。石燕が絵に添えた詞書ではしばしば,どこの地方の伝承であるかが明示されている。例えば「叢原火」(そうげんび)が見られるのは「洛外西院の南,壬生寺のほとり」だし,「姥が火」(うばがひ)なら「河内国にありといふ」などと,意外にマメに伝承の由来をコメントしている。  明治以来の民俗学が果たしてしまった役割を念頭に置くと,問題性がいっそう明らかになるが,おそらくは木版画に刷って流通メディアに載せるという行為そのものが,こうした妖怪を地場から切り離し,特定の土地や故事との関係を希薄にしていってしまう。  その伝承がほかの人にインスピレーションを与え,二次創作が生まれ……といった形で,神獣やら妖怪やら,荒ぶる神やらといった異界の住人は,確固たる足場を失う代わりに,やがて広く流通する記号として,新たな歩みを始める。  柳田国男が描いた遠野が,何か特別な土地として意識されてしまったり,河童のディテールが全国で統一されてしまったりといった副作用を伴いつつ,それはキャラクター化されていくのだ,maplestory RMT。  極端なフュージョン要素を特徴とするMMORPG「エミル?クロニクル?オンライン」の「ネコマタ」に,ゲーム設定上の働き(プレイヤーキャラへの寄生と協力)のほかに「お茶を煎れてくれる」といった「日本的」性格が付与されていくのも,諸外国の妖怪/異人要素と対比する新発想によるものであろう。  さて三つめの境界は,まさにそのキャラクター性を問う論点なのだが,実は石燕の作品,全体の3分の1ほどが石燕自身の創作らしい。彼は伝統的な百鬼夜行図を踏襲し,解釈するに留まらず,彼のセンスでユーモラスな新妖怪を大量に追加しているのだ。伝承と創作の境界,それが三つめの注目点である。  こうなると彼の立ち位置は,既存の伝承や資料を参考にオリジナルのゲームを作るシナリオライター/キャラクターデザイナーと変わらないともいえる。浅学な筆者Guevaristaとしては,先行する百鬼夜行図と比べてみたこともなく,正直どれが彼の創作物で,どれが古来の伝承なのか,見分けがつかなかった。……しかし,石燕の絵をそのまま引き写したような子供向け妖怪解説本が広く出回っているわけだが,伝承なのか創作なのか区別しないままで,教育上大丈夫なの? と,思わないでもない。  とはいえ,博学な石燕は「伊勢物語」や「平家物語」,「山海経」や「論語」,数々の能の脚本などからインスピレーションを得,一連の作品として見たとき,ドラゴンクエスト10 RMT,実に多彩な世界を描き出している
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