アメブロから長いっ!とクレームがきたので、3は2つに分けます。すみません。長いんです。
3.-1
2015年8月24日(月)午前の部
さて、今日からモンスターロシモフは東北行脚です。昨日クラブソニックに来てくださった室谷さんの紹介で薄磯地区へ初めて足を運びます。
なんと昨夜その話を打ち上げでしたら、ソニック店長の三ヶ田さんが薄磯まで送ってくださるという。どうやら浜は道がどんどん変わっていてわからないかもらしい。ありがたいやら、申し訳ないやら。三ヶ田さん薄磯には震災後訪れてはるみたいです。9時半前に柚原さんと三ヶ田さんがホテルまで来てくれて、モンスターロシモフ&まゆみんで出発。
あたしにとって薄磯地区はフェイスブックの写真でしか知らない場所。
もちろん震災前のことなど知らない。友達がボランティアでたまたま度々訪れていてくれてたから覚えた場所。
かつては普通の町で、普通の暮らしが営まれていた、普通の日本の海辺の町。それが2011年3月11日の震災によって大きく変わってしまった場所。
こないだ町の土地かさ上げのために中学校が取り壊されてしまった場所。
町を壊さないために、町全体をかさ上げするという選択を住民がした場所。
あたしにとって薄磯について知っている知識はこれくらい。それもアタマの中だけ。
町全体の土地のかさ上げということは、どういうことか、それを自分の目で見て、耳で聞いて、肌で触って、心で感じて、自分の頭で考えたいと痛切に思いました。
それが薄磯を訪れたいと思った動機かな。
三ヶ田さんに先導されて、車でついていってたわけですが、薄磯に近づくにつれ、これまた今までかつてあたしが見たこともないような風景にどんどんなっていきます。
まず道路を走ってる車の大半が大型のトラック。それも砂利やら土やらを載せたり、下ろしたりした大きなトラック。
そして何もない土地。まさに海岸線はかさ上げ工事の途中です。いいお天気なので、砂埃が舞い上がっています。
何もない土地はこの震災の痕で何度も見ました。津波でほとんどのものが流されて町が地面に変わってしまった場所。けれども、そこには町の痕跡が残っていました。それは悲しいものではあるけれど、家の土台、看板、流された車、田んぼや畑だっただろう場所。
薄磯もそんな場所だったんだろうと容易に想像がつきました。
今はトラックが行き交う砂埃が立つ山?(これが町の土台になる)を製作中の場所。
町中は木一本残っていません。その地域が広大過ぎる。これ全部がかさ上げされるの?とかさ上げの話を話しだけで知っていたあたしはやはりちょっと衝撃的な広大さでした。
道路の道幅も狭くくねくねと曲がっています。
約束した時間が迫っていますがなかなか到着できません。修徳院と丸又蒲鉾が目印と言われていましたが、お寺らしきものも見当たらず、蒲鉾屋さんの工場も見当たりません。くねくね曲がった道、通行止めの道、砂埃、そして山。
かさ上げのために潰されてしまったため、今は仮の豊間中学の校舎にもなっている、小学校が一緒になった場所に入り込み、三ヶ田さんが「ここじゃないなー」と。
以前三ヶ田さんが来た時の場所とは違うところに移ったようです。「わかるなんて、大口叩いたけど、僕も久しぶりで…すみません」と謝られて、恐縮。こちらはもっと訳がわからないんです。謝らないでください。ナビはもう役立たず。
戻って別の道を辿るけれどもどうも違うらしい。ここで鈴木区長さんに電話をします。が、ちんぷんかんぷんなのですぐに三ヶ田さんに電話を換わってもらい先導してもらいました。
見つかりました。「修徳院はこちら」の案内矢印。そして丸又蒲鉾、の横におじさんが立っています。ここだー!!
「お待たせしました」と車から飛び降りました。
三ヶ田さんは案内してくれてすぐに、また仕事に戻られました。ありがとう三ヶ田さん。また後ほどー。
モンスターロシモフとまゆみん、そして柚原さんと5人でご挨拶。あちらは鈴木区長さんと坂本副区長さん、そしてもうひとりのおじ様。
「いやー、らんださんって人がバンドで来るっていうことだけ聞いていたんですが、らんださんってなに人かもわからないけど、とにかく来るなら来るだろうと待っておりました」となかなかのジョークがわかる区長さんたち。
確かに予定表に「らんださん1時」と書いてある。
だわねー。すみません。らんだです。日本人です。おじさまには理解しかねる名前ですね。
ほんとにどこのどいつかも知らない人間たちが突然やってきて話を聞かせろなんていわれて、相手してくださるなんて、ほんとうにありがとうございます。
震災当初の話
津波が来るっていう放送のスピーカーが壊れていて、町の人が知るのに時間がかかったこと。
地震が来たあと、避難した人が津波までの時間に一度家に帰って寒さをしのぐための毛布や服を取りに帰って帰らぬ人になってしまった人がいたこと。
あんなに海が汚いものだとは思ってなかったこと。
最初の津波と二番目の津波の間に一生懸命助けられるだけの人を助けたこと。
波は人間が着ている服を全部はぎとってしまうこと。
薄磯地区は344戸の家があったのだが震災でやられなかったのは18戸だけだったこと。
787人の人が住んでいたのに、103人もの人が一度に亡くなってしまったこと。
最高高さ8.5メートルの津波が来たこと。
その当時は(生きることに)必死で涙など出なかったこと。
せっかく助けた人もずぶ濡れで、暖める手段が興奮状態でわからず、低体温で死んでしまったこと。
自分が血を流していることも気がつかないで人を助けていたこと。
自分も海に入ったので(助けるために)、くさかったこと。
最近思い出して涙がでてくること。