とそういう話を知るようになったのはネットを通じてなんです。
ブログやmixi等にその種のことを書かれる方もいらっしゃるのですね。
芸能人でもないですしそんなに読者もいない筈なのですが、その種の日記のコメント等で必ずと言って良いほど「親の事を悪く言うな」的な批判をしてくる人っている訳です。
自分の主義主張はともかく、それを置いておいて中立的立場で読んだ場合、どう考えても親が批判されるべき局面なのですが。
幾ら自分の親が良くてその人個人にとっての「経験則」では親というものは素晴しいとしても、他のソレが同じだという保証は全くないのですが。そういう人は自分が親になると、当然感謝されるべき等と困った考えを持つのでしょうか。
あまりにも他人を理解していない。理解出来ないのではなく、理解する気がないということです。
それはかなり自明な他人の痛みや苦しみすら受け入れないということなのですが、これは2012年4月14日の性格の良さだとかの日記に繋がってくる話です。

一方で僕が確か中学生位の時にとある老女と話して印象に残っていることがあります。
その方は長女でかつ兄弟の中で一番年齢が上でして、兄弟が多くかなり幼い段階から弟や妹の世話を親に強制されるような立場だったようです。
彼女の幼少期はまだまだ古い時代で、親も含めて女性の扱いが大分男性に比べて劣るもので、その方がまだ自分も子供なのに弟や妹の世話をするのは当り前だと見做される時代だったようです。
だから彼女が男性だったら親がそのような召使のような扱いはまず絶対に受けなかったと思います。

残念ながら今でもそういう考えの人はまだまだ居るようです。こういった傾向に僕は断固反対です。
しかしフェミニストではありません。最初からある立場に基いて思考するのは有効性を欠くと思ってるからです。
例えば「原子力発電所反対」という立場だったとしましょう。
しかしその立場ですと「原発を完全廃止するのが今の日本にとって本当に良いことなのか? 原発を採用するメリットも沢山あるのではないか?」という見方は出来ません。
ただしこれは僕自身がある一貫した思考様式を採用してることとは矛盾しません。
なぜなら僕が採用している思考は、自分の立場でものを理解したり主張するのではなく、対象自体を理解し分析する思考だからです。

僕はこういう考えでも、フェミニストの立場の人から反論を受けたことが何度かあります。
例えば人間について論じる時に、人間という「対象」を分析する場合には男性と女性というカテゴリに分けると有効な場合がどうしても生じてきます。
その区別によってそれが女性差別的だと批判されてしまう訳です。男性と女性とを分けて考える思考が差別を生んでしまうと。彼女らに言わせると「(物理的なもの以外に)男女の特性の差はない」ということらしいです。
彼女達に悪意はないのでしょうが(寧ろ本人は善意だと信じてます)、自分達のものの見方・解釈を他人に押し付けてしまってるんです。これに「暴力」が伴うとファシズムということになります。
ある立場で物事を主張するというのはそういったお門違いの攻撃を生むのです。ファシズムの歴史を勉強すれば良く解ります。何の罪も無い人々を大量に虐殺するというのは、要するにお門違いなんですよ。
男性型社会やその価値観を批判しながら、その男性的価値観の最も悪い部分をマネしているという皮肉です。

ある立場に自分を固定しそれを主張し出しますと、そうでない人に対してむやみに攻撃的になるというのは「必然的に」生じると言っておきましょう。これはもう歴史が証明していて否定しようがありません。
ただし、フェミニズムそのものを否定してる訳ではありません。実際の女性差別には有効だからです。
ただ、ある法律だとかについて個別に対応するだけならいいのですが、これに倫理道徳、特に正義を主張し出しますと有害になってきます。人間という生物は「正義」を標榜すると非常に暴力的になる事が知られています。
こういった問題はほぼ全ての主義主張に当てはまることなのですが歴史的問題なんです。多分この種の話は大学なら一般教養のどこかで必ず出てくる話題ではないでしょうか。

因みにフェミニズムが倫理道徳正義を標榜するというのは「女性差別は悪である」みたいな抽象的なことの主張です。
こういう事をやり出しますと、無理矢理でも女性差別を探して相手を裁くことに奔走するようになります。
だから女性差別なんか全然してなくても、女性と男性の違いを論じただけで攻撃してきます。
正義に基いた主義主張というのは、必ずこういった態度を生みます。
それは自らの理想に基いた「主義」ではなく、まるで他人を攻撃するのが目的のように。

話を戻します。
で、その女性はやはり母親との確執が凄いあって、それは喧嘩を繰り返すというのとも違ってやはり自分に対する扱いのことだと思います。
母親は「その位当り前」だと考えていて、長女が凄く助けてくれたのに感謝の気持ちなんて一切なく、長女の苦しみに対しても一切理解がなかったようなのですね。
僕は中学生でしたし、流石に彼女も苦しみの内容については言ってませんでしたが、まだ小学校に入るか入らないかの内から無給の召使のような生活は嫌な事も沢山あったと思います。
ところが彼女がどういった思考をするのかと言いますと「親に感謝すべきだ、どんなに嫌な事があっても親に忠実であるべき」みたいな事を言う訳です。
彼女もまた儒教思想が深く心に浸透しているようでしたが、それ故に「自分がこんなに嫌な想いをしてきたのだから、他人もすべきだ、それを批判してそこから逃げようなんてズルイ」という考えなんですね。
まあ、なるべく親に感謝して生きるべきなのでしょうが、それに固執する余りに寧ろ他人に攻撃的になる訳です。
それなら儒教思想を捨てて、素直に親を批判して、他の関係無い人に対して攻撃的になるのを止めた方がずっと人の生き方としては良いと思ったのを覚えています。
つまりその女性も自分が親に不当な扱いを受けていながら、結局自分も(親の虐待等に対して)他人の痛み等理解しない人間になってしまったという事になります。

強制する気はありませんが、もういい加減人類はこういうのを止めるべきだと僕は思ってます。
ここでのキィは「自分の考え、経験、価値観に対する執着」ではないでしょうか。
それらが人の正しい認識や知覚や思考を阻害します。
つまらない執着等捨て去るべきではないでしょうかね。
例えば他人の話を聞いたり理解する場合は、一旦はそれは置いておいて話そのものに集中する。
別に難しい学問的な話ではありませんし、上記のような相手の人生経験とかそれを理解するのは決して難しい事ではないのですよね。
これに関しては才能でも知性でも素養の問題でもなく誰でも必ず出来るのです。
その証拠に寧ろ凝り固まった価値観やそれまでの人生経験を経てない子供の方が、余程大人よりちゃんと理解出来る場合が沢山あるんです。
本当は大人の方が劣ってる面が多いのです。
多くの大人は自分は子供以上だと思ってるのですが、寧ろ駄目になってくのが大人になる事という面があります。
しかし元々は大人だって子供だった訳ですから、決して忘れてる訳ではないと思うんです。
単純に「要らないモノは捨て、必要なモノは残す」というだけだと思うのですが。
ソレが難しいというのなら、難しいのではなくて「勇気」がないだけではないのかと思います。

本日の結論

執着は甘えである∪・ω・∪