性格が良いとか悪いというのはどういうことか? | ЯαYの日記

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信なくば立たず

で、いつぞやのAKB48の話に戻ります(。∀゚)

その間に何と前田女史が辞めてしまったという大ニュウスがありましたね。
まあ、相当キツかったのだと思います。
ドラマをやってみても演技が下手だと必要以上に叩かれますし、選挙になればアンチが叩くわけですし。
以前前田女史が2位になった時、会場が凄い盛り上がり、野太い声で罵声(野次というより煽りかな)を浴びせる訳です。
それらの男性は皆前田女史よりも大分年上の人も多いでしょうが、当時まだ18歳の子には酷なことです(多分今の20歳でも大差ないでしょうが)。

このキツさは1位の前田女史が一番受けてるような感じですが、体調不良でダウンする子が続出しているようにAKB全体の問題ということになります。
要するに「AKBシステム」が所属する子達に試練を強いてるのですが、そこまでやってようやく一般の人々の注目に値するということなのかもしれません。韓国のアイドルとか今は競争が日本国内だけではないですから。
だから秋元氏が言う、なぜAKBが流行るかの問いへの回答
「(AKBの子達は)皆一生懸命で、見てる人皆も頑張ろうと思えるから」
というのは、「良く言うよ(^ω^;)(;^ω^)」って感じなんですね。

さて、前田女史がAKB脱退の発表をした時、これまた結構大きなニュースとして報道されてしまった子います。
板野友美(ともちん)さんです。「あたしもいつか卒業して夢を叶えたい」みたいなことを日記に書いたそうです。
別に何てことはない普通の内容ですし、他のメンバも書いてる筈なのですがどうしてもこういう時に板野女史は引き摺り出される。
当然
「お前と前田は全然違うんだよ、身の程知らずが」
「いつかと言わずサッサと辞めてくれwww」
というような誹りを受けることになります。
更に板野女史は前田女史から脱退に関する相談を受けてたようですが、それも報道されていてそういうのも「相談する相手間違ってね?」という流れになります。

僕自身はAKBについて今回の日記書くまでは殆ど知らなかったのですが、AKBの中での板野女史の位置付けというものを理解せざるを得ない位明確なものがあるのに気付きました。

例えば先日松井珠理奈女史がやはりダウンしましたが、それに続いてともちんがダウンとの報道がこれまた大々的に報道。他のメンバも倒れてるのになぜがともちんの報道が大きい。
当然
「松井は頑張り過ぎでしょ、大丈夫かな?」
というのに対して、ともちんに対しては
「お前はどーでもイイ」だとか「またサボりですね、わかります」
という流れになっちゃう。

つまり結果として叩かれるというよりは、そういう役割を担わされてるという感じでしょうか。
「スケープゴート」という言葉をご存知でしょうか?(ご存知ない方は調べてみて下さい)
多分板野女史はそういう役割で、他のAKBの子達の盾になってるような感じです。
1人大きな「悪役」が存在することで、他の子達の粗が見えにくくなるというのは多分言えると思います。
事実ネット上での個人攻撃ということで言えば、他の子に対するものは大分少ないと思います。

この板野女史に対する扱いは明確に誰かが指示してるとまでは思わないですが、スタッフ・マスコミ或いはファンに至るまでの暗黙の了解というか、何となく集団的に決定してる感じだと思います。
学校や職場における「いじめ」と同じです。首謀者がいる場合もあるでしょうが、多くは何となくいじめられ役が無意識に決定されていく。
こういった板野女史の現実は、心理学や社会学的興味の対象ということになるでしょうか。

なぜ彼女が叩かれるのかといいますと、一般に板野女史は「性格が悪い」と言われてるようです。
これは実際どうなのか? 
については次の日記に多少書いてるのですが、その前に「性格が悪いというのは何か?」という厳密な定義が必要となります。
この部分は元々一つの日記に収めるつもりのものが、その部分だけ肥大してしまったのでもう一つ日記を作って今回の日記にしたものです。
つまりまた1つの日記が肥大し過ぎて2つになってしまった訳ですね(´・ω・`)

性格の良し悪しというのは、色んな言い方があるでしょうが、僕自身は色々考え抜いて以下のような整理の仕方が最も有効だと思っています。
まず人間の精神を「中に向かったもの」と「外に向かったもの」に分けます。

「中に向かったもの」というのは、「自分が感じた事」に対する内面的反応となります。
喜んだり、泣いたり、笑ったり、苛々したり、怒ったりというのは正に自分の感じた事に対する反応です。

一方「外に向かったもの」は何かと言いますと、端的に言えば「他人が感じたこと」に対する感知となります。
「ああ、今あの人怒ってるな」とか「この人は嬉しいのはこういうことだ」のように、相手の感情の察しだけでなくその先の洞察も含まれるでしょう。

人間の精神というのは結局の所「自分が感じた事」と「他人が感じた事」しかありません。
なのでまずこの2つに分けるのが有効だと考えております。
これだけで俄然見通しが良くなる筈ですが、これは読者諸氏が各自ご判断お願いいたします。
「論理について」という題の日記でも書きましたが、(今回僕が提示した枠組みがどうか分りませんが)有効な枠組みを用意するのが「論理的」であることの最重要ポイントです。
頭の良さというのは論理性ではなく、枠の設定の有効性で決定されるべきものでしょう。

「(精神の)中に向かったもの」について、どういう見方をするかといいますと。
自分の感情面に対する対応ですが。
例えばちょっとしたことですぐに怒る、すぐに気を害されるのが多い人ほど俗に言う「心が狭い」というようなことがあります。
怒りっぽい人は別に自分の悪口を言われた訳では無いのに、例えば自分の好きな芸能人のことを批判をされただけでも不機嫌になります。それが誹謗中傷の類でなくとも。
他には例えば他人のセイにする場合が多いか少ないかもこの範疇でしょう。自分の責任として受け止めるのか、それを回避して他人の責任にするかどうかも内面的(内省的)な問題だと思われるからです。
或いはこれも例ですが、女子高生の子達が自分の近くで騒いでるとします。それを見て「うるさいなぁ」「ウザいなぁ」と感じるのか「元気だな」「楽しそうだな」と感じる違いは自分の感情の内面的な反応の問題です。
人生には、殺人のように誰が見ても悪いことというのは少なくて、このように解釈が大きく分かれることの方がずっと多いのです。
それらを善意か或いは悪意に受け止めるのかで大きく分かれることになります。
この「中に向かったもの」というのは性格の良さの重要な2つ要素の1つの「心の広さ」に通じる側面でしょうか。

「(精神の)外にに向かったもの」については以下のようになります。
例えば他人がとても悲しんでいるのその感情や理由を理解するようなことについてとなります。
これは「優しさ」に通じるものです。 こちらが性格の良さの2つの要素のうちのもう片方ということです。
「勝手に優しくする」のとは全然違うのですが、「優しさ」を受けた側は自分にとっての都合(役に立ったかとか、表面的に気分が良かったとか)しか見えない場合も多いので本来的な「優しさ」というのは見え難いんです。
人間同士にはそういう齟齬も沢山あります。それはそれで良いのですが「そういうのが沢山あり得る」と認識していれば随分スムーズになるとは思います。

この「精神の外に向かったもの」というのは実際に相手を理解出来ているかどうかは別にしても、そうしようとしてるかの姿勢も含めたものだと思います。
「空気を読む」なんていう言葉も、やはりこの範疇に含まれると思います。自分の中だけでなく外もちゃんと見えてるかどうかという意味合いなので。
或いは他人を見る時に悪い面ばかり見るのか、良い面の方を見るのかというのもあります。
悪い面ばかり見る人というのは、別に自分に実害のある部分じゃないような些細なことまで見つけて悪く言います。
テレビで芸能人が出てるのを見て、それらの方々の粗ばかり探してブツブツ言ってるような人も現実に存在するのですよね。
しかしそんなふうだと逆に他人の価値を評価できないので、多くのチャンスを逃すことになるのですが。
どんな人でも人生に何回かは良い人間と付き合ったり接したりする機会があるのですが、そういう人は他人を評価出来ないから価値が分らず、折角の機会を失うということになります。

因みにこの「外に向かったもの」には「常識をちゃんと守る」というのもあります。
それは他人が感じることとは直接関係の無い「決まり事」なのですが、そうは言っても挨拶やお礼を怠られると通常不快に感じると思います。そこまでちゃんと見えてるかどうかという部分が問われるという訳です。

性格の良い人と悪い人に限らず、友人家族恋人等と接する中で「こういうのは良かった」「こういうのは嫌だった」とか皆様あるかと存じますが、そういった要素の殆どが上記のどちらかに入るのではないでしょうか。
今後は上記の内容を念頭に置いて頂いて他人を分析してみて下さい。結構面白いと思います。

さてしかしながらこの2つの要素というのは矛盾する面があるのです。
例えば細かいことを気にしない心の広い人というのは、感性が大らかな場合が多く他人の細かい所までは気付かないことに直結する場合があります。
一方感受性が強い人というのは、自分が感じやすい故にちょっと怒りっぽかったりする場合があります。
しかしその分感性がありますから、他人のことが良く解るので優しさを持ち得ることに通じる面があるでしょう。

大体どちらかのタイプかに分れます。
なので両方満たしてる人というのは、一部の例外以外はどちらかについて必ず努力しています。
人格的に優れている人というのは、生まれつき良い人とか才能とかではなくて努力の部分がかなり大きいと思います。

残念ながらどちらも満たしてない場合もあります。
自分のされたことに対しては小さなことでも目一杯被害者的なのですが、他人に対する迷惑に関してはエラく鈍感な場合です。
こういった人はどこにでもいるので、これを読んでる方も遭遇したことがあるのではないでしょうか。
なぜこうなるかといいますと、自分の長所を打ち消してしまうからです。
例えば感受性が折角強いのに、上の例で示したように他人の悪い所ばかり探すようなふうな方向性を持ってしまっている場合です。
そういう方向に感性が向かってしまってますと、善意の方向性が打ち消されてしまうので、例えば相手にとって心地よいこと、相手が欲してることが見えなくなってしまうんです。
だから相手に優しくできないですし、そうしようとしても外してしまう。
そして感受性が強い分心が狭くなってしまう面があるので、結局「心が狭いし優しさもない」ということになります。

或いは。
感受性が強い人というのは、心に余裕がなくなってしまう場合があります。
そうなってしまいますと他人の事等考えられなくなります。
他人が視界に入りませんと、自分の振舞いによって他人を著しく傷つけてしまってたり迷惑をかけてしまっていても気付きません。本来なら感受性が強いので他人の痛みを感じる能力があってもです。
この場合はあまりにも器量がない事に起因しています。
ある意味もう少し鈍感になって大らかに物事を受け止めることができませんと、折角の感受性を有効に生かせません。
そういった意味では、もう片方の要素を向上させると本来持ってる要素がより生きてくるということになります。
自分の人格面をハッキリ認識し、それに対する努力をするとしないのとでは、大きな差が生まれると思うのですが如何でしょうか。

さて、ここまで読んで何となく分った方もおられるかもしれませんが、この精神を2分割して考えるというのは性別を分けて考えるということでもあります。

つまり。
他人の痛みを理解するような「外に向かった」ものは、女性が得意な分野なのです。
感受性が強く、一般に男性よりも悲しみや喜びや怒り等強く感じ取る力があります。
なので「優しさ」というのは確かに女性の特徴ではあるわけです。
逆に言えば強く感じてしまうが故に、それをコントロールするが難しいということになります。

逆に自分の感情をコントロールするような「内に向かった」ものは男性が得意です。
「小さい男」という言葉があります。これはヒステリックになったり、大した内容ではないのに動揺して我を失ったりする男性に対する批判的言葉です。
逆に言えば男性は逐一冷静さが期待される存在、つまりやはりそれが得意なんですね。

こういった観点からすれば、女性が少々ヒステリックな場合があるのは仕方ないし、男性が察しが悪く知らぬ間に女性を傷つけていたり不満を蓄積させてしまうのも仕方ないということになります。
というとソレを「許容せよ」と取られるかもしれませんが、そういう意味では無くて先にこれを了解しておいた方が何かとスムーズではなかろうかと。
ただ、お互い駄目な部分は改善する努力はすべきだと思っています。

「天然ボケ」という言葉があって、これは女性に対するものです。
こういった特徴を持つ女性は、女性には珍しくプンプン怒ったりすることが殆どありません。
性格的に大変穏やかな人が多い。
かと言って必ずしも鈍感という訳ではなく、女性らしい優しさも持ってる場合が多いです。
つまり今まで上で書いてきた、精神の内と外両面の良い特徴を併せ持っている傑出した存在な訳です。
実際これを読んでる方も「天然ボケ」の女性を嫌いという方はおられないでしょう。
この種の女性というのは、云わば「突然変異」みたいなモノで人類全体としては非常に少数派です。
これは育ちや努力では少々難しい次元のようで、だから「天然」という言葉を使用してるのかと思われます。
多分この種の女性は仏教用語で言えば「最終解脱」の局面にあるのかと。
人間としては最後の修行の局面にあるのかなぁと思います。

一方男性に関しては「天然ボケ」という言葉はあまり使いません。
やはり男性でも精神の中と外両面の特徴を合わせ持つ人は存在するのですが、その女性版とは全く違って現象するようです。
実はコレについてはあまり考えたことがないのですが、要するに男には興味がないということでしょうか(^ω^;)(;^ω^)
皆様どんな男性が完璧だと思うのか、その像をお教え下され(^ω^)

さて性格についての話はここまでですが、これを前提にしてともちんは本当に性格が悪いのか?です。
それは次回の日記に続きます。