凍てつく京都、あるいは末端(後篇)。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 12月19日(土)

(冬の京都観光、続きです)

 いつの日か再び訪れよう、と桂離宮のリピーターとなることを誓いバスで京都駅へと向かう。適当にお昼を済ませ、それからいそいそと次はタクシーで蓮華王院「三十三間堂」へと移動した。

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 自分は、巷のブーム到来よりも鼻差で先取りしていたと胸を張って断言できる。いつの日からか仏像に心を寄せるようになり、東西南北、仏あらばどこへでも、という熱心さではないまでも、ゆるゆると写真集や解説本などでその世界を味わうというようにして日々追いかけている。ちなみに、ボクの鼻はかなり低い。

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 正午を少し越え、気温は一日で最も暖かくなる時間を迎えているはずなのに、手は、まるでそれ自体が意思を持ったかのように頑なにポケットから出ようとしない。後に落ち合った友人からは大げさだと一蹴されたのだが、この日はポケットから手を出せば反射的に「凍死」という言葉が浮かぶような気温だった。本堂内は土足厳禁で、気休めの履物的なものもない。吹き抜けの床張りは凍てつく寒さで、足先の末端の感覚は当たり前のように凍結した。

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 三十三間堂の見どころはやはり、ステージ上ずらりと居並んだ千体の千手観音である。こうも末端が寒ければ思考回路も霜が張り、その存在を忘れ、道が続くからという理由だけで歩を進めていた。千手観音たちから言えば左後方から来堂者たちは入場する。ひな壇に並ぶ彼らの横を通り、正面に回りこんで鑑賞する構造になっているのだが、思考凍結中のボクは、正面に行く途中でフライング、横目にその光景が見えてしまった。写真では何度も見たことがあり、イメージも大体はできていたのだが、横から見る整然と並んだ千体はあまりにも強烈で意表を突かれ、うわっ! と思わず声を発してしまった。それから正面からきちんと鑑賞をはじめるのだが、さっきの体験があまりにもすごかったため、早々逆走、入場から再びやり直しては、同じようにうわっ! と声を上げ数多の左横顔の先にかすかに見える外の景色ににやにやしたのだった。

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 そんな回り道を経て、今度こそ正しく鑑賞に耽る。するとバックダンサー、という言葉が浮かぶ。千体の千手観音を背に受けて、俵屋宗達の絵でお馴染み「風神・雷神」や鳥人間を思わせるとりわけ異形の「迦楼羅」、夢に出てきそうな相貌の「婆藪仙人」、今でこそ興福寺の神秘的で柔和なバージョンのそれにイメージは取って代わられたが、筋骨隆々憤怒の表情の「阿修羅」、阿吽のペアの「金剛力士像」、仏界きっての男前「帝釈天」など二十八部衆が最前列に並んでいる。ど真ん中に巨大に鎮座する中尊を筆頭に国宝が揃いも揃えば壮観で、しかし裏を返せば「もったいない」。すなわち、ひとつひとつとの触れ合いの時間、その密度がどうしても薄らいでしまうのだ。そういう意味で「バックダンサー」という、双方(千体の千手観音とボク)が不本意な時間がそこに存在する破目になってしまったのだ。しかしそんなものは複数回通い、その日ごとに愛を注ぐ対象を変えていけば済む問題であるため、ここでもボクはリピーターになることを誓って三十三間堂を後にしたのだった。ちなみに、ここで「矢継ぎ早」という言葉の由来を得たのだが、それを記すには余白が足りないため割愛することにする。

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 このあと道路を挟んですぐにある「京都国立博物館」に行くつもりだったのだが、運悪く休館中であったために叶わなかった。しかしそれは結果、良かったかもというふうに思っている。なぜなら、訪ねた先が「桂離宮」と「三十三間堂」の二つであることで、この小旅行に一貫性が見出せるためだ。それは「“超越”に触れる」というものだ。どちらも自分の理解や価値観を超越していた。衝撃的、や圧巻、といった言葉では収まらない、心に新風がすさまじい風速で吹きこんだような、まったくはじめての感覚、感動だったのだ。そしてその風の冷たかったことったらない。そう、もうひとつの“超越”とは冬の京都の寒さだ。

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 前夜、メモリー容量を十分すっきりさせ、バッテリーの充電も万端にしたデジカメをリュックに忍ばせていた。しかし家に帰っても撮影した画像を見返す作業はしなかった。なぜか。一枚も撮らなかったからだ。否、撮れなかったからだ。途中何度も「寒くて手を出したくないから写真を撮らないという理由はだめだ!」と自分に喝を入れてはみるが、意思をもった手は超越なまでの頑固一徹を貫いた。夕方からは河原町で友人と合流して、ならば当然いろいろと店を冷やかすのが道理なのだが、ボクはすぐさま喫茶店を提案した。それほどまでに、末端はもう限界を超越していたのだ。

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 こうして今冬の京都観光は終わっていった。どうかこの濃密な思い出が、終了と共に一瞬で美味しいまま冷凍されていることを、そしてこの先、解凍すればいつでも甦るものであることを願って、今日も冷たい自室、末端に急かされながら筆を置こうと思う。