※2012年4月25日にUPした記事ですが、頼長が清盛・忠盛親子の

流罪を主張した根拠とされる春秋左氏伝の宣公2年の記述

(晋の趙盾の霊公弑殺事件)の検証部分を追加したため、

本日日付で再度UPしました。


大河ドラマ「平清盛」の第13話で取り上げられた祇園闘乱事件。
ドラマの解説記事を書くにあたり、この事件について調べてみたら
非常に長文となってしまったので、独立記事としました。


ドラマでは

“清盛の家人が祇園社で武器の携行を咎められたことを発端に

乱闘騒ぎを起こし、それに対して祇園社の本山である

比叡山延暦寺側が激怒。強訴に及んだのですが、清盛が強訴の

旗頭ともいえる神輿を射抜いたことで強訴側は恐れをなして退散する”

という筋書きになっていました。


私がかつて読んだ吉川英治著の「新平家物語」や
それを原作にした「人形劇平家物語」では、祇園闘乱事件に
ついては触れずに(新平家はうろ覚えですが、人形劇の
内容を確認したところ、その描写はありませんでした)、
強訴撃退を命じられた清盛が神輿を射抜き、強訴側は
撤退するという筋書きでありました。
そのため私自身は『「清盛が神輿を射抜いた」ということは
事実はともかく、似たような事件はあったのだろう』
という認識でおりました。しかし事実はどうだったのか?
いい機会なので、調べてみました。


以下で引用したのは 祇園闘乱事件Wiki  の記載ですが、


「平家礼賛」というHPの 2.初めての試練~祇園社頭闘乱事件

の記載も参考にしております。

なお、引用文は始めと終わりに>>の記号を配し、

文字は青字で統一しています。


事件の概要

>祇園闘乱事件は、久安3年6月15日に祇園社の神人と
平清盛の郎党が小競り合いとなり、
宝殿に矢が当たり多数の負傷者が発生した事件。
平忠盛・清盛父子の配流を求める延暦寺の強訴の引き金となった。>


事件の詳細を確認するためWikiの記載を抜粋し、

ドラマの内容と比較してみます。

>祇園臨時祭の夜に平清盛は、田楽を奉納しようとし、
平氏の郎党が楽師の護衛として同行。
その際に祇園社の神人から武具の携行を咎められて
小競り合いとなり、放たれた矢が宝殿に突き刺さり
多数の負傷者が発生する騒ぎとなった。>


清盛の部下の武器の携行が事件の発端であることは、
ドラマの描写の通りです。
さすがにヘッドバッドは無かった
でしょうが、その程度は大目にみましょう。
史実では事件が起こったのは夜であると記載されてますが、
ドラマでは真昼間の出来事でした。この辺は
出来れば史実に合わせてもらいたかったところです。

「神輿に矢を射た」という件に該当するのは、
>小競り合いで放たれた矢が宝殿に突き刺さり>
という箇所が該当すると思われます。
この件については吉川英治の「新平家物語」や、
それを原作にした「人形劇平家物語」でも
「清盛が神輿を射抜いて強訴を撃退する」
という筋書きになってましたので、私も
「清盛が神輿を射抜いたこと自体はあった」
と思い込まされていましたが、それは事実と異なるようです。
一応番組の最期の「清盛紀行」で八坂神社が紹介されていて、

この神社がかつては祇園社と呼ばれていたことや、
史実のでは清盛の部下と祇園社の神人達との諍いから
大騒動になったということは解説されていましたが、どうせなら
『「清盛が神輿を射た」というドラマの描写は、フィクションです』
ということまでツッコンで説明してもらいたかったところです。



>その後祇園社の本寺である延暦寺の所司が参院して
闘乱の事を訴え、これに対して忠盛は先手を打って、
下手人7人の身柄を院庁に差し出し、
法皇はこれを検非違使庁に引き渡した。>


忠盛が下手人の身柄を差し出したのは事実であるようです。
違いを敢えてあげるとすれば、忠盛が下手人の身柄を
差し出したのは院庁に対してであり、彼らを検非違使庁に
引き渡したのは鳥羽法皇であるという点です。
まずは鳥羽法皇に下手人を引き渡したというところに、
鳥羽法皇と忠盛・清盛親子との蜜月関係が見て取れますね。


>しかし延暦寺は納得せず、衆徒が日枝社・祇園社の
神人とともに神輿を押し立てて、
忠盛・清盛の配流を求めて強訴を起こした。
法皇は衆徒の入京を阻止するため、源光保らの軍兵を
切堤の辺に向かわせて防備を固めた。>


延暦寺の荒法師達が神輿を押し立てて、忠盛&清盛親子の
配流を求めて強訴を起こしたことは事実ですね。

鬼若(弁慶)の強訴参加については、彼はファンタジーの
世界の住人にほぼ等しい人物なので、
出てくる年代さえ間違ってなければ、ある程度の創作は許されるでしょう。
鳥羽法皇が派遣した源氏の軍兵の主力を担ったのは
ドラマでは為義でしたが、史実では違うようです。
ただ史実にこだわるあまりにドラマで登場人物を
増やしまくったら、予算・キャスティング上の問題もある上に
話もまとまらなくなるので、この件も仕方のないことです。
ドラマに限らず創作作品である以上は、ある程度
登場人物を絞って話を理解しやすくする必要があると
いうことを、視聴者(読者)も理解する必要があると
つくづく感じた次第です。



>法皇は院宣を下し、三日以内に道理に任せて裁決すると
約束したため、衆徒は一旦引き下がった。>

このドラマや私がかつて読んだ吉川英治作の「新平家物語」
では、「清盛が神輿を射たことで強訴側は撤退した」という描写でしたが、
それは明らかに事実に反することが分かりました。
そもそも「清盛が神輿を射た」などという事実はありませんからね。



>30日(29日)の夕方、白河北殿に藤原忠通・藤原頼長・

源雅定・藤原伊通・藤原宗能・藤原顕頼・三条公教・

徳大寺公能・花山院忠雅らの公卿が集まり、

祇園闘乱についての議定が開かれた。

忠盛は事件に関知していないので責任はない、

下手人を尋問すべきという意見が大勢を占める中、

頼長は『春秋左氏伝』宣公2年(紀元前607年)の

故事を引き合いに出し、本人が関知していなくても

山城国内にいて郎党が事件を起こしたのだから、

責任を免れることはできないと持論を展開する。


顕頼は議定の結果を法皇に奏上し、ひとまず現場を

検分する使者を出すという方針が定まった。

その日の夜に検分の使者が祇園社に派遣され、

延暦寺の所司とともに矢の突き刺さった場所、

流血の痕跡、損失物などの調査を行ったが、

衆徒の主張と食い違う部分もあったという。

7月5日(8月3日)、検非違使庁で拷問を受けた下手人が、

田楽の集団の背後にいたところ社内で闘諍があったので

矢を射たと自白した。8日(6日)、延暦寺・祇園社の書状、

検分による被害の調査報告書、検非違使庁の尋問記録に基づいて

法家に清盛の罪名を勘申するよう宣旨が下った。>


ドラマでは「忠盛に責任はない」という意見は信西入道が主張しており、

それに対して頼長は「忠盛・清盛親子の断罪を主張」し、

両者の対立構造が表面化したという描写になっていました。

このドラマでの描写は妥当であったと考えます。

しかし頼長様、平氏を断罪するためにわざわざ『春秋左氏伝』

を引用するなど、己の博識ぶりをさり気なく主張してますねぇ。

さすが当代一の学者でもあった悪左府様です。

悪左府と呼ばれた頼長ですが、彼は彼なりの美意識から

彼自身の正義を貫き通しただけなんでしょう。

ただ、そういった口煩い学級委員みたいな悪左府頼長の言動は、

支持者もいる一方で反発者も絶対に生み出します。

なんだか後世の石田三成とちょっと被る気がしますねぇ。



>頼長は『春秋左氏伝』宣公2年(紀元前607年)の

故事を引き合いに出し、本人が関知していなくても

山城国内にいて郎党が事件を起こしたのだから、

責任を免れることはできないと持論を展開する。>


の部分についてですが、恐らく頼長が引き合いに出した故事とは、

晋の趙盾(ちょうとん)の事例であると思われます。


参考資料 春秋左氏伝Wiki


『春秋左氏伝』とは孔子の編纂と伝えられる歴史書『春秋』の

代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の

歴史が書かれています。当時の支那大陸は周王国を頂点として、

その支配下に沢山の独立国がありました。

晋はそうした独立国のひとつですが、南の超大国楚(そ)と

対抗できる北の大国でした。

しかし魏・韓・趙という有力3貴族が後に独立し、

それぞれの国を建国してしまったために滅亡しました。

異論もありますが、この晋の分裂以前を春秋時代、晋の分裂から

秦の始皇帝による支那大陸の統一までを戦国時代と解釈するのが、

一般的な歴史解釈です。

孔子が春秋を編纂した頃は支那大陸に統一国家など

ありませんでしたから、統一の年号もありません。

ですから、各国の君主の治世を年号変わりに用いています。

今回話題にする趙盾の事例があった年(紀元前607年)は

【※孔子は魯国の出身で、魯に仕えた時期があります】

魯が宣公の治世になって2年目であったため、

宣公2年の出来事として表記されているのです。


春秋左氏伝の説明はこれくらいにして、
頼長が引用したと思われる趙盾(ちょうとん)の事例を、

趙盾Wiki の記載を部分抜粋して見てみます。



>翌年、夷皋は即位して霊公となった。当初は趙盾の言うことを

おとなしく聞いていた霊公だが、長ずるに従って逆らうようになり、

趙盾が諌めても聞こうとしなかった。

霊公と趙盾の対立は日に日に深まり、紀元前607年、

霊公は趙盾を殺すために鉏麑という刺客を送った。

しかし、趙盾の屋敷にやってきた鉏麑は、

趙盾の身の修め方を見て、殺すことは正しくないと考え、

自ら頭を木に打ち付けて自殺してしまった。

霊公はそれでも諦めず、宴に刺客を潜り込ませて、

趙盾を殺そうとした。趙盾は人の助けでこれを逃れ、

亡命しようとしたが、従兄弟の趙穿が怒って霊公を殺してしまった。

このとき、趙盾はまだ国境を出ておらず、

慌てて宮殿に戻り、襄公の弟の公子黒臀を迎えて晋公に立てた。

これが成公である。

霊公の死に関しては、太史(史官)の董狐によって、

晋の国史に「趙盾、その君を弑す」と書かれてしまった

(弑すは目上の人間を殺すこと)。

趙盾は「自分が弑したわけではない」と抗議したが、

董狐は「あなたは霊公が殺された後、国境を出ずに帰ってきた。

すなわち、その時点であなたはまだ晋の正卿であるのだから、

反逆者である趙穿を誅する義務があった。

それをしなかったのだから、自らが弑したのと同じだ。」

と答えた。この後、趙盾はこのことに関して一切反論しなかった。>


Wikiから抜粋した文章を出来るだけ簡潔に記すと、こうなります。


趙盾という人は、自身が擁立した霊公【当時の晋の君主。

各国の君主が王を名乗るのは戦国時代になってからであり、

それ以前は王と名乗っていたのは周の君主と、

周王朝に従属していない南の超大国楚(そ)の君主だけでした。】

に疎まれ、刺客を差し向けられるなど命の危険を感じる

までになっていました。

彼は亡命を決意しましたが、趙盾の従兄弟である趙穿が

趙盾に対する霊公のあまりの非道に対しての怒りから

霊公を暗殺してしまいます。その報せを聞いた趙盾は、

まだ国境を出てなかったこともあって慌てて宮殿に戻り、

襄公の弟の公子黒臀を迎えて新たな晋公としました。

これが成公です。


霊公の死に関しては、太史(史官)の董狐によって、

晋の国史に「趙盾、その君を弑(しい)す」と書かれてしまいました

(弑すは目上の人間を殺すこと)。

趙盾は「自分が弑したわけではない」と抗議しましたが、

董狐は「あなたは霊公が殺された後、国境を出ずに帰ってきた。

すなわち、その時点であなたはまだ晋の正卿であるのだから、

反逆者である趙穿を誅する義務があった。

それをしなかったのだから、自らが弑したのと同じだ。」

と反論。この後、趙盾はこのことに関して一切反論しなかったそうです。


趙盾が霊公を弑したのではありませんが、

彼の一族が霊公を弑したのは事実です。

いくら霊公が無道な君主であったとはいえ、主殺しは罪です。

そして趙盾は霊公を弑した実行犯である

趙穿の処罰をしませんでしたので、董狐によって

晋の国史に「趙盾、その君を弑す」と書かれてしまったのです。

つまり趙盾は、部下に対する監督責任を問われたのです。

現代社会でも社員に不祥事を起こした人がいたら、

不祥事を起こした本人だけでなく、その企業のトップも叩かれます。


ここでようやく頼長に話が戻りますが、

頼長はこうした趙盾の事例を引き合いに出し、

「祇園社の宝殿に矢を射たのが清盛の部下であるので、

清盛とその父であるミキプルーン忠盛の監督責任を追究して、

忠盛・清盛親子を流罪とするべきであるビックリマーク」と主張したわけです。

頼長が春秋左氏伝の趙盾のエピソードを持ち出して

忠盛・清盛親子の流罪を主張したというのは、

何事にも筋を通す、悪左府頼長らしいエピソードです。

この経緯を見る限りでは、頼長は個人的怨恨といった

小さい了見で自己の主張をしたわけではないと思われます。

まぁ個人の本心までは記録には残ってません(頼長の日記には

書いてあるかもしれませんが、そこまでは調べておりませぬ叫びビックリマーク

ので、頼長は本心までは分かりませんが...。


なお、趙盾については、


孟夏の太陽 (文春文庫)/宮城谷 昌光

¥570

Amazon.co.jp


に掲載されている「孟夏の太陽」という趙盾を主人公にした

短編を読むと理解しやすいです。私の古代支那大陸に関する

知識の多くは、宮城谷昌光氏の小説で得た知識であります。



話題を祇園闘乱事件に戻します。


>一方、裁決の遅れに憤激した延暦寺の衆徒は、

再び強訴の態勢に入った。法皇は天台座主・行玄に

衆徒を制止するよう院宣を下し(『平安遺文』2622)、

15日(13日)には北面武士を西坂下に、

「諸国の兵士」(畿内近国の国衙の武士)を

如意山路並びに今道に配備して、

衆徒の入京を断固阻止する姿勢を示した。

武士は3日交替で厳重な警戒に当たり、

洛中では大規模な閲兵と行軍が数次に渡って展開された。>


裁決が遅れて苛立った延暦寺側は再び強訴をしようとしましたが、

鳥羽法皇が断固阻止するように武士達(源氏がメイン)に

指示をして戒厳令を敷いたため、荒法師側もこれまで通りには

いかなかったようですね。

やはり理屈の通じない相手には断固とした処置をとり、

実力行使も辞さないという気迫を見せつけることこそが

有効なのだと思います。それはこの時代から900年近く経過した

現在でも、変わることの無い真理であると私は考えます。


>23日(21日)、再び議定が開かれるが欠席者が多く

延期となり、24日(22日)の議定も「諸説繁多」で

結論が出なかったが夜になって法皇が裁決を下し、

清盛を「贖銅三十斤」の罰金刑に処すことが決まった。

27日(25日)、闘乱を謝罪する奉幣使が祇園社に派遣され、

8月5日(30日)には贖銅の太政官符に捺印の儀式があり、

事件に一応の区切りがつけられた。

延暦寺の衆徒にとっては大いに不満の残る結末となり、

怒りの矛先は強訴に協力的ではなかった寺内の

上層部に向けられた。延暦寺では11日(9月5日)から

13日(9月7日)にかけて、天台座主・行玄の房が

衆徒に襲撃される騒動が勃発し、

以後3ヵ月に渡って内紛が続くことになる。

法皇は延暦寺の不満を宥めるため、

翌久安4年2月20日(1148年3月12日)、祇園社で法華八講を修し、

忠盛も関係修復を図って自領を祇園社に寄進した。>


その後も色々あったようですが、鳥羽法皇の裁決により、
清盛は「贖銅三十斤」の罰金刑に処されて決着します。

絶体絶命のピンチとも言えた忠盛・清盛親子からすれば、

軽い処罰で済んで一安心といったところでしょう。

忠盛・清盛親子の流罪を求めた強訴側としては納得できない
結果であり、この結果を受け入れた延暦寺の上層部と、
納得がいかない強訴に参加した荒法師達との間で対立が深まり、
えらく派手な内輪もめになったとか。織田信長の時代を
待つまでもなく、比叡山延暦寺は堕落していたことが分かります。



そしてこの事件の影響としては


>忠盛・清盛にとって延暦寺の強訴の対象とされたことは
重大な危機だったが、鳥羽法皇の庇護により配流を免れたことで、
その信任ぶりを周囲に誇示することになった。
鳥羽法皇にとっても、白河法皇が手を焼いた延暦寺の強訴を
事実上斥けたことは大きな自信となり、強訴に対抗する
武力の有効性・重要性を再認識したと思われる。
久安4年正月28日(1148年2月19日)の宣旨では、
衛門府・兵衛府・馬寮などの武官職が増員され、
武士の中央への進出が加速することになる。>


と書かれています。この事件を通して

平氏と鳥羽法皇の蜜月関係が大いにアピールされ、

鳥羽法皇としても武士の武力で強訴を抑えられた

ことが自信となり、それまでにない武士への

優遇策を採るようになった。
結果として武士の地位が向上したということになりますね。


ドラマの放映後の「清盛紀行」でも

「この事件をキッカケに鳥羽法皇は武士を増員し、

武士の地位向上にも繋がった」と解説されてましたが、

ドラマの描写では鳥羽法皇と清盛の個人的やりとりのシーンが

やたら丁寧に描かれた反面、そうした政治的な動きは

全然説明されてなかったところは残念なところです。


ともかく、

①「清盛の家臣の武器携行が祇園社との揉め事の始まり」

は事実だが、

「清盛が神輿を射た」というのは完全なフィクションであるビックリマーク

②忠盛が下手人を引渡したのは事実だが、引き渡した相手は

検非違使では無く鳥羽法皇。これは両者の蜜月関係を示す

事実である。

強訴側が一旦引下がったのは、「清盛が神輿を射た」からではなく、

鳥羽法皇が「三日以内に詮議して処罰する」と約束したからビックリマーク
悪左府頼長様が忠盛・清盛親子の処罰を主張して譲らなかった

のは事実でした。その際に「春秋左氏伝」の故実を持ち出すほど、

頼長様の学識は深かったんですねぇ。

裁決の遅れからまた暴れ出した強訴側に対し、鳥羽法皇は

武士を動員して強硬姿勢に出た。結果として強訴側の勢いも

弱まったため、鳥羽法皇が大いなる自信を持つこととなった。

結局理不尽な相手には強硬姿勢で望むしかないってことですね。

⑥清盛は結局罰金刑という、延暦寺側が求めた流罪からしてみれば

軽い処分で済みました。鳥羽法皇の彼等に対する信頼度を

人々は思い知ることになりました。

⑦裁決に納得がいかない比叡山側では、派手な内輪もめが始まりました。

もう始末におえないですねぇ。

⑧比叡山をなだめるため、鳥羽法皇も平忠盛も気配りをし、

フォローしてました。

⑨武士の力を認めた鳥羽法皇によって、武士は積極的に登用

されることになります。結果として武士の地位があがりました。


とまぁ、かなりの事項があった祇園闘乱事件。

これは簡単に解説しようというのが間違いでした。

「平安末期という時代への理解がまた深まったな」

と満足して、この記事は終了します。




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