約8年前に函館のコミュニティラジオ局FMいるかで4年間パーソナリティーを務めた経験をもち、現在はFMおたるで番組パーソナリティーを担当している、小樽出身の野口沙代さんに聞きました。(前半)

 

---小樽出身なのに、なぜ函館へ?

10代後半の時、当時付き合っていた彼(現在の旦那さん)が函館の大学へ進学する事が決まり、たまたま私が務めていた会社の2号店が函館にオープンする事になって「行くっきゃない!」と、双方の両親合意のもと彼について一緒に函館へ行きました。函館で新生活がスタートしたのですが、働いていた職場が3か月ほどで経営不振に陥ってしまい「どうしようかな?」と考えていた時、函館にあるコミュニティラジオ局「FMいるか」に挑戦してみようと思ったんです。

 

---ラジオは好きだったんですか?

小学校の頃からラジオが大好きで、私が投稿したメッセージが初めて読まれた感動を、今でも忘れられなくて。更に、こんな小さい機械なのに電波さえ合わせれば人の声が聞こえてくる。そして番組で紹介されているメッセージは当時ハガキがほとんどで、リスナーが書いたハガキを郵便屋さんが運んで、いまラジオの向こうで話している人の手に渡り、番組で紹介している。その繋がりを想像すると「凄いな!」って、それでどんどんラジオにのめり込んでいき中学生の頃には「ラジオのスピーカーから聞こえてくる、向こう側に行けたらいいな」と思った事もありました。

でも、12歳の思考ではラジオは雲の上の存在、行けるわけが無いし行き方も分からない、無理だろうと思っていました。それでもずっとラジオが大好きで聴き続けていたんです。

 

そんな想いもあって、職を失ってしまうタイミングに函館のラジオ局に問い合わせをしました。「雑用でも何でもやります、働かせてください!」と、そしたらタイミングよく「ちょうど新しいパーソナリティを募集しているので、オーディションに参加してみますか?」と言われました。もう即答でハイ!と答えました(笑)

 

しかし、いろいろ調べてみると元NHK函館支局のアナウンサーや地方局のテレビ経験者など、もの凄い方ばかりが40人くらい同じオーディションを受けるんだと知りました。「あー多分、無理だな…」ところが、1次2次を通過し、最終面接まで行くことが出来たんです。…え~!どうして私が?!と思いました(笑)

 

---凄いですね

最終面接の相手はラジオ局で一番偉い局長と呼ばれる人でした。そこで受けた質問が今でも心に残っているのですが「君は、君が今まで生きてきた、君という人間の全てを捨てる事が出来ますか?」と。一瞬、何を言われたのか理解できませんでした。今までの私を作ってきた出会いや教え、この御方はそれを捨てなさいと言ったんだ・・・。でも「ラジオでしゃべりたい!」という気持ちが強く、3秒くらいの空白があったかと思いますが「はい、捨てられます」と答えました。そしたら何と、合格してしまったんです!!!!

かなり時間が経ってからですが、局長に「面接の時の質問は苦しかったですよ、自分を捨てろなんて」と言った時、質問の意図を教えてくれたんです。

 

---どういった意図だったんですか?

「プライドを捨てられる人間は、それだけ吸収するスピードが速い。自分で作ってきた今までの自分の人生を壊せるかと聞かれたら、ほとんどの人間は壊せない。ラジオの業界では自分という人間を全てリセットし、ラジオ業界の人間として作り直す事が必要」それを見抜く為の質問だったそうなんです。

---ゼロから指導されるには大変な事も多かったですか?

大変でした、大好きな事をやらせて頂けているので全く苦じゃなかったんですが、局長には何度も怒られました。「おい野口“伝える”と“伝わる”の違い分かって喋ってるか?」とは何度も言われましたね。一生懸命番組を作り、伝えようとしているのに局長からは「伝わってないぞ」と言われる。最初は訳が分かりませんでしたが、局長からは何度も、業界人としての心構えや伝え方など、いろんな事を学ばせて頂きました。私の原点に流れる部分は、当時のFMいるか局長 杉田圭夫さんに教わったんです。

 

また、函館の方々に受け入れて頂くため訛りの練習もしました。「函館の訛りを練習するなら市電に乗れ!」という局長からのアドバイスで、1日中市営電車に乗って函館市民の会話をこっそり盗み聞きして勉強していました、本を読んでいるフリして(笑)

 

---怪しい人だと思われていたでしょうね(笑)

女子高生や浜の人の訛り、それぞれちょっと違うんです。ずっと聞きながらイメージして、それを番組でどう自然に出せるか練習していました。函館の訛りに慣れてきた頃、お正月などに小樽へ帰省すると、親から「言葉遣いちゃんと戻せるの?」と心配されました。でも函館のラジオに戻れば地元の訛りを出して溶け込む。コミュニティラジオ局ならではの、乗り越えなくてはならない一番の難関は"訛り"だったかもしれません。いやー頑張りましたね(笑)

 

---函館のラジオ局では、どんな番組を?

最初はアシスタントから始まりましたが数年後には3時間の生放送を担当したり、中継レポーターとして函館市内を周ったりしていました。

 

---どんなことを注意しながら番組をやっていましたか?

20代前半の若さを前面に出して、とにかく元気にパワフルにありのままの私で。そしてきちんと伝える為、私の番組を聞いてくれている人の顔を思い浮かべながら話す様に工夫していました。あとは、「いつも通り」こなすのではなく「いつも新鮮に」インタビューしようと心掛けていました。私はラジオでのインタビューを、仕事としてやらせてもらっているけど、ラジオに出演して頂く人にとって今回が初めての経験かもしれない、しかもこのラジオ出演をきっかけに人生が変わるかもしれない。ゲストは大切な事を伝えたいからこそ、ラジオに出演しているはず。だったらそれをどう上手に引き出すか、インタビューの手法はかなり勉強しました。

 

しかし、大好きだったラジオを4年ほど続けた後、辞めることになりました。

 

---それは何故ですか?

共に函館で頑張っていた彼と結婚が決まり、大学を卒業した彼の就職先が札幌に決まったのが理由です。FMいるかの皆さんからは「辞めないで欲しい。遠距離夫婦の選択も視野に入れてくれないだろうか」とまで言って頂けました。でも、私は長女ということもあり、親の傍に居たいという気持ちもあった為、大好きなラジオパーソナリティというお仕事を辞めて、札幌に行く事になりました。

 

---その時の心境はいかがでしたか?

正直…つらかったです。でも、主人の良きパートナーでありたい、そして母になりたい!その想いも強かったんです。ラジオに関われた年月は、本当に宝物のような4年間でした。今までもこれからも、これ以上の経験は絶対に出来ない。「昔、ラジオのDJやってたんだよね」と、美談として誰かに昔話をするつもりも一切なく、大好きだからこそ、この業界に戻る事はもう2度と無いだろうとラジオに関われた4年間を胸にしまい、気持ちを切り替えて札幌に行きました。


後半に続く