あ、大丈夫、大丈夫、俺Mだから

あ、大丈夫、大丈夫、俺Mだから

あえて男性が、女性の性器に関する書物を執筆しようとするならば、女性の所有物に対して、著者として心の底からの敬意を抱いていなければ、それは不可能であろう。 フーシェ・ファン・デァ・スホート(『ヴァギナの文化史』「序文」)

目を覚ますと視界一面が真っ白だった。

 

 

 

仰向けに寝かされていて、背中に固い床を感じた。

 

 

 

映画を観に行こうとして家を出て、上映時間までのヒマ潰しに入った喫茶店でコーヒーを飲んでいたところで記憶が途切れている。

 

 

 

林さんはゆっくりと上体を起こすと、周囲を慎重に観察した。

 

 

 

一辺が目測で50メートルほどの正方形の部屋だった。

 

 

 

部屋のちょうど真ん中に林さんはいた。

 

 

 

林さんが着ている服を除けば部屋の中に白以外の色はなく、なにかが置いてあったり、壁にも床にもタイマーやモニター、スピーカーなどはなかった。

 

 

 

もちろん、レバーや取っ手などの突起物もない。

 

 

 

部屋を照らしている灯りがどこにあるのかわからなかったが、とりあえず現状では問題ない。

 

 

 

ポケットの中に入っていたはずのスマホは、当然のようになくなっていた。

 

 

 

今さら脱出ゲームか、ブームはとっくの昔に終わってるぞ。

 

 

 

そう思いながら林さんは慌てることなく立ち上がり、壁と床を丁寧に調べ始めた。

 

 

 

かなり時間がかかり、目が疲れてきた頃に隠しボタンを見つけた。

 

 

 

このボタンは罠か?

 

 

 

その可能性の方が低いと判断してボタンを押すと、林さんが寝かされていた場所の床から、小さな壺とiPadぐらいのサイズのモニターが現れた。

 

 

 

モニターを見ると「壺の中身のニオイをかいで、なんのニオイか当ててね!」と表示されている。

 

 

 

ほう、上等じゃねえか。

 

 

 

林さんは壺に鼻を近づけすぎないように注意してニオイをかいだ。

 

 

 

バニラの良い香りがした。

 

 

 

簡単すぎる。

 

 

 

念のために5回も確かめたが、バニラで間違いない。

 

 

 

「バニラ!」

 

 

 

所詮は子供騙しのゲームか、と林さんは感じながら大きな声で言った。

 

 

 

モニターの表示が「正解は "お日様のニオイ" だよ!」に変わった。

 

 

 

「クソッたれがああぁぁ!!お日様にニオイなんてねえだろうがああぁぁ!!」

 

 

 

林さんは叫びながら怒りにまかせてモニターを全力で蹴り飛ばして破壊した。

 

 

 

それがトリガーだったのかは不明だが、林さんの正面の壁から天井まで繋がるホールドが現れた。

 

 

 

しかし、その直後に左右の壁がゆっくりと動きだし、迫ってきた。

 

 

 

登らないと潰される!

 

 

 

そう思った瞬間に灯りが消え真っ暗になった。

 

 

 

ホールドどころか自分の手すら見えない。

 

 

 

林さんは慌てて手を前に突き出しながら前に進み、壁に突き当たるとホールドを探して手を上下左右に動かした。

 

 

 

左手がホールドに当たり手探りで登り始める。

 

 

 

なにも見えない状態で50メートル近い壁をフリーソロ、しかも時間制限まである。

 

 

 

壁の動きはどれぐらいの速さだった?

 

 

 

一瞬しか見えなかったが、秒速3センチほどだった気がする。

 

 

 

それが正しければ、潰されるまで12分ほど時間がある。

 

 

 

だが、こんな状態でいつも通りの登りができるわけがない。

 

 

 

しかも、ホールドはそれなりに悪かった。

 

 

 

これは脱出ゲームじゃない、本物のデスゲームだ。

 

 

 

なんで俺がこんな目に、林さんは泣きそうになりながら漆黒の中を登り続けた。

 

 

 

何回かフォールしそうになりながらも、とうとう天井に手が触れた。

 

 

 

「俺は彼を非常に愛していたので、彼のすべてが欲しかった!

 

俺たちは正式な夫婦ではなかったので、彼は他の男性から抱きしめられることもできた!

 

俺は彼を殺せば、他のどんな男性も二度と彼に決して触ることができないと思い、彼を殺した!」

 

 

 

林さんは歓喜の雄叫びを上げた。

 

 

 

きっと天井は扉になっている、あとはそれを開けるだけだ。

 

 

 

ところが、天井を押したり叩いたりしてみても開かない。

 

 

 

引けるような取っ掛かりもない。

 

 

 

隠しボタンなどを手探りで探しても見つからなかった。

 

 

 

絶望感に押しつぶされかけながら林さんは自分が死ぬまでの残り時間を計算しようとしたが、もはや時間の感覚は失われていた。

 

 

 

「俺が本当に焼きたかったのは、パンじゃなくてこの腐った世界だったんだ!!」

 

 

 

ヤケクソになった林さんは、怒号を響かせながら右手を思い切り握りしめて天井に叩きつけた。

 

 

 

すると、バキッという音がして天井にヒビが入った感覚がした。

 

 

 

まさかここまで登らせておいて最後は拳でブチ破るのか?

 

 

 

林さんは信じられなかったが、他に選択肢を思いつけなかったので、左手でホールドを保持して身体を支えながら天井を殴り続けた。

 

 

 

残り時間は何分だ?

 

 

 

いや、そんなことを考えている場合じゃない。

 

 

 

もはや痛みを通り越して感覚がなくなったころに右手が天井を突き破った。

 

 

 

天井に空いた穴から光が差す。

 

 

 

その光で左右の壁が、あと3分もすれば自分を潰すのがわかった。

 

 

 

死に物狂いで穴を広げて身体を捻じ込み、間一髪で天井を抜けることに成功した。

 

 

 

抜けた先で気絶するように倒れ込み、咳き込むような荒い呼吸をした。

 

 

 

右手は血だらけだ。

 

 

 

指の骨が何本か折れている。

 

 

 

 

 

しばらくして少し落ち着いてから周りを見ると、そこは京大ウォールだった。

 

 

 

偶然なのか必然なのか誰もいない。

 

 

 

林さんは呆然として動くことができなかった。

 

 

 

そこにナオちゃんが入ってきた。

 

 

 

「林さん来てたんすね〜」

 

 

 

ナオちゃんがいつも通りの口調で言った。

 

 

 

「あ、あぁ…」

 

 

 

右手を隠しながら、小さな声を無理やり絞り出して林さんは返事をした。

 

 

 

林さんは疲労困憊していたが、なんとか立ち上がって出入り口に向かった。

 

 

 

しかし、ドアノブを回しても鍵がかかっていて扉は開かなかった。

 

 

 

「壺の中身のニオイをかいで、なんのニオイか当ててね!」

 

 

 

耳元でナオちゃんの声がした。

 

 

「ラスベガスで当てる!」



ツアー中に資金が尽きそうだ、と嘆いていた仲間が急に大声を出した。



確かにビショップからラスベガスまでは車で行けるが、ギャンブルの本場で素人が勝てるとは思えなかった。



しかし、田舎での長いテント生活で娯楽に飢えていた他のメンバーは乗り気だったので、話のネタに俺も行くことにした。



賭けに参加せずにカジノの雰囲気だけ味わえば良い。





期待に胸を膨らませてハイテンションで出発したものの、長時間のドライブでラスベガスに入る頃には疲れていた俺たちは、目についた街外れの小さなカジノに車を止めた。



小さいながらも内装は清潔感があり、スロットマシーンやルーレット、ブラックジャック、ポーカーと映画で見たことがあるものは一通り揃っていた。



土曜日の夕方だったこともあって客もそれなりに多い。



仲間がそれぞれチップを買い、スロットマシーンとルーレットに分かれたが、ジュンだけは100ドル分のチップを持ってポーカーのテーブルに向かった。



俺は出発前から決めていた通り賭けに参加するつもりがなかったのでチップは買わなかったが、一人で動くジュンが気になったので観戦することにした。



ジュンが座ったのはテキサスホールデムのリングゲーム。



俺もルールだけは知っている。



ジュンが座ったテーブルのレートはSBが1ドル、BBが3ドルでジュンが持つ100ドル分のチップは参加できるミニマムだ。



参加者はジュンが入って6人。



先にプレイしていた5人は、男性4人と女性1人。



パッと見はみんな和やかな雰囲気だが、逆にそれが油断できない気もした。



ジュンの両側に座っている2人が700ドル近くのチップを持ち、他の3人は300ドル〜500ドルほどだ。

 

 

 

途中参加のジュンはポストブラインドで3ドル分のチップを置いた



初手の2枚が配られ、プリフロップ。



ジュンのアクションは3番目だ。



1人目が8ドルにレイズ、

2人目がコール、
ジュンもコール、
4人目がフォールド、
SBの5人目とBBの6人目もフォールド。



プレイヤーはジュンを含めて3人。



フロップで3枚のカードがオープンした。



ハートの6
ダイヤのQ
ハートの7



全員がチェック。



オープンした4枚目のカードはスペードの5。



最初にアクションするプレイヤーが28ドルをベット。

 

 

 

ポッドと同額の大きなベットだ。

 

 

 

次にアクションするプレイヤーはフォールドした。



ベットした男がなんとなくクリス・シャーマに似ていたので、俺の中で勝手にクリスと呼ぶことにした。

 

 


ジュンは少し間を置いてからコールした。

 

 

 

5枚目のカードはハートのAだった。

 

 

 

クリスは64ドルをベットした。

 

 

 

ジュンの手元に残っているチップはちょうど64ドル、つまりフォールドするかオールインしろと迫られている。

 

 

 

ジュンはポーカーフェイスを保ったままオールインした。

 

 

 

ショーダウン、お互いのハンドがオープンした。

 

 

 

クリスは
ハートのQ
ハートの9

フラッシュだ。



それに対してジュンは
ハートのK
ハートの10

同じくフラッシュだがジュンの方が強い。

 

 


ジュンは笑顔で獲得したチップを積み上げた。

 

 

 

しかし、よく見ると目は笑っていない。



カジノにレーキを取られても1ゲームでジュンのチップが2倍ほどになった。



「マジか…」



俺は思わず声に出して呟いた。





2ゲーム目、ジュンはプリフロップでフォールドした。

 

 

 

ジュン以外もフォールドしたのでウォークだ。

 

 

 

 


3ゲーム目のプリフロップのアクションはジュンからだ。



ジュンは8ドルにレイズ。



2番目にアクションするプレイヤーが24ドルにレイズ。



3番目のプレイヤーが72ドルにレイズした。

 

 

 

ボタン、SB、BBのプレイヤーはフォールドしたが、ジュンと2番目のプレイヤーはコールし、プリフロップだけでポッドが200ドルを超える大勝負になった。



3人のプレイヤー。



フロップでオープンしたのは
ハートのA
スペードのA
スペードのK

 

 


フロップで最初にアクションするジュンはチェック。

 

 

 

ここで2番目にアクションする唯一の女性プレイヤーがオールイン。

 

 


このプレイヤーは、マーゴ・ヘイズっぽい雰囲気があったのでマーゴと呼ぶことにした。



それに対して3番目のプレイヤーとジュンはコール。



(負けたら1ゲーム目の儲けが全額吹っ飛ぶぞ!)



手持ちのチップすべてを前に押し出すジュンを見つめながら、俺自身は賭けに参加していないのに自分の心臓が握り潰されるような緊張感を味わっていた。

 

 

 

ショーダウン、全員の手札がオープンされた。

 

 

 

マーゴの左隣のプレイヤーが

ダイヤのK
クローバーのK

フルハウスが完成している。

 

 

 

マーゴは
クローバーのA
ハートのK

より強いフルハウス。

 

 

 

そして、ジュンが
スペードのJ
ダイヤのJ

AとJのツーペア。

 

 

 

ジュンにとっては絶望的な状況だ。

 

 

 

4枚目がオープンした。

 

 

 

ハートのJ

 

 

 

ディーラーが5枚目のカードをオープンする。

 

 


最後のカードはクローバーのJだった。



ジュンがJの4カードを完成させた。



ポーカーテーブルを囲む全員が無言だった。



Aが3枚とKが2枚でフルハウスとしては最強の役が完成していて、圧倒的に有利だったマーゴは顔面蒼白だ。



大量のチップがジュンの前に集められると、ジュンはディーラーのそばに10ドルチップを置いてから席を立ち、持ち運び用のトレーにチップを収めた。



「夜メシは俺のオゴリです。」



テーブルを離れたジュンが俺に向かって言った。



「なんであのオールインにコールできた?プリフロップがJのポケットでも、あのフロップだとリスキーすぎる。」



「だってJはジュンのJですから。」

ビショップ・ツアー最終日の前日に、俺たちはロサンゼルス市内で一泊することにした。

 

 

宿泊場所の予約をしていなかったので、俺がレンタカーを一人で返しに行っている間に、仲間が空港の宿泊紹介所みたいなところで良さげな宿を探すことになった。

 

 

ちなみに俺たちの言う ‘’良さげな’’ とは ’’とにかく安い’’ とイコールである。

 

 

レンタカー屋で返却手続きしている時に、俺もここで情報取集できるんちゃうかと思って、担当のオッサンに「今日、予約なしで一泊したいんすけど、良いモーテルとかありますかね?」と聞いてみた。

 

 

するとオッサンは、「モーテルもアレなんで、ピンからキリまであって、どこがアレとかっていうのは難しいんすけど、アレっすね、アドベンチャー・モーテルはアレした方が良いっす、アレなんで」と言った。

 

 

これを翻訳すると「アドベンチャー・モーテルは絶対やめておけ」となる。

 

 

最終日にアドベンチャーするのは勘弁だな、と思いながら空港で仲間と合流し、「良いとこあった?」と聞くと、「うん、アドベンチャー・モーテルってとこ!」という言葉が満面の笑みと共に返ってきた。

2025年 アメリカ カリフォルニア州

 

 

 

 

 

「こういう時はな、すでに死んでる奴から疑うってのがセオリーだ。」

 

 

 

今まで観たポルノ映画で、ありとあらゆるストーリー展開を熟知していると豪語するヴァイソンさんが、知ったような口を利く。

 

 

 

「一連の出来事が起き始めた時点で死んでいて、その上で一番得するのは誰だ?よく考えてみろ。」

 

 

 

ヴァイソンさんが畳みかけるようにジュンに言った。

 

 

 

すでに死んでいるかは別として、ヴァイソンさんの言うことにも一理ある。

 

 

 

「この状況で一番得をする者…」

 

 

 

ジュンは記憶を遡った。

 

 

 

 

 

「体力:85点

 

射撃:0点

 

近接格闘:0点

 

クライミング:10点

 

精神状態:非常に不安定

 

性欲:測定不能

 

レッドブル依存症の傾向あり

 

これじゃあ、とてもじゃないけど………性欲が測定不能?………現場に出れません。」

 

 

 

ヴァイソンさんのエージェント適正テストの結果を見ながら、ジュンが呆れた声で言った。

 

 

 

「大阪とケニビア共和国の時で2回も現場を経験してんじゃねえか!」

 

 

 

ヴァイソンさんが言い返す。

 

 

 

「"いちゃりばちょーでー" のエージェントとして現場に出れないと言ってるんです。

 

いつかヴァイソンさんが言ってたじゃないですか、この業界にあるのはスタンドプレーによるチームワークだけだって。

 

今のヴァイソンさんじゃスタンドプレーなんてできません。」

 

 

 

「スタンドプレーといえば、京都に立ちバックに特化したデブ専風俗があるらしいんだけどな、一緒に行かねえか?」

 

 

 

「話を逸らさないでください。

 

だいたい、なんで体力だけそこそこあるんですか?」

 

 

 

「俺が相手してもらってる女性の大半はミケポさんだ。自然に体力がつくんだよ。」

 

 

 

「ミケポ?」

 

 

 

「体重が3桁以上あるぽっちゃり女性のことだ。エージェントのくせにそんなことも知らないのか?」

 

 

 

ヴァイソンさんを "いちゃりばちょーでー" にリクルートしたのは本当に正解だったのか?

 

 

 

ジュンは自問した。

 

 

 

しかし、ヴァイソンさんの、金庫やセキリティーを解除する腕は本物だし、全体的なスキルアップをしつつ、一人前のエージェントに育てるしかない。

 

 

 

「とにかく、今日の午前中は射撃訓練、午後は近接格闘を学んでください。

 

俺は、デスクワークを片付けます。」

 

 

 

「ところで、有給休暇の…」

 

 

 

「射撃訓練場は、この建物の地下です。今すぐ行ってください。」

 

 

 

ジュンはヴァイソンさんの言葉を遮った。

 

 

 

 

 

ジュンが自分のデスクに戻った途端に、長官室から呼び出された。

 

 

 

"いちゃりばちょーでー" の長官は、 "M " というコードネームの女性で、本名などは最高機密となっている。

 

 

 

外見から年齢は30代と噂されているが、真偽は不明だ。

 

 

 

「お前がリクルートしたヴァイソンさんとかいう奴、使いものにならん。さっさと追い出せ。」

 

 

 

ジュンが長官室に入ってドアを閉めると、間髪入れずに "M" が言った。

 

 

 

「大阪やケニビア共和国での任務は、ヴァイソンさんがいたからこそ成功しました。」

 

 

 

ジュンは応えた。

 

 

 

「それは、我々が雇った下請けとして使えただけだろ。 "いちゃりばちょーでー" のエージェントにはなれん。」

 

 

 

"M" の言う通りなのだが、ヴァイソンさんを手放すべきじゃないという直感がジュンにはあった。

 

 

 

「しかし、ミ…」

 

 

 

サバイバルナイフが目で追えないほどの速さでジュンの頬をかすめ、背後の壁に突き刺さった。

 

 

 

"M" は元エージェントだ、戦闘技術は健在らしい。

 

 

 

「二度と私の本名を職場で口にしようとするな。」

 

 

 

ジュンの目を睨みつけながら "M" が言う。

 

 

 

ジュンが "M" の本名を知っているのは、恋人だからだ。

 

 

 

ナオちゃんが死んでから色恋沙汰には無縁だったが、ジュンと "M" はいつの間にかお互いに惹かれ合い、流れに身を任せて付き合うことになった。

 

 

 

だが、"M" は公私混同することを絶対に許さなかった。

 

 

 

職場では、上司と部下、周りに2人の関係を悟らせるような言動をとるなとキツく言われていた。

 

 

 

「もし、ヴァイソンさんが任務の足手まといになるようなことがあったら、お前が自分の手で始末できるな?」

 

 

 

"M" がジュンを睨んだまま言った。

 

 

 

「できます。」

 

 

 

ジュンはハッキリと答えた。

 

 

 

「その言葉を忘れるな。

 

本題だ。

 

一週間後にヴァイソンさんとカリフォルニア州に飛べ。任務の詳細は追って指示する。」

 

 

 

「他のエージェントや協力者による支援は?」

 

 

 

「ない。」

 

 

 

「ヴァイソンさんは基礎訓練も終わってません。」

 

 

 

「この任務は、ヴァイソンさんがエージェントとして使えるかのテストも兼ねている。一週間後までに現場に出れる状態にしろ。

 

以上だ。」

 

 

 

"M" が、以上だ、と言ったら抵抗しても無駄だと知っているので、ジュンは長官室を出た。

 

 

 

 

 

ジュンは地下の射撃訓練場に向かった。

 

 

 

まともな構え方もせず、無茶苦茶に拳銃を撃っているヴァイソンさんを横目に、耳栓をしている射撃術教官の肩を叩いた。

 

 

 

ジュンと教官は、防弾ガラス越しに射撃訓練をしている者たちが見える部屋に入った。

 

 

 

教官が耳栓を外す。

 

 

 

「ヴァイソンさんはどうです?」

 

 

 

ジュンは教官に尋ねた。

 

 

 

「 見た通りだ。いくら指導しても的の右方向に弾が飛んじまう。センスのかけらもない。」

 

 

 

「実は、そのセンスのかけらもない男を一週間で仕上げてもらいたいんです。」

 

 

 

「無理を言うな。」

 

 

 

「アスコット競馬場に関するとっておきの情報があります。」

 

 

 

「チャンピオンステークスか?」

 

 

 

教官の目が輝く。

 

 

 

教官は競馬狂いで、海外競馬にも頻繁に大金を賭けていた。

 

 

 

「そうです。こんな噂が…」

 

 

 

ジュンは教官に小声で耳打ちした。

 

 

 

「…俺ができるだけのことはやろう。だが、約束はできんぞ。」

 

 

 

「わかりました。お願いします。」

 

 

 

ジュンは、近接格闘術の教官にも同じように有益な情報と引き換えに、ヴァイソンさんを一週間で仕上げるように頼んだ。

 

 

 

 

 

「ロサンゼルスまで行くのに民間機のエコノミークラスとはな。」

 

 

 

ヴァイソンさんが隣の座席でぼやく。

 

 

 

「前回までが特別だっただけです。経費を削減しなきゃならないのは、俺たちの業界も同じですよ。」

 

 

 

 

 

今回の任務は、拍子抜けするほど簡単だった。

 

 

 

< 壊滅状態の "sekissulogy"  の残党から、林さんの身柄をロサンゼルス市内で引き取って帰国せよ >

 

 

 

"M" が手加減してくれたのかもしれなかいが、楽観的になるのは禁物だ。

 

 

 

"sekissulogy" の残党が罠を仕掛けてくる可能性も排除できない。

 

 

 

それにしても、2年ほど前にせきしゅーが京大ウォールから持ち帰った林さんがまだ生きていて、その身柄を "M" が欲しがるということは、それだけの理由があるということか。

 

 

 

 

 

飛行機はほぼ定刻通りにロサンゼルス国際空港に着き、無事に2人とも入国できたのだが、ヴァイソンさんだけ入国審査に時間がかかった。

 

 

 

「なんでこんなにかかったんです?ヴァイソンさんは簡単な英語なら喋れるじゃないですか。」

 

 

 

「いや、それが入国審査官が若くてチャラい兄ちゃんでな、審査に関係ねえナンパの話題ばっかり振ってきたんだよ。」

 

 

 

「ナンパの話題?」

 

 

 

「アメリカに来た本当の目的はナンパじゃないのかとか、日本のナンパテクニックを教えてくれとか、そんなんがずっと続くんだ。

 

しかも、まともな質問をしてくる時は英語なんだけど、ナンパのことだけはハイテンションな日本語を使うっていう訳がわからねえ奴だった。」

 

 

 

ヴァイソンさんの話を聞いて、"ナンパ" は暗号で、その入国審査官がどこかの組織のエージェントか協力者じゃないかとジュンは一瞬疑った。

 

 

 

しかし、あまりにもアホすぎる話なので、その可能性は限りなく低いと判断した。

 

 

 

 

 

空港から一番近い駐車場に行き、事前に指定されていた車のセキリティーを特殊なキーと掌紋認証で解除して乗り込んだ。

 

 

 

「グローブボックスを開けてください。」

 

 

 

ヴァイソンさんがジュンの言う通りにすると、中には同じ型の拳銃が二丁と予備の弾倉が4本入っていた。

 

 

 

「本部で説明したことの確認ですが、1人につき拳銃一丁と弾倉2本です。お互いに同じ拳銃を待つので、弾倉を共有することができます。」

 

 

 

座席の下からホルスターを2つ取り出し、1つをヴァイソンさんに渡しながらジュンは言った。

 

 

 

「ジュンが予備の弾倉を全部持った方が良くないか?」

 

 

 

ヴァイソンさんがグローブボックスの中の弾倉を見ながら言う。

 

 

 

「予期せぬ事態に臨機応変に対応するのは大切ですが、基本は計画通りに進めるべきです。

 

ホルスターを身につけて、車外から見えないように拳銃と弾倉を取り出してください。」

 

 

 

ジュンは真剣な表情と声で応えてから、拳銃と弾倉を受け取ってホルスターに入れた。

 

 

 

ヴァイソンさんが正しく拳銃と弾倉をホルスターに収めたのを横目で確認してから、ジュンは車を動かした。

 

 

 

 

 

林さんの身柄の受け渡し場所まで20分ほどだ。

 

 

 

"sekissulogy"  の残党との待ち合わせ時間までは十分な余裕がある。

 

 

 

ジュンは、速すぎず遅すぎず慎重に運転した。

 

 

 

 

 

大通りから少し中に入った所に建っている、目立たない古い雑居ビルのすぐ近くに車を止めた。

 

 

 

「あのビルか?」

 

 

 

ヴァイソンが尋ねた。

 

 

 

「あのビルの2階で、受け渡しに使われる部屋以外は無人になっています。

 

銃の薬室に弾が入ってることを確認してください。」

 

 

 

確認を終えると、2人は車を降りてビルに入った。

 

 

 

薄暗い階段を上り2階に達する直前で、ジュンが喋るなというジェスチャーをしながらヴァイソンさんの胸に手の平を押し当てて、素早く動きを止めさせた。

 

 

 

「危険です。」

 

 

 

驚いた表情をしたものの声を出さなかったヴァイソンさんに、ジュンが囁いた。

 

 

 

「銃撃戦が行われた後の独特な匂いがします。

 

銃を抜いてセイフティーを解除してください。」

 

 

 

銃を構え、お互いの死角をカバーしながら足音を殺してゆっくりと2階の廊下を進んだ。

 

 

 

廊下の中ほどに扉が少しだけ開いている部屋が見えた。

 

 

 

受け渡しに使われるはずの部屋だ。

 

 

 

部屋の扉から1メートルほど離れた所で、ジュンが止まれというジェスチャーをした。

 

 

 

部屋から音がしないか、頭の中で90秒数えながら聴き耳を立てる。

 

 

 

その間、ヴァイソンさんは背後を警戒した。

 

 

 

なんの音もしなかった。

 

 

 

「入ります。」

 

 

 

ジュンが囁いて、ヴァイソンさんが頷いた。

 

 

 

流れるような動きでジュンが部屋の中に入ると、ヴァイソンさんが続く。

 

 

 

部屋の中は悲惨だった。

 

 

 

入ってすぐの10畳ほどの広さの居間は血の海で、床に3人が倒れており、1人はソファーに座ったまま蜂の巣にされていた。

 

 

 

壁には弾痕が無数にあった。

 

 

 

銃を構えたまま人が入れそうな場所を見ていくと、バスルームにはなにもなかったが、キッチンで1人死んでいた。

 

 

 

襲撃者は去った後だ。

 

 

 

「死体の中に林さんがいるか確認します。」

 

 

 

銃をホルスターに戻しながらジュンが言った。

 

 

 

手分けして死体の顔を見ていくが林さんはいなかった。

 

 

 

「林さんは拉致されました。俺らだけじゃ対処できない。支援が必要です。」

 

 

 

「こいつまだ生きてるぞ!」

 

 

 

ジュンの言葉が終わらない内にヴァイソンさんが言った。

 

 

 

ジュンは、ヴァイソンさんが指差す血塗れの男の頸動脈に指を当てた。

 

 

 

確かにわずかだが脈がある。

 

 

 

「誰にやられた?」

 

 

 

ジュンは瀕死の男の耳元で繰り返し尋ねた。

 

 

 

反応が返ってくることはなく、諦めかけた時に男は口から血を溢れさせながら、蚊の鳴くような声でなにかを呟いた。

 

 

 

「もう一度言ってくれ!」

 

 

 

聞き取れなかったジュンは、声を少し大きくして言った。

 

 

 

「………………マスター…………………ビ………ビショッ…………プ…………」

 

 

 

そこで男は息絶えた。

 

 

 

「なんと言ったか聞こえましたか?」

 

 

 

ジュンはヴァイソンさんの顔を見て尋ねた。

 

 

 

「マスターとビショップって言ってるように聞こえたな。」

 

 

 

「俺にもそう聞こえました。

 

マスターという言葉には心当たりがあります。

 

ビショップはなんだと思います?」

 

 

 

「…カリフォルニア州でビショップって言ったら決まってるだろ。」

 

 

 

そう応えるヴァイソンさんの顔つきが変わっていた。

「銃撃戦の匂いが残っているってことは、ここが襲撃されたのは俺たちが着く直前です。まだ追いつける、今すぐビショップに向かいます。」

 

 

 

「これが予期せぬ事態ってやつか。」

 

 

 

皮肉を言いながらヴァイソンさんは、ジュンと一緒にビルから走り出ると車に乗り込んだ。

 

 

 

ジュンはロサンゼルス市内を猛スピードで運転しながら、"いちゃりばちょーでー" の本部に連絡した。

 

 

 

しかし、応答がない。

 

 

 

もう一度試したが、結果は同じだ。

 

 

 

次に、個人的に信頼しているエージェント数人にかけてみたが、呼び出し音がするだけで一人も出ない。

 

 

 

本部も襲撃された?

 

 

 

いや、"sekissulogy" の攻撃にも耐えた "いちゃりばちょーでー" がそう簡単に壊滅するはずがない。

 

 

 

なにか別の理由がある。

 

 

 

「支援はありません。2人だけで林さんを奪還します。」

 

 

 

「勘弁しろよ!」

 

 

 

「ハイウェイに出たらスピードを上げます。」

 

 

 

ジュンは、ヴァイソンさんの言葉を遮るように言った。

 

 

 

「今でも150キロ出てるぞ!」

 

 

 

ヴァイソンさんが怒鳴る。

 

 

 

「せきしゅーのスポーツカーほどじゃないけど、この車もそれなりにカスタムされてます。」

 

 

 

ジュンがそう言った直後にサイレンが聞こえた。

 

 

 

ヴァイソンさんがバックミラーを見ると、ロサンゼルス市警のパトカーが1台追ってきている。

 

 

 

「街中でこんなスピード出すから警察に見つかっちまった!」

 

 

 

もうお手上げだといった口調でヴァイソンさんが言った。

 

 

 

「ところでヴァイソンさんは、"Numb/Encore" って曲を知ってますか?」

 

 

 

ジュンがヴァイソンさんの顔を見ながらニヤリと笑った。

 

 

 

「おい!!ジュンお前まさか!!」

 

 

 

ジュンがシフトレバーについている小さなボタンを押しながらアクセルを目一杯踏み込むと、車が急激に加速した。

 

 

 

同時に、アップテンポのイントロで始まる曲が爆音で鳴り響いた。

 

 

 

スピードメーターは240キロを超えている。

 

 

 

「まだ街中だ!!」

 

 

 

「予期せぬ事態に臨機応変に対応しているだけです。」

 

 

 

ヴァイソンさんが叫ぶと、ジュンはいつも通りの表情と口調で応えた。

 

 

 

コイツもイカれ野郎だったのか、ヴァイソンさんは今さら気づいた。

 

 

 

「このまま警察を振り切ります。」

 

 

 

「頼むから一般人を巻き込むことだけはするなよ。」

 

 

 

もうどうにでもなれ、という気持ちでヴァイソンさんは言った。

 

 

 

ジュンのリクルートに乗ったのは自分の意思だ、最後までやり切るしかない。

 

 

 

 

 

見事なハンドル捌きで一般車両や通行人をかわしてハイウェイに入った瞬間にジュンは、クラッチペダルを踏み込みながら、シフトレバーのボタンを押した。

 

 

 

車がさらに加速し、スピードメーターは450キロ近くを表示している。

 

 

 

このスピードなら警察のヘリコプターでも追跡できない。

 

 

 

「心当たりがあると言った言葉について説明します。

 

"マスター" は、"sekissulogy" の長官のコードネームです。」

 

 

 

他の車を次々と抜き去りながら、ジュンが言った。

 

 

 

「じゃあ、アイツらは自分たちのボスに殺されたってことか?」

 

 

 

「それはまだわかりません。

 

もう一つ言うと、これは罠の可能性が高いです。

 

襲撃のタイミング、ビショップへの誘導、本部や他のエージェントに連絡がつかない、怪しい要素が多すぎます。」

 

 

 

「罠だってわかっててビショップに向かって突っ込んでんのか!?」

 

 

 

「本部と連絡がつかない以上、他に林さんの奪還に繋がる手がかりはありません。」

 

 

 

「いったん退いて、本部がどうなってんのか確かめるべきじゃねえか?

 

だいたい、林さんがまだ生きてるかもわからねえ。」

 

 

 

「確かにその通りです。でも、なんとなく感じるんです、確信はないですが。」

 

 

 

「なにを感じるんだよ?」

 

 

 

ジュンは答えなかった。

 

 

 

「言えよ。」

 

 

 

ヴァイソンさんがせっつく。

 

 

 

「これはただの罠じゃない、もっと大きな裏がある気がします、根拠はありません。」

 

 

 

ジュンにしては珍しく歯切れが悪い言い方だった。

 

 

 

「根拠のない裏の正体を見るためにわざわざ罠に飛び込むのか?」

 

 

 

「そうです。

 

ヴァイソンさんは今なら車を降りれますが、俺がそう言っても降りない。違いますか?」

 

 

 

今度は、ヴァイソンさんが答えなかった。

 

 

 

 

 

ビショップの町に入ると、高速で走る3台のSUVの後ろ姿がかすかに見えた。

 

 

 

その直後に、左右の横道からそれぞれ2台ずつ同じ型のSUVが現れ、ジュンとヴァイソンさんの乗る車を追いかけ始めた。

 

 

 

SUVもカスタムされてるらしくかなり速い。

 

 

 

300キロは出ているだろう。

 

 

 

「やっぱり罠です。敵は挟み撃ちを狙ってます。」

 

 

 

「でも、俺たちの前を塞がなきゃ挟み撃ちにならねえぞ。」

 

 

 

「…俺たちが前の車列を追いかけ続けるように誘ってますね。」

 

 

 

「誘いに乗るのか?」

 

 

 

「乗ります。」

 

 

 

ジュンは間髪入れずに答えた。

 

 

 

「よし、やろうぜ。」

 

 

 

拳銃のセイフティーを解除しながらヴァイソンさんが言った。

 

 

 

 

 

前方の3台は、町を抜けるとバターミルクエリアに向かう道へ進んでいった。

 

 

 

オフロードに入ったら今のスピードは維持できない。

 

 

 

追いつけないままオフロードに入り、しばらく進んだ所で前の3台が止まった。

 

 

 

50メートルほど開けてジュンも停車する。

 

 

 

「始まります。車から出ないでください。」

 

 

 

3台の車から黒いコンバットスーツを着た兵隊がワラワラと出てきた。

 

 

 

それに混じってスーツを着た男が1人と、それを引きずるように歩かせて遠ざかっていく兵隊が2人見えた。

 

 

 

「あのスーツが林さんです。」

 

 

 

そう言いながら、ジュンがハンドルについているボタンを操作すると、バンパーから4本の銃口が伸びて連射し始めた。

 

 

 

「前の連中はこれで牽制できます。」

 

 

 

「後ろは?」

 

 

 

ヴァイソンさんが尋ねると、ジュンが別のボタンを押した。

 

 

 

トランクが開いて小型のガトリングガンが現れ、後方から接近する車列に向かって、凄まじい勢いで弾丸を放つ。

 

 

 

「この車は強力な防弾車だから、車の中にいる限りこっちが有利です。」

 

 

 

「敵の車も防弾だぞ。こっちが先に弾切れしたらどうする?」

 

 

 

「ある程度、敵が身を隠したら強行突破します。ロケットランチャーでも出てこなければ問題ありません。」

 

 

 

「あれがそのロケットランチャーってやつじゃねえのか?」

 

 

 

前方の車の後部座席から敵が引っ張り出した、筒状のものを指差しながらヴァイソンさんが言った。

 

 

 

「クソッ!」

 

 

 

ジュンが大声を出した途端、ロケットランチャーを持つ兵隊の頭が弾けて血しぶきが飛んだ。

 

 

 

近くにいた兵隊も2人、3人と頭を撃ち抜かれて倒れ、敵は慌てて車内や岩陰に身を隠した。

 

 

 

 

 

「ヒット。エネミー、ダウン。」

 

 

 

せきしゅーが、観測手用の一眼スコープを覗きながら言った。

 

 

 

次の標的に照準を合わせて、グッチがスナイパーライフルの引き金を引く。

 

 

 

 

 

「狙撃です、誰かが援護してくれてます。」

 

 

 

ジュンが状況に目を凝らしながら言った。

 

 

 

「誰が?支援はないんだろ?」

 

 

 

「わかりません。」

 

 

 

かすかに笑いながらジュンは答えた。

 

 

 

護衛していた2人の兵隊を狙撃で撃ち倒されながらも、林さんは車が入って行けない方向に逃げていく。

 

 

 

「林さんを2人で追いかけます。」

 

 

 

「おっしゃ。」

 

 

 

ジュンと同時にヴァイソンさんも車を降りて走り出した。

 

 

 

正体不明のスナイパーによる狙撃で敵が動けない中、林さんの背中を目指して全力疾走する。

 

 

 

ジュンは、自分たちの進路上に隠れていた敵を走りながら撃ち殺していった。

 

 

 

 

 

「そろそろ潮時やな。引き上げようや。」

 

 

 

「なぜ護衛だけで林さんは殺さない?」

 

 

 

グッチはスナイパーライフルを解体しながら、せきしゅーに尋ねた。

 

 

 

「存在せんからや。」

 

 

 

「どういう意味だ?」

 

 

 

「そのまんまの意味や。

 

出生届や戸籍はもちろん、書類やその他どこにもデータがない。

 

2年近く尋問したけど、一切なんの情報も吐かんかった、荒っぽい手を使ってもな。」

 

 

 

「殺さない理由になっていない。」

 

 

 

「俺たちは死人や、存在しない人間を殺すかどうかは生きてる奴らにまかせようや。」

 

 

 

理解ができないと言いたげなグッチに向かって、せきしゅーがニヤリと笑った。

 

 

 

「それより降りるんが一苦労やで、これ。」

 

 

 

2人はグランパの頂上からクライムダウンを始めた。

 

 

 

 

 

かなりの距離を走らされてジュンとヴァイソンさんは林さんに追いつくと、タックルして地面に押し倒した。

 

 

 

「…クソッ、疲れた、肺が痛え。」

 

 

 

大きく呼吸しながらヴァイソンさんが愚痴る。

 

 

 

「…林さんを確保できました、後は本部に連行すれば任務は成功です。」

 

 

 

息を整えながらジュンは応えた。

 

 

 

林さんは、地面に押さえつけられたまま無言で荒く呼吸している。

 

 

 

「でも、結局よくわからねえ。ジュンの言う裏は見えたのか?」

 

 

 

「…見えていません。」

 

 

 

「こういう時はな、すでに死んでる奴から疑うってのがセオリーだ。

 

一連の出来事が起き始めた時点で死んでいて、その上で一番得するのは誰だ?よく考えてみろ。」

 

 

 

ヴァイソンさんが畳みかけるようにジュンに言った。

 

 

 

すでに死んでいるかは別として、ヴァイソンさんの言うことにも一理ある。

 

 

 

「この状況で一番得をする者…」

 

 

 

ジュンが記憶を遡っていると、視界の隅に人影が見えて、そちらに素早く視線を送った。

 

 

 

「ヴァイソンさんはここで林さんと動かないでください!」

 

 

 

ジュンは大声で指示すると、拳銃を抜きながら人影に向かって走った。

 

 

 

「なんなんだよ。」

 

 

 

突然のことに対応できていないヴァイソンさんは、よくわからないまま指示に従った。

 

 

 

 

 

「ミレー!!」

 

 

 

岩が点在する荒野に1人で立つ "M" の50メートルほど前で止まると、ジュンは拳銃を構えて叫んだ。

 

 

 

"M" が振り向いて、ジュンと目を合わせた。

 

 

 

"M" = "マスター" 、本名がミレー。

 

 

 

"M" は "マスター" のMで、ミレーのM。

 

 

 

クソ単純でクソふざけてやがる。

 

 

 

ジュンは怒りにまかせて引き金を引きかけたが、ミレーに見つめられると撃てなかった。

 

 

 

ミレーは、数秒待ってジュンが自分を撃てないと確信してから、素早い抜き撃ちでジュンの右手を撃ち抜いた。

 

 

 

拳銃が吹っ飛び、痛みと衝撃でジュンは思わず地面に膝をついた。

 

 

 

ミレーが拳銃を構えもせずにブラブラとジュンに向かって歩いてきた。

 

 

 

「どうした、ジュン?こんなところで走ったり叫んだりして。そんなことしてないでもっとこの景色を楽しめ。

 

どこまでも広がる青空、遠くに連なる雪をかぶった山々、そしてたくさんの素晴らしい岩たち。

 

ビショップはロッククライマーの楽園だ。」

 

 

 

ジュンから2メートルほどの所でミレーは立ち止まると、いつもと変わらない口調で言った。

 

 

 

「目的はなんだ?」

 

 

 

ジュンは左手で右手をキツく押さえて止血しながら、ミレーを睨みつけた。

 

 

 

「特に理由はないが、なにもかもブチ壊したくなる時があるだろ?

 

林さんはブチ壊し方を知ってる。だから欲しい。

 

世界が壊れてお前も死ぬように私が仕組むたびに、お前はそれを阻止して生還した。

 

いい加減飽きてきたから、自分の手で殺してやろうと思ってな。」

 

 

 

どいつもこいつもイカれてやがる。

 

 

 

ミレーの答えを聞いてジュンは思った。

 

 

 

 

 

林さんを押さえつけたままヴァイソンさんが様子を見ていると、銃声と共にジュンが膝をついた。

 

 

 

ジュンが撃たれたらしい。

 

 

 

撃った女が歩いてきて、数メートル開けてジュンの右側に立つ。

 

 

 

ヴァイソンさんは、立ち上がって拳銃を抜くと、慎重にジュンの頭へ狙いをつけた。

 

 

 

すぐに林さんが逃げ出したが、そのまま行かせた。

 

 

 

 

 

「見ろ、ヴァイソンさんが拳銃をこっちに向けている。ここまで100メートル以上離れているのに当たると思っているのか。」

 

 

 

心底おもしろがっているかのようにミレーが言った。

 

 

 

ジュンもヴァイソンさんを見ると、ヴァイソンさんはジュンを狙っていた。

 

 

 

ヴァイソンさんはわかってる。

 

 

 

ジュンがそう思った瞬間に銃声が響き、ミレーの身体が崩れ落ちた。

 

 

 

「……不可能…だ…。」

 

 

 

肝臓から真っ暗な血を流しながら、ミレーが囁くような声を絞り出した。

 

 

 

ジュンは立ち上がり、左手で拳銃を拾うと、ミレーの頭に3発撃ち込んだ。

 

 

 

 

 

逃げた林さんを再び追いかけて捕まえると、車まで戻って縛り上げてから後部座席に座らせた。

 

 

 

敵の兵隊はすでに去った後で、死体だけが残されていた。

 

 

 

応急手当てしただけのジュンの右手では運転できないので、代わりにヴァイソンさんがハンドルを握る。

 

 

 

 

 

「つまり、"いちゃりばちょーでー" と "sekissulogy" の長官は同じ人間で、今回どころか何年も前から、俺やジュンを含めたいろんな人間を操って、世界滅亡を企んでた。それがあの女ってことか?」

 

 

 

ロサンゼルスに向かう車内で、ヴァイソンさんはジュンの説明を聞いて言った。

 

 

 

「そうです。それを知ってしまい、 "M" を殺した以上、俺もヴァイソンさんも "いちゃりばちょーでー" には戻れません。」

 

 

 

「じゃあ、これからどうする?後部座席の林さんをどうするかも考えないといけねえぞ。」

 

 

 

「…死んだはずの人間が援護してくれる世界です。生きてる俺たちにできることはもっとあると思いませんか?」

 

 

 

「死んだはずの人間か、似たような言葉をさっき使ったな。

 

どっちにしろ俺は最後までジュンとやるぜ。」

 

 

 

「それにしても、ヴァイソンさんは自分の弾が狙いより右に逸れるって自覚してたんですね。」

 

 

 

「いや、あれはジュンを狙って撃った。

 

あの女がジュンを痛ぶってから殺しそうだったし、それなら一思いに楽にしてやろうと思ってな。

 

そしたら偶然あの女に当たった。

 

そんなことより、空港の売店で無修正のエロ本買うから選ぶの手伝ってくれ。」

 

 

 

ヴァイソンさんを殺して埋めるにはピッタリの場所だな。

 

 

 

車外に広がる荒野を眺めながら、ジュンはベルトに仕込んだナイフに手をかけた。

 

 

 

 

 

ミッション:インポッシブル

レッド・ポイント

私は、違法賭博を行なっている闇カジノなどに潜入し、その実態を記事にしているルポライターだ。

 

 

 

 

そんな私に、大規模な「闇ボルダリングギャンブル」が開催されるとの情報が入ってきた。

 

 

 

長年に渡ってこの仕事をしているが、「闇ボルダリングギャンブル」という言葉は初めて聞いた。

 

 

 

違法賭博専門ルポライターとしての直感に突き動かされ、すぐに現地に向かった。

 

 

 

 

開催当日、様々なコネを最大限に使って、会場に入ることができた。

 

 

 

第一印象は、会場がとにかく広い。

 

 

 

まず目についたのは、形状が違う三枚の巨大なボルダリング壁。

 

 

 

高級酒のボトルが並ぶバーカウンター、大音量でアップテンポの曲を流すDJブース。

 

 

 

そして、なによりも人の多さに驚いた。

 

 

 

違法なのにこれほど派手にやれるとは。

 

 

 

警察関係にもかなりの額の金が流れているらしい。

 

 

 

 

本題に入ろう。

 

 

 

賭ける側のルールはシンプルだ。

 

 

 

現金でチップを買う。

 

 

 

痕跡の残るクレジットカードは使えない。

 

 

 

クライマーの勝負は常に1対1。

 

 

 

まず対戦するクライマー二人が、上裸で観客の前に同時に現れて、180° 回転して身体を見せる。

 

 

 

その後、同じ課題にお互いの登りが見えないようにトライする。

 

 

 

トライする順番は、クライマーが一枚ずつトランプカードを引いて、ハイカードを引いた方が先手となる。

 

 

 

 

二人とも完登した場合はトライ数が少ない方が勝ち、

 

 

二人とも完登できなかった場合はゾーン取れた方が勝ち、

 

 

二人ともゾーンを取った場合はトライ数が少ない方が勝ち、

 

 

二人ともゾーンを取れなかった場合は一手でも高く登れた方が勝ち、

 

 

同じホールドで落ちた場合はトライ数が少ない方が勝ち、

 

 

それでも勝敗がつかない場合はドローとなり賭けたチップが払い戻される。

 

 

 

 

クライマーのトライ時間はオブザベーションを含めて5分。

 

 

 

最小で10万円分、最大で1000万円分のチップを賭けることができる。

 

 

 

対戦する二人のクライマーに同時に賭けることはできない。

 

 

 

賭けに参加したければ、二人の内どちらか一人だけを選ばなければならない。

 

 

 

オッズの合計は常に100倍。

 

 

 

例えば、Aというクライマーのオッズが70倍なら、対戦するBのオッズは30倍となる。

 

 

 

勝ったクライマーの賞金は1000万円、ドローの場合は賞金なし。

 

 

 

 

一試合目が始まると、賭けに参加している者たちが

 

 

 

「ガンバ!!」

 

 

 

「落ちろ!!」

 

 

 

「性的に興奮する!!」

 

 

 

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ!!」

 

 

 

といった怒号が飛び交う。

 

 

 

 

私は様子を見ながら賭けに参加したが、小さく賭けた時しか当たらず、チップはどんどん減っていった。

 

 

 

本原稿の締め切り時間の都合上、賭けるならこれが最後の対戦だ。

 

 

 

100万円分あったチップが15万円分になってしまっていた。

 

 

 

賭けるのをやめてチップを換金し、マイナス85万円で帰るか?

 

 

 

 

 

迷っている間にクライマーの顔見せが始まった。

 

 

 

名前はあえて伏せるが、一人はロッククラミング界のトップクライマーだ。

 

 

 

それに対してもう一人は、ヴァイソンという無名のクライマー。

 

 

 

身長は165cmくらい。

 

 

 

細身でリーチは多少あるが、ボルダリングに必要と思われる筋肉がほとんどなく、場違いにもほどがある。

 

 

 

オッズは当然

 

 

トップクライマーが1.1倍

 

 

ヴァイソンが98.9倍

 

 

 

クライマーとして参加するには100万円のエントリー料が必要なはずだ。

 

 

わざわざ金をドブに捨てに来たのか?

 

 

 

 

その時、 "ムーンライト伝説 " のユーロビートリミックスがDJブースから流れているのが耳に入った。

 

 

 

大好きな曲だ。

 

 

 

不思議な奇跡クロスして

 

 

 

という歌詞を聴いた瞬間、ヴァイソンにすべてのチップを賭けた。

 

 

 

 

先手はトップクライマーだ。

 

 

 

余裕のある登りで、ゾーンを保持したが、そこでまさかの事態が起こった。

 

 

 

ボルトが緩んでいたのか、ホールドが半回転近く動いてしまったのだ。

 

 

 

その勢いでトップクライマーがフォール。

 

 

 

運営スタッフが駆け寄って、ホールドの位置を戻し、ボルトを締め直した。

 

 

 

ここでジャッジからのアナウンス。

 

 

 

残り時間は増えず、その代わりオンサイトの権利を与えるという裁定が下った。

 

 

 

当然、トップクライマーは猛抗議したが、裁定は覆らず、このトラブル中に残り時間を示すタイマーは止まらなかった。

 

 

 

 

残り時間は20秒を切っている。

 

 

 

トップクライマーは、凄まじいスピードで再トライしたが、ゾーンを保持してタイムアップ。

 

 

 

トップクライマーが1トライでゾーンなら、ヴァイソンがオンサイトすれば勝ちだ。

 

 

 

 

後手のヴァイソンは、オブザベーションに4分近くかけた。

 

 

 

" ムーンライト伝説 " のユーロビートリミックスは20分ほどの長さがあるので、まだ流れている。

 

 

 

残り時間1分を切ったところで、ヴァイソンがトライを開始した。

 

 

 

私は数多くの賭場に潜り込んだが、ここまで心拍数の上がる賭けは久しぶりだ。

 

 

 

ヴァイソンがゴールホールドを保持した時、ちょうど曲が終わった。

 

 

 

 

信じているのミラクル・ギャンブル

<6月19日(月)>

 

元を取れ、月会員費の元を取るんだ

 

 

 

一撃

赤(6級ぐらい?)×2

「今時、家トレなんて珍しいね。」

 

ハヤシ=サンが、自宅で日課のトレーニングをしていると、背後から声をかけられた。

 

振り向くと見知らぬ老婆が立っている。

 

「あんたの名は?」

 

老婆が尋ねる。

 

「俺は、ハヤシ=サン。」

 

「名字は?」

 

そう問われて、ハヤシ=サンは言葉に詰まった。

 

ハヤシ=サンは、ハヤシ=サンであり、名字がないからだ。

 

ふと、気配を感じて横を見ると、オビ=ワン・ケノービの幻がキャンパストレーニングしているのが見えた。

 

「ハヤシ=サン・ケノービ。」

 

老婆の目を真っすぐ見つめてハヤシ=サン・ケノービは応えた。

 

ハヤシ=サン・ケノービは、自宅に侵入してきた見知らぬ老婆を警察に突き出してから、家トレに戻った。

 

 

 

バトル・ロッククライミング

エピソード9

ケノービを継ぐ者

<6月13日(火)>

 

「今回は月会員様にも装備を持ってもらいます。」

 

店員さんはそう言いながら、クライミングシューズと液体チョーク、カラビナを次々と手渡してきた。

 

「こんなもの渡されても使い方わかりませんよ!」

 

俺は喚いた。

 

「クライミングシューズと液体チョークは狙って投げてください。

 

カラビナは敵の身体を刺してください。」

 

いくら時間がないからって適当すぎるだろ。

 

なんの説明にもなってない店員さんの言葉を聞いた俺は、仕方なくクライミングエリアという名の戦場へ足を踏み入れた。

 

 

 

敗退

赤(6級ぐらい?)×1

青(5級ぐらい?)×1

2024年 ケニビア共和国 密林地帯

 

 

 

 

せきしゅーの頸動脈から噴き出る生暖かい血を浴びながら、俺はこんなところで何をしているんだ、とジュンは思った。

 

 

もしかしたら、ジュンが抱きかかえている男は、せきしゅーのマスクをつけた別人なんじゃないか、そう疑ってせきしゅーの顔を引っ掻く。

 

 

「グッチもせきしゅーも死んでる!行くぞ!」

 

 

すぐそばにいるはずのヴァイソンさんの声が、妙に遠く聞こえる。

 

 

「ジュン!時間がない!」

 

 

ヴァイソンさんがまた怒鳴るが、身体を動かすことができない。

 

 

その原因は、脇腹の銃創からかなりの血を流しているからではなかった。

 

 

この戦いに意味を見出せないから動けないのだ。

 

 

「ジュン!しっかりしろ!」

 

 

ヴァイソンさんに平手で頬を思い切り叩かれて、ジュンはせきしゅーを支えていた手を離した。

 

 

せきしゅーの死体が、ドサリと地面に倒れる。

 

 

「これはなんのための任務なんですか?」

 

 

ジュンは、ヴァイソンさんの顔を虚な目で見ながら尋ねた。

 

 

「ミサイルの発射を止めるためだ!お前がそう言ったんだろうが!」

 

 

「でも、発射を止めれば大勢の人が死にます。」

 

 

「発射されたら第三次世界大戦が起こるぞ!それ以上の数の人間が死ぬ!」

 

 

ジュンは、現実から逃げるようにキツく目を閉じた。

 

 

「少数を犠牲にして多数を救うか、多数を犠牲にして少数を救うか、二つに一つだ!」

 

 

「…任務を続行しましょう。」

 

 

気力を振り絞って目を開けながら、ジュンは言った。

 

 

ヴァイソンさんが、かつてないほど真剣な表情で頷く。

 

 

 

2人は、鉈を振り回して蔓植物を切り裂きながら、ジャングルの中を全力疾走した。

 

 

しばらくすると、30メートル近い高さの岩壁が2人の前を塞いだ。

 

 

「俺だけで行く。」

 

 

ジュンが岩壁を登ろうとすると、ヴァイソンさんが言った。

 

 

「この壁のグレードは5.17c以上あります。ヴァイソンさんには登れません。」

 

 

「お前は腹を撃たれてるんだぞ、ジュン。ここに残って隠れてろ。雑な応急手当しかしてないんだ、失血死するなよ。」

 

 

「ただの擦り傷です。」

 

 

「ふざけたことを言うな。擦り傷なのは俺だ。」

 

 

そう虚勢を張るヴァイソンさんも、身体のいたるところから血を流している。

 

 

「でも…」

 

 

「おい、ジュン。」

 

 

ヴァイソンさんが、ジュンの言葉を遮って言った。

 

 

「俺をナメるな。」

 

 

ジュンの顔を真っ直ぐ見つめるヴァイソンさんの眼がギラリと光った。

 

 

 

 

「今まで口に出しませんでしたが、俺が所属しているのは "いちゃりばちょーでー" という組織です。」

 

 

車を走らせながらジュンは、ヴァイソンさんに状況の説明を始めた。

 

 

「俺が今回の任務を与えられた直後に、組織の本部と研究施設が武装集団に襲撃されました。

 

襲ったのは "sekissulogy" と呼ばれる組織です。

 

双方に多数の死傷者が出ましたが、"いちゃりばちょーでー" の本部はなんとか壊滅を免れました。

 

しかし、"sekissulogy" の襲撃部隊に研究施設が保管していた、ある物を奪われました。

 

あべのハルカスの金庫に入っていた解除キーです。」

 

 

「あの黒いカードを?本当に欲しい物は別にあって、目についたものを一切合切奪った中にたまたまカードが含まれてたってだけじゃないのか?」

 

 

ヴァイソンさんが訝しげな顔で尋ねる。

 

 

「連中の狙いは間違いなく、あのカードを奪うことです。それ以外に奪われた物はありません。

 

"いちゃりばちょーでー" は、カードの素材について研究していました。最新の報告では、結晶化したスカルパの可能性があるとのことでした。」

 

 

「嘘くせえ。スカルパって登攀学の仮説だろ?存在する証拠もなければ正体も不明、そんな感じじゃなかったか?」

 

 

「その通りです。」

 

 

スカルパは、膨大なエネルギーを生み出すことができる物質と考えられていて、その仮説を信じる者は、自然界に極めて少ない数だけ存在すると主張している。

 

 

「で、"いちゃりばちょーでー" の研究者は、あのカードがスカルパだって言ってんのか?」

 

 

「可能性がある、と言っていたんです。その報告書を作った研究者は"sekissulogy" の襲撃に巻き込まれて殺されました。」

 

 

「口封じだな。」

 

 

ヴァイソンさんは、勝手に断定した。

 

 

「それで、今回の俺の仕事は?」

 

 

「まだ続きがあります。

 

"いちゃりばちょーでー" を襲撃した部隊の中に、せきしゅーが殺したはずのデイブ・グラハムがいました。

 

ヴァイソンさんは、高浜原発でせきしゅーがデイブ・グラハムを殺すのを、直接その目で見ましたか?」

 

 

「いや、俺は二人の戦闘が始まるとさっさと逃げたから見ちゃいねえが…。

 

そいつがデイブ・グラハムの顔をコピーしたマスクをつけてただけじゃねえのか?」

 

 

「確かにその可能性はあります。

 

でも、"sekissulogy" は、せきしゅーが所属している組織なんです。」

 

 

「せきしゅーの、デイブ・グラハムを始末した、って言葉は嘘だったんじゃないかって疑ってんのか?」

 

 

「俺たちの業界に信頼や信用なんて存在しないのは、ヴァイソンさんも身に染みてわかっているはずです。」

 

 

「でも、せきしゅーは…」

 

 

「今回の任務は、ケニビア共和国の密林地帯にあるミサイル基地を破壊することです。

 

ケニビア共和国は知ってますか?」

 

 

ジュンはヴァイソンさんの言葉を遮った。

 

 

「名前を聞いたことがあるくらいだな。たしかアフリカ大陸にある国だよな?」

 

 

「そうです、アフリカ大陸の中央部にある国で、経済的に自立しているし、治安も比較的良い。首都以外にも大きな街がいくつかある先進国です。」

 

 

「そんな発展してる国のジャングルにミサイル基地が?」

 

 

「誰がなんの目的で造ったのかは、現時点では不明です。

 

しかし、その基地にあるミサイルはスカルパを搭載できる、という噂があります。

 

もし噂が本当なら、そのミサイルの威力は核ミサイルの比じゃありません。大陸一つが消える規模の爆発が起きます。

 

任務を受けた直後に"いちゃりばちょーでー" が襲撃されて、スカルパの可能性があるカードを奪われました。偶然とは思えない。」

 

 

「…俺の仕事は?」

 

 

ヴァイソンさんが再度尋ねた。

 

 

「ヴァイソンさんにお願いしたいのは…」

 

 

ジュンは、そこまで言って口を閉じた。

 

 

「なんなんだよ。」

 

 

焦れたヴァイソンが言う。

 

 

「ヴァイソンさん、この仕事を断るなら今です。」

 

 

ジュンがヴァイソンさんの目を見た。

 

 

「今回は任務というより戦争に近い。これ以上関わりたくないなら車を降りてください、ヴァイソンさんの秘密も拡散しません。」

 

 

「…この業界に信頼や信用なんて存在しない、って言ったな。その通りだ。

 

あるとすればスタンドプレーによるチームワークだけだ。だから、俺は俺の仕事をする、その代わり見返りはたっぷりもらうぞ。」

 

 

ヴァイソンさんの言葉を聞いて、せきしゅーはアクセルを踏み込んだ。

 

 

 

 

「ヴァイソンさんにお願いしたいのは、ミサイル基地のセキリティーの解除と、ミサイル発射のカウントダウンを止めることです。」

 

 

中部国際空港からほど近い、大きな倉庫に見える建物に車を向けながらジュンは言った。

 

 

入り口には頑丈そうなゲートとガードマンの詰所があった。

 

 

ガードマンは、軍人を思わせる体格と顔つきだ。

 

 

ジュンが、網膜と掌紋、声紋の三重セキリティーをパスするとゲートが開いた。

 

 

「カウントダウンを止めるのにキーやらが必要だったらどうするんだ?」

 

 

ジュンが倉庫の中に車を乗り入れ、駐車したタイミングでヴァイソンさんが尋ねる。

 

 

「もしそうなら、不可能を可能にするしかないですね、いつも通り。」

 

 

真顔でジュンが答えた。

 

 

本気で言ってんのか冗談のつもりなのかわかんねえな。

 

 

ヴァイソンさんは胸の内で呟きながら車を降りた。

 

 

「で、ここから空港まで歩くのか?遠くはないけど、30分はかかるぞ。」

 

 

ヴァイソンさんが横目でジュンを見ながら言う。

 

 

ジュンがヴァイソンさんの言葉を無視して、スマホをタップすると、なにもなかった場所にジェット機が現れた。

 

 

「光学迷彩装備の音速ジェット機は、 "sekissulogy" の専売特許じゃないですよ。

 

もっとも、これは4人乗りなんで最大速度マッハ8ですが。」

 

 

これは倉庫に偽装したジェット機の格納庫か。

 

 

なんでもありだな。

 

 

ヴァイソンさんは思った。

 

 

ジェット機に乗り込むとグッチがいた。

 

 

グッチは、ジュンやヴァイソンさんを見ても、挨拶どころ会釈すらしなかった。

 

 

 

 

格納庫の屋根がスライドしながら開いていく。

 

 

「作戦はシンプルです。

 

ミサイル基地に侵入して破壊する。

 

"いちゃりばちょーでー" の本部は半壊状態なので、援護はなし。

 

この3人だけで、デイブ・グラハムと"sekissulogy" が率いていると思われる武装集団を突破します。」

 

 

ジュンは、ジェット機の光学迷彩を起動し、発進させながら言った。

 

 

「おそらく、せきしゅーとも殺り合うことになります。

 

今回のせきしゅーは、僕らと同じ側の人間とは思えない。」

 

 

そう言ったジュンの口調はいつもと変わらない。

 

 

「それで思い出したんだけどな。

 

前回の仕事で高浜原発に向かう時に、せきしゅーが妙なことを言ってた。

 

 

もし俺が死んだら雑音がする、ただし一回だけや、あとは生きてる奴が叫んでくれ。

 

 

ってな。

 

たぶん暗号だと思うけど、よくわからねえ。」

 

 

ヴァイソンさんが肩をすくめながら言った。

 

 

「言葉通り受け取れば、その暗号はせきしゅーが死んだ時にしか意味がありません。

 

今は、暗号を解くより目の前の任務に集中すべきです。」

 

 

ジュンは淡々と応えた。

 

 

口調や表情はいつも通りを装ってるけど、せきしゅーに対してかなり頭に血が昇ってるな。

 

 

ヴァイソンさんは、そう感じた。

 

 

 

 

「状況が悪化しました。

 

ミサイル発射のカウントダウンが始まったという情報が入りました。

 

猶予は、発射を止めるために必要と思われる時間ギリギリしかありません。

 

着弾目標は中国で、本当にスカルパが搭載されているなら、日本を含む周辺諸国も吹き飛びます。」

 

 

ジュンがオートパイロットモードにして、操縦席から振り返りながら言った。

 

 

「クソッ、正気じゃねえな。」

 

 

ヴァイソンさんが吐き捨てるように言う。

 

 

「悪い知らせはまだあるんです。

 

ミサイルのカウントダウンを止めると、その瞬間に爆発します。」

 

 

「はあ?」

 

 

呆気にとられた表情を浮かべて、ヴァイソンさんが間抜けな声を漏らす。

 

 

「ミサイル基地で爆発すればアフリカ大陸が消えます。

 

つまり、カウントダウンを止めると爆発する仕掛けを解除してから、発射を止める必要があります。」

 

 

「殺し屋集団と戦いながら基地まで辿り着いてからのそれかよ、たったの3人で!ワンウェイミッションじゃねえか!」

 

 

さすがに無理があるだろという口調で、ヴァイソンさんが大声を出した。

 

 

ワンウェイミッションとは、生きて帰れない作戦のことだ。

 

 

「無駄口を叩いてないで速度を限界まで上げろ。」

 

 

グッチが初めて口を開いた。