美連嶽(めずらだき)と京阿波根塚(きょうあはごんづか) | 沖縄の裏探検

美連嶽(めずらだき)と京阿波根塚(きょうあはごんづか)

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現在の首里グスクの前に守礼門(しゅれいもん)がありますが、そこから玉陵(たまうどぅん)向けに坂を下りて行くと首里琉染と言う染物屋さんがあります。
そこに中山門(ちゅうざんもん)と呼ばれた門がありました。

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その向かいに美連嶽があります。

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ここは『真壁大あむしられ』という神女が管理していました。昔は美連塚の後方に真和志森(まわしむい)と言う森がありました。美連塚の真後ろに京阿波根塚があります。

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ここには京阿波根親雲上実基(きょうあはごんぺーちんじっき)という人物が葬られています。生没年は不明ですが実在した人物です。
彼の本名は阿波根実基(あはごんじっき)で、唐名を虞建極(ぐけんきょく)と言いました。剛直無心な性格の人物であったと伝わります。
球陽(きゅうよう)という琉球の史書によると空手の使い手とされています。

実基は尚真王(しょうしんおう、在位1477~1526)の時代、治金丸(ちがねまる)という王家が家宝としている刀を京都の研師へ研がせる命を受けました。

彼は京都で治金丸を研がせて帰国しましたが、持ち帰った治金丸が偽物とすり替えられた事が判明します。
実基は急いで京都へ渡り、3年掛けて探し回って治金丸を取り戻しました。
尚真王はとても喜び、実基へ領地と新たな位階を授けました。

実基の名声は高まりましたが、彼の剛直な性格や、ミスからの出世を妬む人物が現れてきて王へ讒言する者まで出てきました。
遂には首里グスク内へ暗殺者が送り込まれ、城内で襲われた実基は中山門まで逃げてきて、そこで息絶えてしまいました。
その事を哀れに思った神女が現在の京阿波根塚の場所へ埋葬しました。

球陽の中に『建極、手に寸鉄無く、但空手を以て童子の両股を折破』とあり、暗殺者は童子であるとされています。沖縄では20歳頃の若者も『ワラバー(童子)』と呼びますので青年期の人物かも知れません。
しかし『空手』は明治時代に『唐手』の呼び方を変えたものなので、『くうしゅ』という読み方かも知れないとの事です。