食べもん粗末にしたら眼潰れる | ちっとも偉くない坊さん宝玖のスピリチュアルな話

ちっとも偉くない坊さん宝玖のスピリチュアルな話

仏教の難しい教えは言えないけれど…日々の霊視体験や神社仏閣参詣時の高次元・光の世界からのメッセージなどの真実を語ります。

朝6時、入院して初めて病室の窓のブラインドを開けると…
いきなり…
『お約束カラス』が1羽、窓の外を『右から左』に飛んで行きました!
{60D7305C-9E56-448E-AE7B-3F08ACCCFC56:01}

※お約束カラス
神社仏閣への出発時には必ず現れ
走る車の前を右から左に飛んで行き、その存在を知らしめ
ご神事への道中の安全を教えてくれる
私のソウルメイト『烏天狗の蒼鷺さん』系のお使いカラス
(私の魂の故郷・金星の仲間達)の事。

『カラスさん、アオギ(蒼鷺)さん、ありがとう!
お陰さまで私、元気だよ!』

さて、ペット産業の犠牲になっている犬達への思いからの肉断食でしたが
肉断食中止の理由の一つ『大慈大悲の食物連鎖』についてです。

仏教徒には不殺生(殺生はいけない)の戒律があります。
ここに自己犠牲の大慈大悲の教えを加味すれば
不殺生に対して間違った捉え方をしていたと気づきました

人間や
動物は、他の動植物を食べなければ生きていけず、
これは 『動植物の
恩恵を受けて生存している』という事です。
 

仏教的に言えば、食べられる動物は、
自らの体を提供して自己犠牲という形で
『慈悲』を行っている事になります。
 

でも食べられる時に動物は抵抗しますが、
これが自らの体を『どうぞ食べて下さい』と
喜んで提供する事は慈悲とは言いません。
 
断腸の思いで、かけがえの無いものを提供する
自己犠牲の心を慈悲と言います。

また動物の場合は、生きる為に食物を得る努力をします。

植物には心が無いので、食べられる時抵抗しません。
植物は成長する為に必要な養分を得る努力をしなくても
太陽の光、地中の水・養分を自然に取れます。
努力はないけど、動物に無抵抗のまま食べられてしまう宿命を持ちます。
 
植物は→小動物に食され→小動物は→大動物に食され→死んで土の養分となり→植物への食物連鎖。

動物も植物も自己犠牲をして『他を生かしている』
これが仏性で言う自己犠牲の「大慈大悲」で
食前に『頂きます。』と手を合わせる理由です。

今、私は病院食ですから、とても味が薄くて
普段なら美味しいとは思えません。
{8372F447-155C-4F70-BE79-52058850DB7B:01}
(これ↑夕食です。)
献立は、ご飯・魚のフリッターと大根おろし沿え・
野菜の和え物・豆腐のお味噌汁・お茶

でも肉断食・偏食より始まった眼の病気…
生かされている事への感謝…
その先の大慈大悲の学び…
入院してみてわかった人の思いと関係性、
このように様々な事を考えると…
出された病院食のお肉もお魚もとても有難く頂戴し
美味しいと感じています。

ご神事メンバーのYちゃんがこの事を聞いて
『昔、小さかった頃に、爺ちゃん達に言われた
[ご飯残したら眼つぶれる]ってホンマやったなぁ~』
と、私の眼の発病にユーモアを交えて笑います。

『ほんま…その通りや(笑)  眼つぶれかけたわ(笑)』

生命維持に必要な分だけ有難く頂く事が大切だと思います。

つい最近、俳優の榎木孝明さんが30日間[不食]で話題になりました。

榎木さんにも大宇宙からの大いなる導きがあって
食べなくても生きていける証明をしたと思います。

不食はスピリチャル的な意味合いにとらえれば
食べ物を粗末に扱って食べるなという教えである。

食べないの榎木さんと、ちゃんと食べようの私
榎木さんと私は逆な事を言ってるようでも
言わんとする所は同じです。

外国では食べ物がなくて困っている人々もいる。
飽食を反省し、食べ物を大切にして
『命を頂く』という事なのでは?

食べる事をもっと深く学ぶ為に、
ネットで『飽食(ほうしょく)』と入力すると…

【「飽食」の時代から「(阿)呆食」の時代へ 食卓から見える、家族の目指すべきカタチとは?】

が載っています。(URLが貼れないのですみません。)

ぜひご参考に。

※大慈大悲の教え↓
『白うさぎ(ブッダの前世物語)』

ブッダの前世では、白ウサギとして生を受けたことがありました。

ある冬の日、ウサギは、ヒマラヤの山の中で、
1人の行き倒れになった聖者を見つけました。

凍えそうに寒い山の中で、聖者は火にあたりながら、念仏を唱え、ただただ死の訪れを待っていました。

その聖者は、ここ数日食事を取れずに、その顔には死の影が浮かんでいました。

木陰から、その様子をそっと見ていた白ウサギの心に、弱っている聖者に対する『慈悲の心』がわいてきました。

ウサギが、そばに近づいて行くと、聖者は、自分のこともかまわずに、ウサギを抱き上げて、真っ白な雪のようなウサギの頭をなでながら、

「お前も寒いのか、火に当たりなさい」と、やさしく言いました。

ウサギは、聖者から溢れるような感謝の波動が自分に向かって流れてくるのを感じました。

ウサギは、うれしくてたまりませんでした。余りにうれしかったので、

「どこでも、いつでも精一杯、精一杯に生きるのよ」という意味の歌を歌って感謝の気持ちを表しました。

それはウサギが母ウサギから教わったものでした。

聖者は、ウサギに微笑みながら言いました。 
「ありがとう。本当にありがとう。わしを元気づけてくれようとしているんだね。

人間も君のような者ばかりならね…でも、わしはもう長くは生きられない。お前に会えてうれしかった。」

もちろんウサギには意味は分かりません。

しかし感謝の気持ちは、聖者の身体全体から波動となってウサギに伝わっていきました。

その時、ウサギは思いました。

「このままではこの人が死んでしまう。助けなくては。どうにかして助けなくては。

この寒い中、木の実が実っているわけはない。どうしよう。どうしよう…」

そしてウサギは、ひらめきました。それは目の前の火に飛び込むことでした。

「自分の身をこの人のために与えてしまおう。」

そう思った時、ウサギは、命を失う悲しさではなく、この人の為に命を捧げる喜びでいっぱいになりました。

ただ心残りは、母ウサギのことだったが、

「母さんもきっと許してくれるだろう。今この時、この生を精一杯生きなくちゃ!」と考えると、

すぐさまその事も気にはならなくなりました。

そして最後にもう一度…

「どこまでも、いつまでも精一杯、精一杯に生きるのよ。」

というあの歌を歌い終わると、一気に火の中に、飛び込んでしまいました。

聖者は、余りの急な出来事にびっくりしました。

しばらくして、そのウサギが飛び込んだ意味がわかってきました。

「あのウサギは、自分のような老いぼれを助けるために、我が身を犠牲にしてくれたのか!?」

聖者の眼は、涙でいっぱいになりました。

やがて『ありがとう』『ありがとう』と何度も言いながら、ウサギの肉を食べました。

すると不思議なことが起こりました。 


空からは様々な花が降り、高貴な香りもただよってくるではありませんか!

その時、聖者は確信しました。 

「きっとあのウサギは、高貴な神様の化身だったのだ。

自分の身を捧げることで、このわしの愚かさを教えて下さった。何という慈悲の心、何という愛の深さ…」

山をさまよい疲れて、行き倒れで死を覚悟していた聖者でしたが、

自分のこれまで悟りと思っていたものの小ささに愕然(がくぜん)としました。

何と短絡的で独りよがりな考えであったかを、ウサギによって教えられたのです。

聖者は自分が恥ずかしくなりました。

そこですっかりと体力を回復した聖者は、過去の自分の狭い考え方を捨て去る決意をし

「もっと精一杯生きよう。ただ山で修行しているだけでは駄目だ。

もっと今自分が考えていること、経験したことを世の中の人に伝えて行こう。

あのウサギの行為に報いる余生を送ろう」と。

その後、山を下り、街に戻った聖者は、

ウサギに贈られた命を無駄にせず、自分の後に続く、立派な人物を作るために学校を創設しました。

その学校の名は「精一杯のウサギの教え」という。

ウサギから教わった精一杯の生き方、自己犠牲の精神、人としてのあり方を教える為の学校です。

学校の屋根には、自分を助けてくれた小さなウサギをかたどった飾り物が据えられました。