明日は岡山県津山市で映画「祈り」上映会&トークセッション(Facebookイベントページ)です。

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祈りと聞くと「えっ?宗教?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
祈りは宗教に関係なく、全ての人の心に在ります。
安心してお越しください(^^)

前売りの段階で220名+スタッフ40名!✨
まだお席ございます!
大阪駅から高速バス3時間(片道2750円)+バス20分くらいです。

明日は皆さんの心に響くお話が出来るよう研ぎ澄ませてまいります!(`・ω・´)
以下、私の祈りへの想いを綴らせていただきました。


【祈りへの想い】
〜「祈り」と「お願い」の違いとは?〜

あれはまだ、私が26歳の頃のことです。勤めていた証券会社をやめて公務員試験にチャレンジしたものの失敗。失意にうちのめされた心と、頭の中を真っ白にしたくて高野山を訪れました。そこで祈る人々の厳格な姿を見たとき、「なんで人は祈るんやろう」そんな疑問が浮かんだのです。その姿に惹かれながらも、浮かんだ疑問は消えません。あのときは一生懸命に考えましたが、結論も答えも得られませんでした。

そんな疑問を抱いていたことも忘れていたある日、私は病気を患いました。
慢性疲労症候群と線維筋痛症……慢性的な疲労感とともに全身に痛みとこわばりが広がり、日常の生活もままならなくなる病いです。その後、お灸と湯たんぽが功を奏し1年半の寝たきり生活から回復したと思ったのもつかの間、偶然に撮ったCTでお腹に大きな影があるのが見つかりました。得体の知れないものをお腹に抱えている恐怖、死への不安、いろんな感情がごちゃまぜになって毎晩パニックになりました。

そんなとき、パートナーが祈ってくれると、なぜか不思議とゆっくり寝られました。
不思議やなぁ……。
「祈りって、何? 昔、考えたことがあったけど、わからんかってん」
私はパートナーに聞きました。
「祈りとは、心が『祈り』の状態になること」
「祈ってるときは何を考えてるん?」
「なにも考えてない。何かが頭に浮かぶことがあっても、ぜーんぶ流して、ただ祈る」
「私が寝られますように、とか手術が成功しますように、とかは思わへんの?」
「それは『祈り』ではなくって、ただの『お願い』やね。祈りじゃない」
「祈りとお願いは、違う……?」
「うん。全然違う。みんなが初詣に行ってやるのはただの『お願い』。ただ神様に欲望をぶつけてるだけ。」
「そうなんや……」
「祈りは『いいようになる』ように、が近いかなぁ。病気が多絵さんにとって『いいようになる』ように……」
「いいようになるって、治るってこととは違うん?」
「違うよ。その人にとって価値ある経験や学びがありますように、ってことかなぁ」
「ふむふむ」
「祈りはその人が価値ある経験ができるように、学びがあるように、手助けをする感じ」
そんな話をしたような記憶があります。
「祈り」はその人を包み込む「愛」そのものなのかもしれません。

その人が、ただその人であるように。
何もかもが、いいようにありますように。
ただそのまま、在るということ。

そんな、許しと調和と愛の力が奇跡を起こすのだと思います。
その後、私は祈りの奇跡を何度も経験することになります。
鍼灸師・森美智代先生のところに導かれたり、光が見えたり、転移が消えたり、可能性はほぼゼロと言われていた腫瘍全摘が成功したり、身体の声が聞こえたり……たった1ヶ月の短い期間でしたが、数々の奇跡が起こりました。

退院後は、私も祈るようになりました。
私も祈りでたくさんの人がもっと幸せになるお手伝いをしたい。恩返しがしたい。
手術したからこそ病気の人の気持ちがわかります。

世界中の病気の人たちに祈りを届けたい。
そんな気持ちが胸から溢れだして止まらなくなりました。
人のために何かをしたいと模索していた私の人生は「祈り」へと集約されました。
「私は祈りに出逢いたかったんだ」
胸がいっぱいになって、言いようのない幸福感に包まれました。

私は祈りと出逢えて幸せです。
世界人類が平和でありますように。