2月22日(金)
20日から21日にかけて、下関・北九州へ行くツアーに参加しました。
この地方に残る弥生時代の遺跡を見る旅です。
新幹線で、新山口へ。そこからはずっと、バス移動です。
土井ケ浜遺跡(下関市)
昼食のあと、さっそく、土井ケ浜遺跡に行きました。
今回、このツアーに参加したのは、土井ケ浜が含まれていたからです。
土井ケ浜は、最寄りの電車の駅から自力で行くには不便そう。
おまけに、300体もの弥生人の人骨が出土したところですから、せっかく博物館に着いても、
他に人気がなく森閑としていたらこわくておちおち見学どころではないのでは、と思いました。
人のいない博物館にひとりで行って、こわいなと思うことはたびたびあります。
その点、今回は30人近くの人と一緒でしたからね、多少骸骨を見せられても心強い。
が、展示している人骨は、すべてレプリカとのことでした。
ほっとしました。
土井ケ浜遺跡は、響灘に面する砂丘上の墓地の遺跡です。
時代は、弥生時代前期中葉から中期後半ごろまで。
人骨は、仰臥、肘や膝を曲げた状態で葬られています。
また頭を海方向に向けている人骨が多いそうです。
海を越えて、遠く朝鮮半島や中国から渡ってきた人たちだったのでしょうか。
ふるさとを望む形で埋葬されたい、この人たちの願いだったのかもしれません。
確かに、土井ケ浜に眠る人たちには身体的な特徴があり、面長で扁平な顔立ちに加え、
身長も縄文時代の人たちに比べると高いそうです。
渡来系弥生人の特徴というふうに捉えられています。
特徴のある人骨としては、鳥の骨を抱いた女性の人骨や、
サメの歯で作った鏃が14本も打ち込まれた凄惨な遺体があります。
他には、これほど激しく受傷している人骨は見当たらないため、
この人は戦争で亡くなったのではなく、祭祀など何らかの儀式の中で殺された?
あるいは、亡くなってから傷つけられたのでは、と考えられています。
縄文時代の人骨は、貝塚に含まれる炭酸カルシュウムのおかげで比較的見つかることが多いそうです。
弥生時代の人骨は、埋葬する場所の変化によって分解されてしまい残ることが少ないとのこと。
そういう意味で、この土井ケ浜に残る人骨は貴重な存在と言えます。
わたしたちは、どこから来たのか?
今のわたしたちと縄文時代の人々をつなぐ鍵となってくれそうです。
博物館の庭に作られたゴボウフラのモニュメント。
この貝から腕輪が作られました。
綾羅木郷遺跡(下関市川中平野)
1000基以上の地下の貯蔵穴が見つかっています。
時代は、弥生前期前半から中期前半にかけて。
土井ケ浜よりも少し早い遺跡です。
炭化米や石包丁、朝鮮系無文土器、土笛などが出土しています。
特に土笛はここで初めて出土したそうです。
貯蔵穴の模型です。深さ3メートルにも及ぶ貯蔵穴もあるそうです。
梶栗浜遺跡
綾羅木郷遺跡の台地下にある墓地です。
銅剣2本と多鈕細文鏡が出土しています。
土井ケ浜と同時期の墓地ですが、青銅器の所有などから見て、こちらのほうが有力集団の可能性があるそうです。
城野遺跡(北九州市小倉南区)
下関から橋を渡って北九州市に入ってきました。
北九州の埋蔵文化センターでは、城野遺跡に残る大型の方形周溝墓の展示を見ました。
この周溝墓の中には、二基の小型の石棺があります。
手前の少し大きい方の石棺には頭骨が残っていて、調べると4,5歳の幼児だったことがわかりました。
もう一つの石棺はそれよりも小さいため、もっと幼い子どもだったと思われます。
石棺の内部には大量の水銀朱があり、とても丁重に埋葬されています。
きっと、この地方の有力者の子どもだったのでしよう。
つづく