創作初期の時代だから,もう数年も前のことです。


 当時,私は「幻の美女」という小説を書き,何人かの読者の方からお褒めのコトバをいただいたものです。


 そのうちの一人の方に言われて嬉しかったのは,「幻の美女」では,何の変哲もない朝の通勤列車風景の中に,濃縮された人生ドラマを感知することができたというものです。


 毎朝,同じ時間,同じホームの一角に現れるという噂がたった幻の美女と,その正体は・・・。


 まあ,あれは私的にも奇想天外さの点では満足している作品の一つなのですが,これから話す,新都市伝説「幻のストーカー」においては,あれに勝るとも劣らぬ朝の通勤列車風景の濃縮さを味わってもらえれば幸いです。


 それではさっそく話をすすめます。


 由利子は今年で25歳になるOLだ。


 渋谷の道玄坂から少し歩いた先にあるワンルームマンションで一人暮らしをしている。


 生来の美貌とグラマラスな肢体は多くの男を虜にするものがあるものの、独身で今は恋人もいない。


 大学時代は東京郊外の親元で生活していたものの,少女時代からの憧憬の地であった渋谷の街並み・・・。


 渋谷に住み,渋谷の駅を使って通勤するという夢にまでみた生活が2年前から実現できるようになった。


 しかし,渋谷駅周辺の朝陽の燭光にはすさまじいものがある。


 他の繁華街に比しても,ハチ公周辺から大交差点にかけては人口密度がせまく,その分,エネルギーが全体として無声の叫びをあげているような気もします。


 エネルギー,それは朝のエネルギーとでも言ったらいいのかな。


 これから始まる都会の息吹という感じでしょうか。


 彼女の場合,通勤経路は井の頭線であって,ハチ公側ではない。


 線路下の大きな横断歩道を渡り,駅ビルへ続く長いエスカレーターを使って,井の頭線の改札口までへとすすむ。


 朝の7時半頃でしょうか。無言の人波をかき分け,エスカレーターに足をすすめたときだ。


 「まただわ・・。」


 彼女は眉間にしわをよせた。


 横断歩道とは反対側の商店街の方から,最近よく見かける中年男性が,チラリと彼女に一瞥をくれてから,気づかぬように先行するのに気づいたのです。


 眉をひそめたのは、こういうことです。


 偶然なのかどうか、最近少し気になっているのは,毎朝その中年男性が彼女と同じホーム,同じ時間帯で吉祥寺方面に向かうことです。


 最初は全然気づかなかったものの,一月前辺りからだろうか,どうも彼女の周囲に彼女自身その中年男性の視線を感じるようになったのです。


 なんというのでしょうかね,普通に背広姿ではあるが,決してオシャレな清潔感はない。


 年齢は30代後半というところか。


 その特徴を一言でいえば,職業不詳・・・。


 得体の知れない不気味なオーラを発しているような印象をあたえる。


 銀縁の眼鏡の底に浮かぶ双眸には,何かに取り憑かれた宗教家のようなものを感じさせた。


 だから,何度も朝に見かけ,ねっとりとした熱い視線を感じるようになってからというもの、すぐに乗車時間をひとつずらしてみた彼女です。


 乗車時間を変えればね、そうすると,もうその不気味な男性に遭遇することは皆無になるわけで問題はなかった。


 しかし,不思議だなと思ったのは,たった数分時間をかえるだけで,この無数の人波は,一変し、まるで別世界を展開することである。


 なんだか朝の渋谷駅前って,大海の波みたいね,由利子はそんなふうに心中呟いては苦笑した。


 ゲシュタルト心理学の本質というのは,心理現象全体の特性として,諸要素に還元できないことの指摘にあります。


 諸要素の積み重ねというのは確かに事実であるが,積み重なって出来上がった全体にはそこに新たな視覚上,聴覚上の生命が生まれるということなんでしょうかね。


 渋谷の駅前の人波の風景にしても,その風景が無数の人々の積み重ねとは独立した全体の絵を浮かび上がらせているのはもっともなことなのかもしれませんね。


 それはさておき,一月ほど前に得体の知れぬ宗教家のような男と同じ時間に乗車することを意識しだした彼女は,それからしばらくして,乗車時間をずらすようになった。


 しかし,今朝はどうしても早くに出勤しなければならない事情があったゆえ,以前通りに渋谷駅に着いたら,やはり,またあの不気味な中年男性を見かけてしまった。


 その中年男性、改札口を彼女よりも前に歩き,ふと斜め後ろにいる若い男性に一瞥をくれたときです。


 ちょうど,後ろに位置していた彼女はあらっという声なき声をあげた。


 あらっ,この横顔どこかで見たことがあるような気がするわ・・・。


 そうよ,この顔・・・。どこかで見たことがあるわ・・・。


 今まで殆ど,その男性を注視することがなかったゆえのことか,思えば思うほど,過去に見たことのある人物に思えてならない彼女です。


 しかし,どうしても思い出せない。


 電車はやがて下北沢に着き,男は降車する。


 それから,明大前まで通勤する彼女ですが,その日は1日中,夜に帰宅してから後も眠りにつくまで,その男性のことで頭がいっぱいだったものです。


 こういうのって,人間にはよくあることですよね。私にもありますが,たいていは長くても2,3日でどこで見た顔かは思い出せるものです。


 それにホンの些細なね、無限なる人間社会における一点であることに苦笑してしまうことが多いものです。


 しかし,その晩,彼女はどうしても思い出せなかった。


 ただ一つ,非常に奇妙な気分になったとのことです。


 妙に懐かしい,遠い昔にどこか遠い国で見かけたことがあるような気がする・・・。


 誰だったかしら・・・。


 それに・・・。


 それに,なんとなく,彼もまた見知らぬふりをするものの、アタシの事に気づいているような気がするわ。


 翌朝,彼女は,乗車時間と乗車位置を元に戻した。


 やはり,その男は彼女と同じようにエスカレーターの登り口からホーム最後尾まで,あまり機敏とも言えないような疲れた風情で現れた。


 どういうわけか,以前に会ったことがあるような気がしてからというもの,その男に対する気味の悪さというものが薄らいできたような感じがした。


 決して,好みのタイプではないものの,何よりも普通の人とは違った雰囲気に,変な言い方ですが魂が妙な親近感を抱くようになったのです。


 何をしている人なのかしら,それが不思議な邂逅的記憶の糸口になるような気がした由利子です。


 普通の会社員には見えないけれど,この時間帯に毎朝渋谷から下北沢まで通勤しているのだから,何らかの仕事はしているのでしょう。

車内で心中反芻する彼女です。


 翌朝も,またその翌朝も・・・???


 あまりやる気のない小学校の先生かしら,強いて言えば,そんなイメージがあるが,そうだとしたら,過去に自分と何らかの形で接点があったことは想定しにくい。


 どこかの店やらクリニックで働いていて,過去に自分がそこに客として赴いたか,いつまで経っても思い出せない彼女は下北沢にあるその手の類の場所を想像してみた。


 下北沢では,確かに時折友人と夜ワインを呑んだり食べたりする。


 それに昨年はエアロビクススタジオに通っていたことがあり,そこで見かけた顔というのが一番ありそうな話かしら。


 しかし、エアロビクススタジオでの一年間を思いだしてみるのだが,どうも釈然としない。



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