一ヶ月前、一緒にゼミを受けている同い年の友達から誘われて、学内戦のサッカーの試合に出る事になり、そして昨日その試合を終えてきた。
ひょんな事から、たった一日ではあるがサッカーという競技に再び参加する事になったわけだ。書きたい内容がかなり散らばっている状態ではあるが、いつも通り色々と書いていこう。

学内戦ってのが一体なんなのかまず説明しなくてはならない。ざっくり言えば学校内の球技大会だ。しかしこの大会で決勝まで進むと、四大戦という武蔵・成城・成蹊・学習院それぞれの1.2位が参加する試合に出場できる。ちなみに当然であるがサッカー部は参加できない。つまり学生アマチュア同士の、言わば「昔取った杵柄」の見せつけ合いというわけである。何もサッカーサークルやフットサルサークルだけが参加するわけではないし、僕が参加させてもらったチームはオールラウンドサークル(飲みサー)が中心の有志チームだ。

こういったわけだから、チームのレベルもピンキリで差が激しい。例えば僕のように丸々4年間ぐらいサッカーから離れている超不健康な人間もいれば、社会人チームで毎週試合をしたりしている人もいる。さらにそれぞれ高校時代をどんなチームで過ごしたのかもわりと影響が大きく、Jリーグのユースチームや全国レベルの部活で選手をやっていたのになぜか大学では部活に入ってない人もいる。

さてそんな大会であるわけだが、実は僕はこの大会に一年生の時参加した事がある。あの時は毎年優勝するようなサッカーサークルの一年生チームだった。一方、今回の僕のチームは即席チームだったが、個人的にはどこかのフットサルサークルよりもこのチームに混ぜてもらえて良かったと思う。
飲みサーの寄せ集めチームで、知り合いなんて二人ぐらいしかいなかったが、蓋を開けてみるとそれぞれが本気で高校時代をサッカーに捧げた人達ばかりで、今こそ普通に大学生活を送っているものの「あ、この人達ちゃんとサッカーやってたんだな」というのがアップの段階ですぐに分かった。

学内行事や学内のコミュニティに参加する事がほとんど無かった僕にとって、去年の学祭同様にこれはとても良い機会であるように感じられた。何故なら以前にも記事にしたように、何も学外で動く事が至上ではないし、かつ学業は大前提であるがしかしそれだけというのも何か違うような気がするからだ。とにかく何においても僕は横断的に生きてきたからこそ、そしてこれからもそうしていくからこそ、この感性がある。囚われず、しかし孤立するわけではなく、飛び越えていきたいと思っている。

肝心の試合はというと一試合目はフットサルサークルが相手で、こちらは4-4-2の布陣。僕は前半のみFWで出場した。こっちの中盤4人ともう1人のFWが実力者だっただけに僕のプレーの酷さが浮いたのは恥ずかしい限りだった。ただ即席チームであるだけに動き方がバラバラで、上手くコミュニケーションが取れないという障害があり、前半はぎこちない感じが見受けられた。
それでも個々のスキルが高く(僕を除き)、一旦ボールが前線で収まると2タッチぐらいでポンポンポンとゴール前まで迫るチャンスがあった。ゴリゴリタイプのFWと、足元が上手いMF3人だけで攻撃のカタチが作れる感じは「さすが~」とピッチに立ってるくせに感心しきりだった。

そうそう僕はというと、挙げたらキリが無いほどの反省点があったが、中でも一番ショックだったのは「ゲームから消えたまま」に交代してしまったことだ。これが何を意味するかというと、プレーで貢献できないことは試合前から分かっていたが、それ以上にマトモに味方とコミュニケーションが取れず、瞬間的な判断で声を出すこともできなかったということだ。
サッカーをやっていた時の僕を知ってる人間が一体何人このブログを読んでるか知らないが、僕からコミュニケーションを取ったら本当に存在しないような選手だったのだ。コミュニケーションの質によってプレーの質も変わっていたと言っても過言じゃない。ポストになって起点になれた瞬間が一回でもあったのかすら怪しい。もちろんシュートなんて打ててない。
そんな大失敗の理由は単純で、長いブランクによる負い目と、声も出せないほどの心肺機能の低さだと思っている。これほど情けない事実を知れたのは、やはりこの機会に巡り合えて良かったと言うしかないだろう。

結果を言うと、僕が交代した後の後半にチームは連動してきてかなり良くなって、ゲームは動く。(これも悔しかった事の一つだ)味方の選手の素晴らしいフリーキックで先制し、その後に相手のファウル紛いのゴールで同点。
そのままPK戦(なぜか最初からサドンデス)に突入して味方のGKが二本目を止めて2-1で勝利。応援に来ていたサークルの人達とそのGKを胴上げして一緒になって喜んだ。本来は飲みサーのチームがフットサルサークルに勝ったのだから痛快だったのは当然である。

二回戦について書くととんでもなく長くなりそうだし、わりとアッサリ負けてしまった上に僕は一回戦よりも散々だったので書かない。試合について書きたいだけではないからだ。それに僕の下手くそさとか、情けなさとか、そういった事を書き出すと際限なく書けてしまう気がするし。


学内戦という行事を通して見えたこと、それが僕の中で面白いと思えたことだ。
一年生の時にいたDJ部がサークルであったかどうかは、ハッキリ言って微妙だ。僕の感覚としては溜まり場と言う方が正しい気がする。だから何かの活動を定期的にして、人同士の繋がりも強くて、縦の関係も緩いがキチンとある感じを持っているサークルというやつは新鮮だった。わざわざ朝霞まで自分が試合をするわけでもないのに応援に来て、その後に疲れているだろうに飲み会までやっていたようで、なにかこう不思議だった。純粋に楽しみを共有していて、黄色い声援という言葉で代表するような眩しい若さが充満した空気は、感情的な荒々しさを飼い慣らしてしまった僕にとってもはや皮肉とも言える空間だった。

交代した後、応援の一団から少し距離をとって人工芝の上に座り込む。プレー後の熱が身体中を火照らせているのとは裏腹に、醒めた目が会場全体を眺めていた。突き抜けるような青い空が、うだるような熱気が、降り注ぐ強い日差しが、鮮やかな緑色のピッチを駆け回る選手たちを際立たせている。それをタッチラインの向こう側から応援する学生たちもその景色に同化して、まさに一つの熱狂的な現象と言えた。

僕はこれを選ばなかった。
一年生の時にはその中身を知りもせず切り捨てたのはこれだった事を、四年生になった今になって知った。後悔とかそんな安っぽい事を言いたいわけではない。そうかこんなにも違う学生生活があったのか、という事を実感として感じたというわけだ。
もっと言えば肉体的精神的な「若さ」が僕の感じた事のうちでも最も強い印象である。彼らが幼稚だとかそんな悪びれた態度で言ってるのではない。弾けるような瑞々しい鮮やかさがピッチに響き渡り、子どもでも大人でもない若者が、選手だけではなく彼ら/彼女らが躍動する景色は僕にとって非日常であり、つまらない嫌悪感なんてとうに通り越していた。

なにを大人ぶっているのか、と思う人もいるだろう。大人ぶる?それならむしろ何を言ってるのかとこっちが聞きたい気分だ。様々な暑さで眩暈のするような空間で、僕もやはり一人の若者であった。つまり既視感のない新鮮さをこうして記事にしてしまうぐらいには若いのだ。彼ら/彼女らがなぜサークルに熱中するのか分からなかったのだが、今回にして初めてその片鱗に触れて少し分かった気がしている。
確かにお遊びにしか過ぎない大会で、これほどにまで熱狂するのはもしかしたら滑稽なのかもしれない。なんせ彼らはサッカーでメシを食うわけではないし、何かの具体的な成果や生産に繋がるわけでもない。欲望の矛先として女の子の前でちょっとカッコつけたいという事かもしれないし、もしくは無目的性を帯びた娯楽の際たるものかもしれない。

しかしそれを嘲笑う権利が一体誰にあるのだろう。

それがもし滑稽だというのなら、僕はその嘲りを全ての人の行為にぶつけて見せる事ができる。

何故なら僕らが生きている内に行為する事の全ての性質は、彼ら/彼女らがこの空間に発散した無軌道な「生」に他ならないからだ。
これはバタイユの“普遍経済”という概念に接続して考える事ができる。貨幣だけではなく力作用に関わるエネルギー全てが何かの生産にのみその目的を限定せず、それを超えて放蕩に使い続けられる事だ。例えば太陽がこの星に向かって熱光線を送るその全ては人間によって使い尽くされているわけではないし、一方の僕らは今日に対して必要最低限のエネルギーしか注がないのだろうか?もちろん僕らもエネルギーとしての生を放蕩に使い続けているのだ。

若さという余剰、その放埓な勢い、生そのものを、僕はこの学内戦という現象を通して垣間見た。


まだ肌をヒリつかせている日焼けと共に今この生を捉えている。

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