多岐亡羊 音楽支部 -2ページ目

今年は

今年は、今年も。

ライジングサンロックフェスに行くことに相成りました。

最近フェスのない夏は考えられない身になりまして・・・(笑)

そして来年はフジに行くかな?という話になってます。

え??鬼が呵呵大笑??

なんとでも言えぃ(笑)

吉井和哉と春(桜)

私の住んでいるあたりでは、桜は今がまさに盛り。
特に鴨川の川べりでは、水面に向かって流れる枝振りが連なり、ここで攻撃的なことを考えられる人はいないのではないか、という勢い。
桜は散り様と散った後新しい葉が即座に展葉するドラスティックな様子が好きなのであるが、ここまで満開であると思考を停止して「綺麗だ」とかぬかしてしまう。本当に思考停止もいいところだが、それだけ私たちの魂と呼べるものにこの花は浸透しているといえるのではないか。


吉井和哉も、折に触れこの時期を詠みこんだ曲を作る。
時代の流れとともに、それらの曲を振り返ってみたい。


一.悲しきASIAN BOY

この曲は戦時中からタイムスリップしてしまった兵士の魂が現代をさまよう、というコンセプトアルバムの中の一曲である。物語という型枠に頼っているが、吉井和哉自身が「自分は26歳で死ぬ」との思い(込み)から作った、アルバムすべてが自分の死というものを苛烈に意識した作品である。桜はまさに「散り逝くものの美」の象徴として、登場する。「夢よ飛び散れ花となれ」の一言に集約されるように、散っていくその瞬間に最大の美を残すものとして、(吉井和哉自身が意識的にそうしたのかはわからないが)自分の目指すもの、あるべきあり方が「桜」だったのではないかと思う。

二.花吹雪
こちらもまた、物語性の濃い楽曲である。しかしASIAN BOYとの最大の違いは、そのテーマが「愛や性」であるか「死(もしくは生)」であるかということである。折に触れ、このブログで語っていることであるが、私は現代日本のアーティストにとって、卑しくもロックを名に冠するならば、歌うことは愛か死かしかないと思っている。奇しくも「吉井和哉」と「春」という切り方をしたとき、彼はまさに愛と死を歌ってきたということが鮮明になった。
この歌は「終わりの少し向こう」から愛の終わりを眺めた抒情詩である。歌の主人公は一聴してわかるように、その愛にいまだ粘着性の想いを残しているようである。その未だ昇華されない想いであり、今後報われることなど微塵もない思いが、「物狂おしい」としかいえない模様で歌い表されている。ここでは桜は既に傍にいなくなった人の面影を残す存在であると同時に、主人公の「狂い」の部分を暗示するツールなのではないかと考えている。瞬間咲いては、何もそこまで、というはやさで散っていく。少し意味は違うが「狂い咲き」という言葉も連想される。そして散る時は花吹雪。そういった桜に潜む狂気性を見事に映しこんだ傑作だと思う。

三.SO YOUNG
ここからは、桜を見る眼ががらりと変わる。
この曲はパンチドランカーツアーという、それはそれは壮絶なツアーの後期にできた曲である(詳しくは自伝で。ファンなら一度は読むべし)。直接は桜の曲ではないのだが、「春はなんかやさしくて残酷」というこの一言のために取り上げた。
それまで地平線、もしくは一人称と密着していた目線が、俯瞰に移り、また自分を貫く第三者(というよりは空気のような絶対的な存在)の方向に寄っていく。本人にあまり意識はないのだと思う。
「街は穏やか 風の匂いも柔らかだから君を抱いた」と少し常人にはない感覚も語られるところが、過渡期というか大きく変化しているさなかであった吉井を象徴している。

四.BELIEVE
この曲は、去っていった(というか分かれることに決めた)大切な人に向けた歌である。
この曲にもサビで「風の中花吹雪舞うように思い出が満開」と印象的に桜が登場する。構造としては花吹雪に非常に近い曲であるにもかかわらず、その目線は180度といっていいほど違う。そこには粘着性も物狂おしさもない。あるのは透明な目線なのである。執着がないわけではない。想いがないわけではない。突き放しているわけでもない。諦めているわけでもない。ただ、ただ透明な目線で「私はあなたを信じる」といっているのである(私も渋谷と同意見で、あそこは本当はI believe in youなんだと思う)。簡単にいえることではないと思う。それこそあがいて何方向にも手を伸ばし、何度も死線をくぐってきた者のみがいえることだ。
この中で、桜はもはや死も狂いも体現していない。ただ一つ美しいもの、という属性があるだけだ(但し「去りゆくもの」という意味はあるかもしれない)。まったく負の感情を持たない桜の美しさを透明に映し出す吉井和哉に、感動を覚える。曲自体にも何物にも代えがたいドラマ性がある(と私は思う)のだが、吉井和哉の変遷を知るものとしては感慨もひとしお、というところ。
この時期は桜桜綺麗だねみたいな曲があふれるが、そういうやつは結局踊らされているだけで、本質にはかけらも触れていないように思える。


本当に吉井和哉は表現者であるという核は変わらず、しかしドラスティックな変化をしてきたことがわかる。
一つのミュージシャン(バンドであれ、個人であれ)を何年にもわたって追いかけるということは、その人の変化を作品を通じて追体験していく過程なのであると思う。生涯をかけて追いかけるに値するミュージシャンと出会うということは、人生を豊かにすることである。別に音楽の分野に限らず、例えば自分が好きだから歌舞伎の話をするが、歌舞伎のご贔屓を見つけるのもとても似た営みである。あまりそちらに詳しくないのでわからないが、画家や作家、およそアーティストと呼ばれる人々は同じような存在が別の方向に才能を発揮したと見るべきだろう。自分はネットにだらだらと駄文を書く存在であるが、本質は観察者であり、決して表現者ではない。そう断定するのは吉井和哉をはじめ、本当の表現者達に出会えたからに他ならない。

晴れた日の野原に

今日の一曲

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Millions of kiss
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聞いていて気付く。
幼い我が子のことを歌った曲なのだなぁと。
吉井和哉のnaturallyもそうなのだが。

生来の歌うたいは自己の存在というものに関して敏感である。
というか普通の人間ならば当たり前すぎて、問い自体をとっくの昔に風化させている「なぜ自分は在るのか」ということに、いつまでも決着がつけられない人々である。

その問いは振り返って人間という生物、種、存在(別にどれでもいいのだが)を考えるとき非常に重要な問いなのだが、ここではさておく。

そんな歌うたいにとって、他の個体をこの世に存在させる=子供を作るということは、ある種衝撃的であることは想像に難くない。短期間で劇的に変化を見せる幼子は、恐ろしく、また畏ろしくあるとともに興味深くもあるだろう。誰しも子を育てる時感じる存在というものの普遍性について、彼らはまた曲に乗せて歌いだすのだろう。

この曲にはそんな発見の驚きとでもいうべき感情だけでなく、小さな存在を見つめる圧倒的な愛がある。
「愛してる」だの「大切だ」だの「守りたい」だのという直截的な言葉は一つも出てこない。
しかし、聞いていて眼前に暖かな日の野原で遊ぶ姿が迫ってくるこの感覚。
本当に愛した人にしか作れない曲だと思う。



LOOPの再発見

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今日の一曲
飛光
Loop/Acidman

アシッドマンを好きな人で赤橙を知らない人はいないと思う。
自分も赤橙から入った口だ。

しかしその後少し自分の中で下火になっていた時期がある。
Loopを発売当時すぐかって、2,3度聞いてそのまま放っておいてしまってからだと思う。

今思えばその頃の自分にまだこの作品を味わうだけの奥行きがなかったのかもしれない。

大木伸夫という人の人となりについて、私はほとんどを知らない。
他の好きなバンドと違って、あまりJAPANのインタビューに読みふけったりしない。
しかし、魂のとらわれ具合という尺度においては、かなりの上位を占めるバンドだといっていいと思う。

彼が見える世界を私は一生同じ目でみれないのだと思う。
「生命を盾に飛ぶ」
とは自分はいえないと思う。

ただ、それでもいいと感じている。

びっくりひさしぶり

お久しぶりですね。
今日久しぶりに自分のブログページを開けて、椿屋新譜の感想はおろか、新年のあいさつ、吉井武道館&フェスのレポすら書いていない自分に驚愕しました。

吉井武道館はスカパーの映像でも見ながらぼちぼちどっかでぽろっと出そうかと思います。


近況
椿屋の新譜がもっとロックであってほしかった。
吉井のゼップ(とか)ツアーのチケットをなくし、いけなかった(人生初の失態。しかも大阪二日とも)


なんだか思うところはいろいろあるのですが、ブログ活性が下がっているのでアウトプットされておらず、このような状況になっていると思われます。

とりあえず初心に戻って(?)その日聞いた曲について考えたこと(考えるだけなら腐るほどしている)をなるべく頻繁に上げていこうかと。

PUNCH DRUNKARD/THE YELLOW MONKEY
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今日の一曲
「エヴリデイ」
PUNCH DRUNKARD/THE YELLOW MONKEY

なかに「生まれたてのような声を上げ」とある。
まぁ、生まれたての赤ん坊の声がそういうことをしている時の女性の声に似ていたということなんだが。

これは、やってるときにふと「この声って赤ん坊に似てるよな」と一瞬冷めて考えてしまったのか、子供が生まれたときに「あの時の女の声みたいだ」と思ったのか。

吉井のことだし、後者もあり得るかな。とか。