仏教的に言えば、食べられる動物は、
でも食べられる時に動物は抵抗しますが、
植物は成長する為に必要な養分を得る努力をしなくても
太陽の光、地中の水・養分を自然に取れます。
努力はないけど、動物に無抵抗のまま食べられてしまう宿命を持ちます。
【「飽食」の時代から「(阿)呆食」の時代へ 食卓から見える、家族の目指すべきカタチとは?】
が載っています。(URLが貼れないのですみません。)
ブッダの前世では、白ウサギとして生を受けたことがありました。
凍えそうに寒い山の中で、聖者は火にあたりながら、念仏を唱え、ただただ死の訪れを待っていました。
その聖者は、ここ数日食事を取れずに、その顔には死の影が浮かんでいました。
木陰から、その様子をそっと見ていた白ウサギの心に、弱っている聖者に対する『慈悲の心』がわいてきました。
ウサギが、そばに近づいて行くと、聖者は、自分のこともかまわずに、ウサギを抱き上げて、真っ白な雪のようなウサギの頭をなでながら、
「お前も寒いのか、火に当たりなさい」と、やさしく言いました。
ウサギは、聖者から溢れるような感謝の波動が自分に向かって流れてくるのを感じました。
ウサギは、うれしくてたまりませんでした。余りにうれしかったので、
「どこでも、いつでも精一杯、精一杯に生きるのよ」という意味の歌を歌って感謝の気持ちを表しました。
それはウサギが母ウサギから教わったものでした。
聖者は、ウサギに微笑みながら言いました。
「ありがとう。本当にありがとう。わしを元気づけてくれようとしているんだね。
人間も君のような者ばかりならね…でも、わしはもう長くは生きられない。お前に会えてうれしかった。」
もちろんウサギには意味は分かりません。
しかし感謝の気持ちは、聖者の身体全体から波動となってウサギに伝わっていきました。
その時、ウサギは思いました。
「このままではこの人が死んでしまう。助けなくては。どうにかして助けなくては。
この寒い中、木の実が実っているわけはない。どうしよう。どうしよう…」
そしてウサギは、ひらめきました。それは目の前の火に飛び込むことでした。
「自分の身をこの人のために与えてしまおう。」
そう思った時、ウサギは、命を失う悲しさではなく、この人の為に命を捧げる喜びでいっぱいになりました。
ただ心残りは、母ウサギのことだったが、
「母さんもきっと許してくれるだろう。今この時、この生を精一杯生きなくちゃ!」と考えると、
すぐさまその事も気にはならなくなりました。
そして最後にもう一度…
「どこまでも、いつまでも精一杯、精一杯に生きるのよ。」
というあの歌を歌い終わると、一気に火の中に、飛び込んでしまいました。
聖者は、余りの急な出来事にびっくりしました。
しばらくして、そのウサギが飛び込んだ意味がわかってきました。
「あのウサギは、自分のような老いぼれを助けるために、我が身を犠牲にしてくれたのか!?」
聖者の眼は、涙でいっぱいになりました。
やがて『ありがとう』『ありがとう』と何度も言いながら、ウサギの肉を食べました。
すると不思議なことが起こりました。
空からは様々な花が降り、高貴な香りもただよってくるではありませんか!
その時、聖者は確信しました。
「きっとあのウサギは、高貴な神様の化身だったのだ。
自分の身を捧げることで、このわしの愚かさを教えて下さった。何という慈悲の心、何という愛の深さ…」
山をさまよい疲れて、行き倒れで死を覚悟していた聖者でしたが、
自分のこれまで悟りと思っていたものの小ささに愕然(がくぜん)としました。
何と短絡的で独りよがりな考えであったかを、ウサギによって教えられたのです。
聖者は自分が恥ずかしくなりました。
そこですっかりと体力を回復した聖者は、過去の自分の狭い考え方を捨て去る決意をし
「もっと精一杯生きよう。ただ山で修行しているだけでは駄目だ。
もっと今自分が考えていること、経験したことを世の中の人に伝えて行こう。
あのウサギの行為に報いる余生を送ろう」と。
その後、山を下り、街に戻った聖者は、
ウサギに贈られた命を無駄にせず、自分の後に続く、立派な人物を作るために学校を創設しました。
その学校の名は「精一杯のウサギの教え」という。
ウサギから教わった精一杯の生き方、自己犠牲の精神、人としてのあり方を教える為の学校です。
学校の屋根には、自分を助けてくれた小さなウサギをかたどった飾り物が据えられました。