#クリスマスの思い出は?

 

クリスマスイブが母親の誕生日なので、仏教徒の家はクリスマスに消極的だった世代なのに毎年ケーキだけは食べていた思い出はあるのですが、プレゼントは字を覚えたてだった小学校1年のクリスマスに枕元にあった某武将の絵本しか貰った覚えが無い。

 

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義弟宛に友人だと名乗る人物から電話があって「連絡を取りたい」と言う。

 

「義弟とは何処でのご友人ですか?」と聞いたら「高校の友人です」って

義弟は知的障害があって失語症状で知的な遅れもあり養護学校卒業で

しかも数年前に亡くっているのに「亡くなりました」と答えたら答えも無しに

電話を切りました。

 

しかも二世帯で二回線入れてある電話の内、子世帯である我が家の電話

に来た時点で判るウソって言う二重のミスまで付いている。

 

こんな間抜けな詐欺犯に騙される被害者は浮かばれない。

 

早く捕まって欲しい。

一般の人には嬉しいだろう。

同僚達も一様に喜んで、今日は早めに帰って行った。

 

実は、私にとって賞与の支給日は、結婚以来みじめさを実感する

日でしか無い。

 

日常の小遣いはおおよそ手取り給与の1割くらいなのだが、残業

とかが多くて手取りが1万や2万増えても私の小遣いは1円も増え

無いけれど、手取りが1万減ると小遣いが1万減る。

 

そして賞与から1円だって臨時小遣いをもらった事が無い。

 

つまり、私にとって賞与は、出ても出無くても使える金に変化は無

くて、むしろ仕事で求められる負荷が増えるだけのものでしか無く

喜びとは程遠い。

 

こんな暮らしをしていると、いつも思うのは「これが普通のはず無

いのに」って疑問や「感謝の心が幸福を呼ぶ」とか言ってる善人顔

した宗教家の言葉がとても胡散臭く感じる自分がいるって事。

 

神様は助けてなんてくれない。

ただ勝手にしているだけで、恩恵を受ける者とどんな苦労をしても

報われない者との不公平は確実に存在する。

 

子供に野球の試合を見せる時、背の高い低いに関係無く踏み台

を一個づつ与えて背の高い者はより良く見えて、背の低いものは

フェンスが妨げになって見えなくても、チャンスは平等に与えたと

言う”悪平等”が世の中にはびこっている。本当は背の低い者には

踏み台が無くても見える背の高い者の分を宛がって皆が等しく楽

しむ事が出来る様にするのが”本来の公平”だと言うのに平等に

拘って公平を忘れる。

 

我が連れ合いも同じ。パートで月に十万稼ぐ労働と30万手取りを

稼ぐフルタイムで負荷が同じな訳は無いのだが「自分も平等に働

いている」との自負の方が強くてやり繰りよりも不足感の方が強い

から、私の労働に対する感謝よりも満足出来ない収入への不満が

多く前述の様な処遇になり、私は遣り甲斐を失うと言う悪循環を繰

り返し続ける事になる。

今年転職をし、心機一転と思っていたのだが、転職後最初の賞与

支給を受けてみて、結局私の暮らしに「働く喜び」は結婚と共に失

われたとの実感を深めただけだった。

 

愛されてなどいない都合の良い相手として選別された結婚と承知

の上でいつかは変わると望みを持って踏み切った結婚だったけど

やはり最初に愛が無ければ愛される事も無く、遣り甲斐も奪われ

苦労ばかりで喜びとは縁遠い人生。それでも何かを見付け感謝を

しなければ「バチあたり」になるのだろうか?

 

何も喜びが無いのに感謝は出来ない。

苦労の先に達成感や喜びが無いのに、いつまでも頑張れない。

こんな事の連続でしか無い人生で、未来に幸福があると可能性も

信じる事が出来ない。

 

だから想う「神様は見ているだけで助けてはくれない。勝手に好きな事をして中には恩恵を受ける者がいるだけ」が真理なのだと。

私のこの人生で”感謝”する事が出来なくなったから助けないなん

て事が真理だとしたら、神様は「やらずボッタクリ」の詐欺になって

しまう。要は「感謝が先」は宗教家にとって都合が良かったからな

だけで実施の所、神様は公平でも無いし助けてもくれない。

それが真理。それでも最後に少しだけ希望。

 

成果=(才能+努力)×運

 

これが成果を求める公式。私の人生は運が無くて成果が少なかっ

たし、場合によってはゼロやマイナスになった時も運、そして先行

で運が大きくプラスになったら大躍進出来るかも?

この可能性がゼロで無いのが僅かな希望。

他に希望なんて持てやしない。